史記 / 范雎蔡沢列伝
應侯曰:「善。吾聞『欲而不知足,失其所以欲;有而不知止,失其所以有』。先生幸教,睢敬受命。』於是乃延入坐,為上客。後數日,入朝,言於秦昭王曰:「客新有從山東來者曰蔡澤,其人辯士,明於三王之事,五伯之業,世俗之變,足以寄秦國之政。臣之見人甚眾,莫及,臣不如也。臣敢以聞。」秦昭王召見,與語,大說之,拜為客卿。應侯因謝病請歸相印。昭王彊起應侯,應侯遂稱病甐。范睢免相,昭王新說蔡澤計畫,遂拜為秦相,東收周室。蔡澤相秦數月,人或惡之,懼誅,乃謝病歸相印,號為綱成君。居秦十餘年,事昭王、孝文王、莊襄王。卒事始皇帝,
新字:応侯曰:「善。吾聞『欲而不知足,失其所以欲;有而不知止,失其所以有』。先生幸教,睢敬受命。』於是乃延入坐,為上客。後数日,入朝,言於秦昭王曰:「客新有従山東来者曰蔡沢,其人弁士,明於三王之事,五伯之業,世俗之変,足以寄秦国之政。臣之見人甚衆,莫及,臣不如也。臣敢以聞。」秦昭王召見,与語,大説之,拝為客卿。応侯因謝病請帰相印。昭王彊起応侯,応侯遂称病甐。范睢免相,昭王新説蔡沢計画,遂拝為秦相,東収周室。蔡沢相秦数月,人或悪之,懼誅,乃謝病帰相印,号為綱成君。居秦十余年,事昭王、孝文王、荘襄王。卒事始皇帝,
書き下し
応侯曰く、「善し。吾聞く『欲して(止)[足]るを知らざれば、その欲する所以を失ふ。有りて(足)[止]まるを知らざれば、その有る所以を失ふ』と。先生幸ひに教ふ、睢敬んで命を受けん」と。是に於いて乃ち延きて入れて坐せしめ、上客と為す。後数日、入朝し、秦の昭王に言ひて曰く、「客に新たに山東より来たる者有り、蔡沢と曰ふ。その人は弁士にして、三王の事、五伯の業、世俗の変に明らかなり、以て秦国の政を寄するに足る。臣の人を見ること甚だ衆きも、及ぶもの莫し、臣は如かざるなり。臣敢へて以て聞す」と。秦の昭王召見し、与に語り、大いにこれを説び、拝して客卿と為す。応侯因りて病と謝して相印を帰さんことを請ふ。昭王彊ひて応侯を起こさんとす、応侯遂に病甐しと称す。范睢相を免ぜられ、昭王新たに蔡沢の計画を説び、遂に拝して秦の相と為す、東のかた周室を収む。蔡沢秦に相たること数月、人或ひとこれを悪む、誅を懼れ、乃ち病と謝して相印を帰し、号して綱成君と為す。秦に居ること十余年、昭王・孝文王・荘襄王に事ふ。卒に始皇帝に事へ、
現代語訳
応侯は言った。「よくわかった。『欲しがって満足することを知らなければ、欲しがる元手そのものを失う。持っていて止まることを知らなければ、持っている元手そのものを失う』と聞いている。先生はありがたくも教えてくださった。私は謹んでお教えに従おう。」そこで蔡沢を招き入れて座らせ、上客としてもてなした。数日後、応侯は朝廷に入り、秦の昭王に申し上げた。「山東から新しく来た客に蔡沢という者がいる。この人は弁舌の士で、三王の事績、五覇の業、世の移り変わりに通じていて、秦の国政を任せるに足りる。私はこれまで大勢の人を見てきたが、彼に及ぶ者はなく、私も彼には及ばない。あえて申し上げる。」秦の昭王は蔡沢を召して会い、語り合って大いに気に入り、客卿に任じた。応侯はそこで病気を理由に宰相の印綬を返上したいと願い出た。昭王は無理にでも応侯を引き止めようとしたが、応侯はとうとう病が重いと称した。范睢は宰相を免ぜられ、昭王は蔡沢の新しい計画を気に入って、ついに彼を秦の宰相に任じた。蔡沢は東の周の王室を併合した。蔡沢が秦の宰相となって数か月すると、彼を悪く言う者が出てきたので、蔡沢は処刑されるのを恐れて、病気を理由に宰相の印綬を返上し、綱成君と称した。蔡沢は秦に十年余りいて、昭王・孝文王・荘襄王に仕えた。最後には始皇帝に仕え、
