戦国策 / 平原君謂平陽君
平原君謂平陽君曰:「公子牟游於秦,且東,而辭應侯。應侯曰:『公子將行矣,獨無以教之乎?』曰:『且微君之命命之也,臣固且有效於君。夫貴不與富期,而富至;富不與粱肉期,而粱肉至;粱肉不與驕奢期,而驕奢至;驕奢不與死亡期,而死亡至。累世以前,坐此者多矣。』應侯曰:『公子之所以教之者厚矣。』僕得聞此,不忘於心。願君之亦勿忘也。」平陽君曰:「敬諾。」
新字:平原君謂平陽君曰:「公子牟游於秦,且東,而辞応侯。応侯曰:『公子将行矣,独無以教之乎?』曰:『且微君之命命之也,臣固且有効於君。夫貴不与富期,而富至;富不与粱肉期,而粱肉至;粱肉不与驕奢期,而驕奢至;驕奢不与死亡期,而死亡至。累世以前,坐此者多矣。』応侯曰:『公子之所以教之者厚矣。』僕得聞此,不忘於心。願君之亦勿忘也。」平陽君曰:「敬諾。」
書き下し
平原君、平陽君に謂いて曰く、「公子牟秦に游び、且に東せんとして、応侯を辞す。応侯曰く、『公子将に行かんとす、独り以て之を教うる無からんや』と。曰く、『且つ君の命の之に命ずる無きも、臣固より且に君に効する有らんとす。夫れ貴は富と期せずして、而も富至る。富は粱肉と期せずして、而も粱肉至る。粱肉は驕奢と期せずして、而も驕奢至る。驕奢は死亡と期せずして、而も死亡至る。累世以前、此に坐する者多し』と。応侯曰く、『公子の之を教うる所以の者厚し』と。僕此を聞くを得て、心に忘れず。願わくは君も亦た忘るる勿かれ」と。平陽君曰く、「敬んで諾す」と。
現代語訳
平原君は平陽君に言った。「公子牟が秦に遊学し、まさに東へ帰ろうとして応侯(范雎)に別れを告げた。応侯は言った。『公子はまさに旅立たれる、何か教えてくださることはないのか。』公子牟は言った。『たとえあなたが改めて求めなくとも、私はもとよりあなたにお伝えしたいことがありました。そもそも身分が貴くなれば、富を望まなくても富がおのずとやって来ます。富が至れば、贅沢な食事を望まなくてもそれがおのずとやって来ます。贅沢な食事が続けば、驕り高ぶった奢侈を望まなくてもそれがおのずとやって来ます。驕り高ぶった奢侈が続けば、死や滅亡を望まなくてもそれがおのずとやって来ます。これまでの世々、この道筋に陥った者は数多くいます。』応侯は言った。『公子の教えは、まことに手厚いものだ。』私(平原君)はこの話を聞いて以来、心に忘れずにいる。あなた(平陽君)もどうかこれを忘れないでほしい。」平陽君は「謹んでお受けいたします」と言った。
解説
この章句が説くこと
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説苑・敬慎魏の公子牟東行す。穰侯之を送りて曰わく、「先生将に冉の山東を去らんとす。独り一言の以て冉に教うる無きか」と。魏公子牟曰わく、「君の言無くんば、牟幾んど君に語ぐるを忘れん。君知るか、夫れ官は勢と期せずして、勢自ら至るを。勢は富と期せずして、富自ら至るを。富は貴と期せずして、貴自ら至るを。貴は驕と期せずして、驕自ら至るを。驕は罪と期せずして、罪自ら至るを。罪は死と期せずして、死自ら至るを」と。穰侯曰わく、「善し。敬んで明教を受けん」と。
