戦国策 / 江尹欲惡昭奚恤於楚王
江尹欲惡昭奚恤於楚王,而力不能,故為梁山陽君請封於楚。楚王曰:「諾。」昭奚恤曰:「山陽君無功於楚國,不當封。」江尹因得山陽君與之共惡昭奚恤。
新字:江尹欲悪昭奚恤於楚王,而力不能,故為梁山陽君請封於楚。楚王曰:「諾。」昭奚恤曰:「山陽君無功於楚国,不当封。」江尹因得山陽君与之共悪昭奚恤。
書き下し
江尹、昭奚恤を楚王に悪しざまに言わんと欲すれども、力能わず、故に梁の山陽君の為に楚に封ぜられんことを請う。楚王曰わく、「諾。」昭奚恤曰わく、「山陽君は楚国に功無ければ、封ずるに当たらず。」江尹因りて山陽君を得て、之と共に昭奚恤を悪しざまに言う。
現代語訳
江尹は昭奚恤を楚王に讒言しようとしたが、自分一人の力では及ばなかった。そこで魏(梁)の山陽君のために楚での領地を求めてやった。楚王は「よかろう」と言った。ところが昭奚恤は「山陽君は楚国に功績がありませんから、封じるべきではありません」と言った。これにより江尹は山陽君を味方に引き入れ、二人で共に昭奚恤を讒言するようになった。
解説
江尹が一人では昭奚恤を失脚させられないと悟り、魏の山陽君のために楚での領地を求めてやることで恩を売り、味方に引き入れて共に讒言する体制を作った話です。ところが昭奚恤自身が「山陽君に功績なし」と正論で反対したため、かえって山陽君の恨みを買う結果を招いています。一人の力で及ばない相手には、利害を共有する協力者を作るという政治工作の典型例ですが、同時に、正しいことを言っただけでも敵を作ってしまう宮廷政治の怖さも読み取れます。現代の組織内対立でも、正論そのものが人間関係の火種になり得る点は示唆的です。
この章句が説くこと
江尹昭奚恤讒言派閥形成楚
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