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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史記 范雎蔡沢列伝蔡沢笑ひて謝して去り、その御者に謂ひて曰く、「吾粱を持し肥を刺歯し、馬を躍らせて疾く駆け、黄金の印を懐き、紫綬を要に結び、人主の前に揖譲し、肉を食らひ富貴なること、四十三年にして足れり」と。去りて趙に之き、逐はる。韓・魏に之き、釜鬲を涂に奪はるるに遇ふ。応侯の鄭安平・王稽を任じて皆重罪を秦に負ひ、応侯内に慚づるを聞き、蔡沢乃ち西して秦に入る。将に昭王に見えんとし、人をして宣言せしめて以て応侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡沢は、天下の雄俊弘弁の智士なり。彼一たび秦王に見えば、秦王必ず君を困しめて君の位を奪はん」と。応侯聞きて曰く、「五帝三代の事、百家の説、吾既にこれを知る。衆口の弁、吾皆これを摧く。是れ悪んぞ能く我を困しめて我が位を奪はんや」と。人をして蔡沢を召さしむ。蔡沢入り、則ち応に揖す。応侯固より快からず、これに見ゆるに及び、また倨る。応侯因りてこれを譲めて曰く、「子嘗て宣言して我に代はりて秦に相たらんと欲すと、寧ろこれ有るか」と。対へて曰く、「然り」と。応侯曰く、「請ふその説を聞かん」と。蔡沢曰く、「吁、君何ぞこれを見ることの晩きや。夫れ四時の序、功を成す者は去る。夫れ人生まれて百体堅彊、手足便利、耳目聡明にして心聖智なるは、豈に士の願ひに非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡沢曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ徳を施し、志を天下に得、天下懐楽敬愛してこれを尊慕し、皆願ひて以て君王と為す、豈に弁智の期に非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡沢また曰く、「富貴顕栄、万物を成理し、各々その所を得しむ。性命寿長、その天年を終へて夭傷せず。天下その統を継ぎ、その業を守り、これを無窮に伝ふ。名実純粋、沢千里に流れ、世世これを称して絶ゆる無く、天地と終始す。豈に道徳の符にして聖人の所謂吉祥善事なる者に非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。
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戦国策・蔡澤見逐於趙蔡澤趙に逐はれ、韓・魏に入るに、塗に釜鬲を奪はるるに遇ふ。應侯の任ずる鄭安平・王稽、皆重罪を負ふを聞き、應侯內に慚ぢ、乃ち西のかた秦に入る。將に昭王に見えんとするに、人をして宣言せしめて以て應侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡澤は、天下の駿雄弘辯の士なり。彼一たび秦王に見えなば、秦王必ず之を相として君の位を奪はん。」應侯之を聞き、人をして蔡澤を召さしむ。蔡澤入るに、則ち應侯に揖す、應侯固より快からず、之を見るに及びて、又倨(おご)る。應侯因りて之を讓めて曰く、「子常に我に代りて秦に相たらんと宣言すと、豈に此れ有るか。」對へて曰く、「然り。」應侯曰く、「請ふ其の說を聞かん。」蔡澤曰く、「吁、何ぞ君の見ることの晚きや。夫れ四時の序は、功を成す者去る。