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戦国策・應侯曰鄭人謂玉未理者璞應侯曰く、「鄭人玉の未だ理せざる者を璞と謂ひ、周人鼠の未だ腊せざる者を朴と謂ふ。周人璞を懷きて鄭の賈を過ぎりて曰く、『朴を買はんと欲するか。』鄭の賈曰く、『之を欲す。』其の朴を出だして、之を視るに、乃ち鼠なり。因りて謝して取らず。今平原君自ら賢と以ひ、名を天下に顯すも、然れども其の主父を沙丘に降して之を臣とせり。天下の王尚ほ猶ほ之を尊ぶ、是れ天下の王鄭の賈の智に如かざるなり、名に眩みて、其の實を知らざるなり。」
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戦国策・蔡澤見逐於趙蔡澤趙に逐はれ、韓・魏に入るに、塗に釜鬲を奪はるるに遇ふ。應侯の任ずる鄭安平・王稽、皆重罪を負ふを聞き、應侯內に慚ぢ、乃ち西のかた秦に入る。將に昭王に見えんとするに、人をして宣言せしめて以て應侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡澤は、天下の駿雄弘辯の士なり。彼一たび秦王に見えなば、秦王必ず之を相として君の位を奪はん。」應侯之を聞き、人をして蔡澤を召さしむ。蔡澤入るに、則ち應侯に揖す、應侯固より快からず、之を見るに及びて、又倨(おご)る。應侯因りて之を讓めて曰く、「子常に我に代りて秦に相たらんと宣言すと、豈に此れ有るか。」對へて曰く、「然り。」應侯曰く、「請ふ其の說を聞かん。」蔡澤曰く、「吁、何ぞ君の見ることの晚きや。夫れ四時の序は、功を成す者去る。夫れ人生まれて手足堅強、耳目聰明聖知なるは、豈に士の願ふ所に非ずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ德を天下に施し、天下懷き樂しみて敬愛し、願はくは以て君王と爲さんとするは、豈に辯智の期する所ならずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤復た曰く、「富貴顯榮、萬物を成理し、萬物各々其の所を得しめ、生命壽長にして、其の年を終へて夭傷せず、天下其の統を繼ぎ、其の業を守り、之を傳へて窮まり無く、名實純粹にして、澤千世に流れ、之を稱して絕ゆる毋く、天下と終ふるは、豈に道の符にして、聖人の所謂吉祥善事なるに非ずや。」應侯曰く、「然り。」澤曰く、「秦の商君の若き、楚の吳起、越の大夫種の若きは、其の卒(をはり)も亦た願ふ可きか。」應侯蔡澤の己を困しめんと欲して說くを知り、復た曰く、「何為れぞ不可ならん。夫れ公孫鞅孝公に事へ、身を極めて貳(に)する毋く、公を盡くして私に還らず、賞罰を信にして以て治を致し、智能を竭くし、情素を示し、怨咎を蒙り、舊交を欺き、魏の公子卬を虜にし、卒に秦の爲に將を禽にし、敵軍を破り、地を攘(はら)ふこと千里なり。吳起悼王に事へ、私をして公を害せしめず、讒をして忠を蔽はしめず、言苟合を取らず、行苟容を取らず、義を行ひて毀譽に固まらず、必ず伯主強國有り、禍凶を辭せず。大夫種越王に事へ、主困辱を離るるも、悉く忠にして解けず、主亡絕すと雖も、能を盡くして離れず、功多くして矜らず、貴富にして驕怠せず。此くの若き三子は、義の至り、忠の節なり。故に君子は身を殺して以て名を成す、義の在る所、身死すと雖も、憾悔無し、何為れぞ不可ならん。」蔡澤曰く、「主聖にして臣賢なるは、天下の福なり。君明にして臣忠なるは、國の福なり。父慈にして子孝、夫信にして婦貞なるは、家の福なり。故に比干忠なるも、殷を存する能はず、子胥知なるも、呉を存する能はず、申生孝なるも、晉惑亂す。是れ忠臣孝子有りて、國家滅亂するは、何ぞや。