戦国策 / 或謂建信君之所以事王者
或謂建信:「君之所以事王者,色也。葺之所以事王者,知也。色老而衰,知老而多。以日多之知,而逐衰惡之色,君必困矣。」建信君曰:「奈何?」曰:「並驥而走者,五里而罷;乘驥而御之,不倦而取道多。君令葺乘獨斷之車,御獨斷之勢,以居邯鄲;令之內治國事,外刺諸侯,則葺之事有不言者矣。君因言王而重責之,葺之軸今折矣。」建信君再拜受命,入言於王,厚任葺以事能,重責之。未期年而葺亡走矣。
新字:或謂建信:「君之所以事王者,色也。葺之所以事王者,知也。色老而衰,知老而多。以日多之知,而逐衰悪之色,君必困矣。」建信君曰:「奈何?」曰:「並驥而走者,五里而罷;乗驥而御之,不倦而取道多。君令葺乗独断之車,御独断之勢,以居邯鄲;令之内治国事,外刺諸侯,則葺之事有不言者矣。君因言王而重責之,葺之軸今折矣。」建信君再拝受命,入言於王,厚任葺以事能,重責之。未期年而葺亡走矣。
書き下し
或るひと建信に謂いて曰く、「君の王に事うる所以の者は、色なり。葺の王に事うる所以の者は、知なり。色は老いて衰え、知は老いて多し。日に多きの知を以て、衰悪の色を逐わば、君必ず困しまん」と。建信君曰く、「奈何」と。曰く、「驥に並びて走る者は、五里にして罷る。驥に乗じて之を御すれば、倦まずして道を取ること多し。君葺をして独断の車に乗り、独断の勢いを御して、以て邯鄲に居らしめよ。之をして内は国事を治め、外は諸侯を刺さしめば、則ち葺の事言わざる者有らん。君因りて王に言いて之を重責せよ、葺の軸今折れん」と。建信君再拝して命を受け、入りて王に言い、厚く葺に任ずるに事の能を以てし、之を重責す。未だ期年ならずして葺亡走せり。
現代語訳
ある人が建信君に言った。「あなたが王にお仕えする理由は、あなたの容色によるものです。葺(しゅう)が王にお仕えする理由は、その知恵によるものです。容色は年を取れば衰えますが、知恵は年を取るほど豊かになります。日ごとに増していく知恵をもって、衰えゆく容色を追い越されれば、あなたは必ず苦境に陥るでしょう。」建信君は言った。「それでは、どうすればよいのか。」その人は言った。「駿馬に並んで走ろうとする者は、五里も行かぬうちに疲れ果ててしまいます。ところが駿馬に乗ってそれを御していけば、疲れることなく多くの道のりを行くことができます。あなたは葺に、単独で判断を下せる車に乗せ、単独で決断できる権勢を与えて、邯鄲に居させるとよいでしょう。彼に、内では国政を治めさせ、外では諸侯への使者や工作を担当させれば、葺の仕事の中には(重要すぎて、あなたに)報告しないことも出てくるはずです。あなたはそれを理由に王に申し上げ、彼に厳しい責任を負わせなさい。そうすれば、葺という車軸は今にも折れてしまうでしょう。」建信君は再拝してこの助言を受け入れ、参内して王に申し上げ、葺に手厚く実務を任せ、その能力に応じて重い責任を負わせた。一年も経たないうちに、葺は追われて逃げ去ってしまった。
解説
この章句が説くこと
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