夫れ人生まれて手足堅強、耳目聰明聖知なるは、豈に士の願ふ所に非ずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ德を天下に施し、天下懷き樂しみて敬愛し、願はくは以て君王と爲さんとするは、豈に辯智の期する所ならずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤復た曰く、「富貴顯榮、萬物を成理し、萬物各々其の所を得しめ、生命壽長にして、其の年を終へて夭傷せず、天下其の統を繼ぎ、其の業を守り、之を傳へて窮まり無く、名實純粹にして、澤千世に流れ、之を稱して絕ゆる毋く、天下と終ふるは、豈に道の符にして、聖人の所謂吉祥善事なるに非ずや。」應侯曰く、「然り。」澤曰く、「秦の商君の若き、楚の吳起、越の大夫種の若きは、其の卒(をはり)も亦た願ふ可きか。」應侯蔡澤の己を困しめんと欲して說くを知り、復た曰く、「何為れぞ不可ならん。夫れ公孫鞅孝公に事へ、身を極めて貳(に)する毋く、公を盡くして私に還らず、賞罰を信にして以て治を致し、智能を竭くし、情素を示し、怨咎を蒙り、舊交を欺き、魏の公子卬を虜にし、卒に秦の爲に將を禽にし、敵軍を破り、地を攘(はら)ふこと千里なり。吳起悼王に事へ、私をして公を害せしめず、讒をして忠を蔽はしめず、言苟合を取らず、行苟容を取らず、義を行ひて毀譽に固まらず、必ず伯主強國有り、禍凶を辭せず。大夫種越王に事へ、主困辱を離るるも、悉く忠にして解けず、主亡絕すと雖も、能を盡くして離れず、功多くして矜らず、貴富にして驕怠せず。此くの若き三子は、義の至り、忠の節なり。故に君子は身を殺して以て名を成す、義の在る所、身死すと雖も、憾悔無し、何為れぞ不可ならん。」蔡澤曰く、「主聖にして臣賢なるは、天下の福なり。君明にして臣忠なるは、國の福なり。父慈にして子孝、夫信にして婦貞なるは、家の福なり。故に比干忠なるも、殷を存する能はず、子胥知なるも、呉を存する能はず、申生孝なるも、晉惑亂す。是れ忠臣孝子有りて、國家滅亂するは、何ぞや。明君賢父の以て之を聽く無ければなり。故に天下其の君父を以て戮辱と爲し、其の臣子を憐れむ。夫れ死を待ちて而して後忠を立て名を成す可きは、是れ微子は仁足らず、孔子は聖足らず、管仲は大足らざるなり。」是に於て應侯善しと稱す。蔡澤少しく間を得て、因りて曰く、「商君・吳起・大夫種、其の人臣爲るや、忠を盡くし功を致せば、則ち願ふ可し。閎夭文王に事へ、周公成王を輔けしは、豈に亦た忠ならざらんや。君臣を以て之を論ずれば、商君・吳起・大夫種の、其の願ふ可き閎夭・周公と孰與(いづ)れぞや。」應侯曰く、「商君・吳起・大夫種は若かざるなり。」蔡澤曰く、「然らば則ち君の主、慈仁にして忠を任じ、舊故を欺かざること、秦の孝公・楚の悼王・越王と孰與れぞや。」應侯曰く、「未だ何如なるかを知らざるなり。」蔡澤曰く、「主の忠臣を親しむ、固より秦孝・越王・楚悼に過ぎず。君の主爲るや、亂を正し患を批(う)ち難を折り、地を廣め穀を殖やし、國を富ませ家を足らしめ主を強くし、威海內を蓋ひ、功萬里の外に章(あら)はるるは、商君・吳起・大夫種に過ぎず。而して君の祿位貴盛にして、私家の富三子に過ぐるも、身退かず、竊かに君の爲に之を危ぶむ。語に曰く、『日中すれば則ち移り、月滿つれば則ち虧く』と。物盛んなれば則ち衰ふるは、天の常數なり。進退・盈縮・變化は、聖人の常道なり。昔者、齊桓公九たび諸侯を合し、一たび天下を匡すも、葵丘の會に至りて、驕矜の色有り、畔く者九國なり。吳王夫差天下に適する無く、諸侯を輕んじ、齊・晉を凌ぎ、遂に身を殺し國を亡ぼせり。