明君賢父の以て之を聽く無ければなり。故に天下其の君父を以て戮辱と爲し、其の臣子を憐れむ。夫れ死を待ちて而して後忠を立て名を成す可きは、是れ微子は仁足らず、孔子は聖足らず、管仲は大足らざるなり。」是に於て應侯善しと稱す。蔡澤少しく間を得て、因りて曰く、「商君・吳起・大夫種、其の人臣爲るや、忠を盡くし功を致せば、則ち願ふ可し。閎夭文王に事へ、周公成王を輔けしは、豈に亦た忠ならざらんや。君臣を以て之を論ずれば、商君・吳起・大夫種の、其の願ふ可き閎夭・周公と孰與(いづ)れぞや。」應侯曰く、「商君・吳起・大夫種は若かざるなり。」蔡澤曰く、「然らば則ち君の主、慈仁にして忠を任じ、舊故を欺かざること、秦の孝公・楚の悼王・越王と孰與れぞや。」應侯曰く、「未だ何如なるかを知らざるなり。」蔡澤曰く、「主の忠臣を親しむ、固より秦孝・越王・楚悼に過ぎず。君の主爲るや、亂を正し患を批(う)ち難を折り、地を廣め穀を殖やし、國を富ませ家を足らしめ主を強くし、威海內を蓋ひ、功萬里の外に章(あら)はるるは、商君・吳起・大夫種に過ぎず。而して君の祿位貴盛にして、私家の富三子に過ぐるも、身退かず、竊かに君の爲に之を危ぶむ。語に曰く、『日中すれば則ち移り、月滿つれば則ち虧く』と。物盛んなれば則ち衰ふるは、天の常數なり。進退・盈縮・變化は、聖人の常道なり。昔者、齊桓公九たび諸侯を合し、一たび天下を匡すも、葵丘の會に至りて、驕矜の色有り、畔く者九國なり。吳王夫差天下に適する無く、諸侯を輕んじ、齊・晉を凌ぎ、遂に身を殺し國を亡ぼせり。夏育・太史啟叱呼して三軍を駭かすも、然れども身庸夫に死せり。此れ皆盛を極むるに乘じて道理に及ばざればなり。夫れ商君孝公の爲に權衡を平らかにし、度量を正しくし、輕重を調へ、阡陌を決裂し、民に耕戰を教ふ、是を以て兵動きて地廣まり、兵休みて國富み、故に秦天下に敵無く、威を諸侯に立てり。功已に成り、遂に車裂を以てせらる。楚の地戟を持する者百萬なるに、白起數萬の師を率ゐて、以て楚と戰ひ、一戰して鄢・郢を舉げ、再戰して夷陵を燒き、南は蜀・漢を并せ、又韓・魏を越えて強趙を攻め、北に馬服を坑にし、四十餘萬の眾を誅屠し、流血川を成し、沸聲雷の若く、秦をして帝を業とせしむ。是より之後、趙・楚懾服して、敢へて秦を攻めざる者は、白起の勢なり。身の服する所の者、七十餘城なり。功已に成れるに、死を杜郵に賜はる。吳起楚悼の爲に無能を罷め、無用を廢し、不急の官を損じ、私門の請を塞ぎ、楚國の俗を壹にし、南は楊越を攻め、北は陳・蔡を并せ、橫を破り從を散じ、馳說の士をして口を開く所無からしむ。功已に成れるに、卒に支解せらる。大夫種越王の爲に草を墾き邑を創め、地を辟き穀を殖やし、四方の士を率ゐ、上下の力を合はせ、以て勁呉を禽にし、霸功を成す。勾踐終に棓(つゑ)にて之を殺せり。此の四子は、功を成して去らず、禍此に至れり。此れ所謂信じて詘する能はず、往きて反る能はざる者なり。范蠡之を知りて、超然として世を避け、長く陶朱と爲れり。君獨り博する者を觀ざるか。或は大投を分たんと欲し、或は功を分たんと欲す。此れ皆君の明らかに知る所なり。今君秦に相たり、計は席を下らず、謀は廊廟を出でずして、坐しながら諸侯を制し、利は三川に施し、以て宜陽を實たし、羊腸の險を決し、太行の口を塞ぎ、又范・中行の途を斬り、棧道千里なるを蜀・漢に通じ、天下をして皆秦を畏れしむ。秦の欲する所は得たり、君の功は極まれり。此れ亦た秦の功を分つの時なり。是くの如くにして退かずんば、則ち商君・白公・吳起・大夫種是れなり。