戦国策 / 應侯曰鄭人謂玉未理者璞
應侯曰:「鄭人謂玉未理者璞,周人謂鼠未腊者朴。周人懷璞過鄭賈曰:『欲買朴乎?』鄭賈曰:『欲之。』出其朴,視之,乃鼠也。因謝不取。今平原君自以賢,顯名於天下,然降其主父沙丘而臣之。天下之王尚猶尊之,是天下之王不如鄭賈之智也,眩於名,不知其實也。」
新字:応侯曰:「鄭人謂玉未理者璞,周人謂鼠未腊者朴。周人懐璞過鄭賈曰:『欲買朴乎?』鄭賈曰:『欲之。』出其朴,視之,乃鼠也。因謝不取。今平原君自以賢,顕名於天下,然降其主父沙丘而臣之。天下之王尚猶尊之,是天下之王不如鄭賈之智也,眩於名,不知其実也。」
書き下し
應侯曰く、「鄭人玉の未だ理せざる者を璞と謂ひ、周人鼠の未だ腊せざる者を朴と謂ふ。周人璞を懷きて鄭の賈を過ぎりて曰く、『朴を買はんと欲するか。』鄭の賈曰く、『之を欲す。』其の朴を出だして、之を視るに、乃ち鼠なり。因りて謝して取らず。今平原君自ら賢と以ひ、名を天下に顯すも、然れども其の主父を沙丘に降して之を臣とせり。天下の王尚ほ猶ほ之を尊ぶ、是れ天下の王鄭の賈の智に如かざるなり、名に眩みて、其の實を知らざるなり。」
現代語訳
応侯(范雎)は言った。「鄭の人は磨いていない玉を『璞』と呼び、周の人は干していない鼠肉を『朴』と呼びます。ある周の人が璞(だと思ったもの)を懐に入れて鄭の商人のところへ行き、『朴を買いませんか』と言いました。鄭の商人は『欲しい』と言い、その朴を取り出させて見てみると、それはただの(干していない)鼠でした。そこで断って買い取りませんでした。今、平原君は自らを賢者だと思い、天下にその名を知られていますが、実は自分の主君である主父を沙丘の地で幽閉し、これに服従させました。それなのに天下の王たちはなおも平原君を尊んでいます。これは天下の王たちが鄭の商人の見識にも及ばないということです。名声にくらまされて、その実質を見抜けていないのです。」
解説
応侯が、名前は同じでも中身が全く異なる「璞」という言葉の食い違い(鄭では磨く前の玉、周では干す前の鼠肉を指す)を引き合いに出し、評判と実態のずれを見抜くことの大切さを説いた話です。平原君は賢者として天下に名高い一方で、主君である主父を幽閉して屈服させたという事実があり、応侯はこれを名ばかりで実質を欠く人物の典型として批判しています。鄭の商人は言葉の響きに惑わされず実物を確かめて見抜きましたが、天下の諸侯は平原君の評判だけで判断し、その行為の実質を見抜けていない、という痛烈な指摘です。肩書きや評判に惑わされず、行動の実質を確認してから人を評価するべきだという、人物鑑識の基本を教える逸話といえます。
この章句が説くこと
応侯平原君主父名実人物評価
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呂氏春秋・審分⑤故に其の實を按じて其の名を審らかにして、以て其の情を求め、其の言を聽きて其の類を察し、放悖せしむる無し。夫れ名は其の實に當らざること多くして、事は其の用に當らざる者多し。故に人主は以て名分を審らかにせざる可からざるなり。名分を審らかにせざるは、是れ壅を惡みて愈々塞がるなり。壅塞の任は、臣下に在らず、人主に在り。堯・舜の臣、獨り義ならず、湯・禹の臣、獨り忠ならず、其の數を得ればなり。桀・紂の臣、獨り鄙ならず、幽・厲の臣、獨り辟ならず、其の理を失えばなり。
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説苑・雜言淳于髡、孟子に謂いて曰く、「名実を先んずる者は、人の為にする者なり。名実を後にする者は、自ら為にする者なり。夫子は三卿の中に在りて、名実未だ上下に加わらずして之を去る、仁者固より此くの如きか」と。孟子曰く、「下位に居りて、賢を以て不肖に事えざる者は、伯夷なり。五たび湯に就き、五たび桀に就く者は、伊尹なり。汙君を悪まず、小官を辞せざる者は、柳下惠なり。三子は道を同じくせざれども、其の趣くところは一なり。一とは何ぞや。曰く仁なり。君子も亦仁のみ、何ぞ必ずしも同じからん」と。曰く、「魯の穆公の時、公儀子政を為し、子思・子庚臣為り、魯の削らるるや滋々甚だし。是くの若きは、賢者の国に益無きなり」と。曰く、「虞は百里奚を用いずして亡び、秦の穆公は之を用いて霸たり。故に賢を用いざれば則ち亡ぶ、削らるる何ぞ得べけんや」と。曰く、「昔者、王豹淇に処りて、河西謳を善くす。綿駒高唐に処りて、齊右歌を善くす。華舟・杞梁の妻、善く其の夫を哭して国俗を変ず。諸を内に有すれば必ず外に形る。其の事を為して其の功無きは、髡未だ睹ざるなり。是の故に賢者無きなり、有らば則ち髡必ず之を識らん」と。曰く、「孔子魯の司寇と為りて用いられず、祭に従いて膰肉至らず、冕を脱がずして行く。其の不善なる者は以て肉の為なりと為し、其の善なる者は以て礼の為なりと為す。乃ち孔子は微罪を以て行かんと欲し、苟くも去るを為さんと欲せざるなり。故に君子の為す所は、衆人固より識る能わざるなり」と。
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論語 八佾篇季氏、泰山に旅す。子、冉有に謂いて曰く、『子、止むる能わざるか。』曰く、『能わず。』子曰く、『ああ!曾て泰山は林放に如かずと謂えりや。』
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呂氏春秋・正名①名正しければ則ち治まり、名喪わるれば則ち亂る。名をして喪わしむる者は、淫説なり。説くこと淫なれば、則ち可ならざるを可として、然らざるを然りとし、是ならざるを是として、非ならざるを非とす。故に君子の説くや、以て賢者の實、不肖者の充を言うに足るのみ。治の悖る所、亂の由りて起こる所を喩すに足るのみ。以て物の情、人の獲て以て生ずる所を知るに足るのみ。
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