夏育・太史啟叱呼して三軍を駭かすも、然れども身庸夫に死せり。此れ皆盛を極むるに乘じて道理に及ばざればなり。夫れ商君孝公の爲に權衡を平らかにし、度量を正しくし、輕重を調へ、阡陌を決裂し、民に耕戰を教ふ、是を以て兵動きて地廣まり、兵休みて國富み、故に秦天下に敵無く、威を諸侯に立てり。功已に成り、遂に車裂を以てせらる。楚の地戟を持する者百萬なるに、白起數萬の師を率ゐて、以て楚と戰ひ、一戰して鄢・郢を舉げ、再戰して夷陵を燒き、南は蜀・漢を并せ、又韓・魏を越えて強趙を攻め、北に馬服を坑にし、四十餘萬の眾を誅屠し、流血川を成し、沸聲雷の若く、秦をして帝を業とせしむ。是より之後、趙・楚懾服して、敢へて秦を攻めざる者は、白起の勢なり。身の服する所の者、七十餘城なり。功已に成れるに、死を杜郵に賜はる。吳起楚悼の爲に無能を罷め、無用を廢し、不急の官を損じ、私門の請を塞ぎ、楚國の俗を壹にし、南は楊越を攻め、北は陳・蔡を并せ、橫を破り從を散じ、馳說の士をして口を開く所無からしむ。功已に成れるに、卒に支解せらる。大夫種越王の爲に草を墾き邑を創め、地を辟き穀を殖やし、四方の士を率ゐ、上下の力を合はせ、以て勁呉を禽にし、霸功を成す。勾踐終に棓(つゑ)にて之を殺せり。此の四子は、功を成して去らず、禍此に至れり。此れ所謂信じて詘する能はず、往きて反る能はざる者なり。范蠡之を知りて、超然として世を避け、長く陶朱と爲れり。君獨り博する者を觀ざるか。或は大投を分たんと欲し、或は功を分たんと欲す。此れ皆君の明らかに知る所なり。今君秦に相たり、計は席を下らず、謀は廊廟を出でずして、坐しながら諸侯を制し、利は三川に施し、以て宜陽を實たし、羊腸の險を決し、太行の口を塞ぎ、又范・中行の途を斬り、棧道千里なるを蜀・漢に通じ、天下をして皆秦を畏れしむ。秦の欲する所は得たり、君の功は極まれり。此れ亦た秦の功を分つの時なり。是くの如くにして退かずんば、則ち商君・白公・吳起・大夫種是れなり。君何ぞ此の時を以て相印を歸し、賢者に讓りて之を授けざる、必ず伯夷の廉有らん。長く應侯と爲り、世世孤と稱し、喬・松の壽有らん。孰與(いづ)れぞ禍を以て終ふると。此れ則ち君何くにか居らん。」應侯曰く、「善し。」乃ち延(ひ)き入れて坐せしめ上客と爲す。後數日、朝に入り、秦昭王に言ひて曰く、「客新たに山東より來る者に蔡澤有り、其の人辯士なり。臣の人を見ること甚だ眾きも、及ぶ者有る莫し、臣如かざるなり。」秦昭王召見し、與に語りて、大いに之を說び、拜して客卿と爲す。應侯因りて病と謝し、相印を歸さんことを請ふ。昭王彊ひて應侯を起こすも、應侯遂に篤しと稱し、因りて相を免ぜらる。昭王新たに蔡澤の計畫を說び、遂に拜して秦の相と爲し、東のかた周室を收む。蔡澤秦王に相たること數月、人或は之を惡み、誅を懼れ、乃ち病と謝して相印を歸し、號して剛成君と爲る。秦に十餘年、昭王・孝文王・莊襄王に事へ、卒に始皇帝に事ふ。秦の爲に燕に使し、三年にして燕太子丹をして秦に入質せしむ。
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史記 范雎蔡沢列伝「夫れ商君・呉起・大夫種は、その人臣と為りて忠を尽くし功を致すは則ち願ふべし。閎夭の文王に事へ、周公の成王を輔くるや、豈にまた忠聖ならずや。君臣を以てこれを論ずれば、商君・呉起・大夫種のその願ふべきは、閎夭・周公といづれぞや」と。応侯曰く、「商君・呉起・大夫種は若かざるなり」と。蔡沢曰く、「然らば則ち君の主の慈仁にして忠に任じ、旧故に惇厚にして、その賢智と有道の士とに膠漆たり、義として功臣に倍かざるは、秦の孝公・楚の悼王・越王といづれぞや」と。