君何ぞ此の時を以て相印を歸し、賢者に讓りて之を授けざる、必ず伯夷の廉有らん。長く應侯と爲り、世世孤と稱し、喬・松の壽有らん。孰與(いづ)れぞ禍を以て終ふると。此れ則ち君何くにか居らん。」應侯曰く、「善し。」乃ち延(ひ)き入れて坐せしめ上客と爲す。後數日、朝に入り、秦昭王に言ひて曰く、「客新たに山東より來る者に蔡澤有り、其の人辯士なり。臣の人を見ること甚だ眾きも、及ぶ者有る莫し、臣如かざるなり。」秦昭王召見し、與に語りて、大いに之を說び、拜して客卿と爲す。應侯因りて病と謝し、相印を歸さんことを請ふ。昭王彊ひて應侯を起こすも、應侯遂に篤しと稱し、因りて相を免ぜらる。昭王新たに蔡澤の計畫を說び、遂に拜して秦の相と爲し、東のかた周室を收む。蔡澤秦王に相たること數月、人或は之を惡み、誅を懼れ、乃ち病と謝して相印を歸し、號して剛成君と爲る。秦に十餘年、昭王・孝文王・莊襄王に事へ、卒に始皇帝に事ふ。秦の爲に燕に使し、三年にして燕太子丹をして秦に入質せしむ。
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戦国策・或謂韓相國或るひと韓の相國に謂いて曰く、「人の扁鵲を善くする所以の者は、臃腫有ればなり。扁鵲を善くせしめて臃腫無からしめば、則ち人之を為す莫し。今君事うる所を以て平原君に善くするは、秦に惡まるる為なり。而して平原君に善くするは乃ち秦に惡まるる所以なり。願わくは君之を熟計せよ。」
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戦国策・平原君請馮忌平原君、馮忌に請いて曰く、「吾北のかた上党を伐たんと欲し、兵を出だして燕を攻めんとす、何如」と。馮忌対えて曰く、「不可なり。夫れ秦将武安君公孫起の七勝の威に乗じて、馬服の子と長平の下に戦うを以て、大いに趙師を敗り、因りて其の余兵を以て、邯鄲の城を囲む。趙、亡敗の余衆を以て、破軍の敝守を収め、而して秦邯鄲の下に罷れ、趙守りて抜くべからざる者は、攻むるは難くして守る者は易きを以てなり。今趙は七克の威有るに非ず、而して燕は長平の禍有るに非ず。今七敗の禍未だ復せずして、罷れたる趙を以て強き燕を攻めんと欲す、是れ弱き趙をして強き秦の攻むる所以を為さしめ、強き燕をして弱き趙の守る所以を為さしむるなり。而して強き秦は兵を休めて趙の敝に承く、此れ乃ち強き呉の亡ぶる所以にして、弱き越の霸たる所以なり。故に臣未だ燕の攻むべきを見ざるなり」と。平原君曰く、「善きかな」と。
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史記 范雎蔡沢列伝応侯曰く、「善し。吾聞く、欲して足るを知らざれば、其の欲する所以を失ひ、有して止まるを知らざれば、其の有する所以を失ふ、と。先生幸ひに教ふ、睢敬みて命を受けん」と。是に於いて乃ち延き入れて坐せしめ、上客と為す。後数日、朝に入り、秦の昭王に言ひて、蔡澤を薦む。昭王召し見え、与に語り、大いに之を説び、拝して客卿と為す。応侯因りて謝病して相印を帰さんことを請ふ。昭王彊ひて応侯を起たしむるも、応侯遂に病篤しと称す。范睢相を免ぜらる。昭王新たに蔡澤の計画を説び、遂に拝して秦の相と為す。蔡澤秦に相たること数月、人或いは之を悪む。誅を懼れ、乃ち謝病して相印を帰し、綱成君と号す。秦に居ること十余年、昭王・孝文王・荘襄王に事へ、卒に始皇帝に事ふ。