応侯曰く、「未だ何如なるかを知らざるなり」と。蔡沢曰く、「今、主の忠臣に親しむは、秦の孝公・楚の悼王・越王に過ぎず。君の智を設くるや、能く主の為に危ふきを安んじ政を修め、乱を治め兵を彊くし、患ひを批ち難を折き、地を広め穀を殖やし、国を富まし家を足らし、主を彊くし、社稷を尊び、宗廟を顕かにし、天下敢へてその主を欺き犯す莫く、主の威は海内を蓋ひ震ひ、功は万里の外に彰れ、声名は光輝千世に伝はる、君は商君・呉起・大夫種といづれぞや」と。応侯曰く、「若かず」と。蔡沢曰く、「今、主の忠臣に親しみ旧故を忘れざるは孝公・悼王・句践に若かず、而して君の功績愛信親幸もまた商君・呉起・大夫種に若かず。然れども君の禄位貴盛にして、私家の富は三子に過ぐ、而して身退かざるは、恐らくは患ひの三子より甚だしからん、竊かに君の為にこれを危ぶむ。語に曰く『日中すれば則ち移り、月満つれば則ち虧く』と。物盛んなれば則ち衰ふるは、天地の常数なり。進退盈縮、時と変化するは、聖人の常道なり。故に『国に道有れば則ち仕へ、国に道無ければ則ち隠る』。聖人曰く『飛竜天に在り、大人を見るに利あり』と。『不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し』と。今、君の怨みは已に讎いられ徳は已に報いられ、意欲至れり、而るに変計無し、竊かに君の為に取らざるなり。
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史記 范雎蔡沢列伝秦大いに趙を長平に破り、遂に邯鄲を囲む。已にして武安君白起と隙有り、言ひてこれを殺す。鄭安平を任じ、趙を撃たしむ。鄭安平、趙の囲む所と為り、急にして、兵二万人を以て趙に降る。応侯、槁に席して罪を請ふ。秦の法、人を任じて任ずる所の善からざる者は、各々その罪を以てこれを罪す。是に於いて応侯の罪は当に三族を収むべし。秦の昭王、応侯の意を傷つけんことを恐れ、乃ち令を国中に下す、「敢へて鄭安平の事を言ふ者有らば、その罪を以てこれを罪せん」と。而して相国応侯に食物を加へ賜ふこと日に益々厚く、以てその意に順適せしむ。後二歳、王稽河東の守と為り、諸侯と通じ、法に坐して誅せらる。而して応侯日に益々以て懌ばず。昭王朝に臨みて嘆息す、応侯進みて曰く、「臣聞く『主憂ふれば臣辱められ、主辱めらるれば臣死す』と。今、大王中朝にして憂ふ、臣敢へてその罪を請ふ」と。昭王曰く、「吾聞く、楚の鉄剣は利にして倡優は拙なりと。夫れ鉄剣利なれば則ち士勇に、倡優拙なれば則ち思慮遠し。夫れ遠き思慮を以て勇士を御す、吾楚の秦を図らんことを恐る。夫れ物素より具はらずんば、以て卒に応ずべからず。今、武安君既に死し、而して鄭安平等畔く、内に良将無くして外に敵国多し、吾是を以て憂ふ」と。以て応侯を激励せんと欲す。応侯懼れ、出づる所を知らず。蔡沢これを聞き、往きて秦に入る。蔡沢は燕人なり。游学して諸侯の小大に干むること甚だ衆きも、遇はれず。而して唐挙に従ひて相せしめて曰く、「吾聞く、先生李兌を相して、曰く『百日の内に国秉を持せん』と、これ有るか」と。曰く、「これ有り」と。曰く、「臣の若き者は何如」と。唐挙孰視して笑ひて曰く、「先生は曷鼻、巨肩、魋顔、蹙齃、膝攣なり。吾聞く、聖人は相せずと、殆ど先生か」と。蔡沢、唐挙のこれに戯るるを知り、乃ち曰く、「富貴は吾の自ら有する所なり、吾の知らざる所の者は寿なり、願はくはこれを聞かん」と。唐挙曰く、「先生の寿は、今より以往四十三歳なり」と。
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