戦国策 / 齊負郭之民有孤狐咺者
齊負郭之民有孤狐咺者,正議閔王,斮之檀衢,百姓不附。齊孫室子陳舉直言,殺之東閭,宗族離心。司馬穰苴為政者也,殺之,大臣不親。以故燕舉兵,使昌國君將而擊之。齊使向子將而應之。齊軍破,向子以輿一乘亡。達子收餘卒,復振,與燕戰,求所以償者,閔王不肯與,軍破走。王奔莒,淖齒數之曰:「夫千乘、博昌之間,方數百里,雨血沾衣,王知之乎?」王曰:「不知。」「嬴、博之間,地坼至泉,王知之乎?」王曰:「不知。」「人有當闕而哭者,求之則不得,去之則聞其聲,王知之乎?」王曰:「不知。」淖齒曰:「天雨血沾衣者,天以告也;地坼至泉者,地以告也;人有當闕而哭者,人以告也。天地人皆以告矣,而王不知戒焉,何得無誅乎?」於是殺閔王於鼓里。太子乃解衣免服,逃太史之家為溉園。君王后,太史氏女,知其貴人,善事之。田單以即墨之城,破亡餘卒,破燕兵,紿騎劫,遂以復齊,遽迎太子於莒,立之以為王。襄王即位,君王后以為后,生齊王建。
新字:斉負郭之民有孤狐咺者,正議閔王,斮之檀衢,百姓不附。斉孫室子陳舉直言,殺之東閭,宗族離心。司馬穰苴為政者也,殺之,大臣不親。以故燕舉兵,使昌国君将而撃之。斉使向子将而応之。斉軍破,向子以輿一乗亡。達子収余卒,復振,与燕戦,求所以償者,閔王不肯与,軍破走。王奔莒,淖歯数之曰:「夫千乗、博昌之間,方数百里,雨血沾衣,王知之乎?」王曰:「不知。」「嬴、博之間,地坼至泉,王知之乎?」王曰:「不知。」「人有当闕而哭者,求之則不得,去之則聞其声,王知之乎?」王曰:「不知。」淖歯曰:「天雨血沾衣者,天以告也;地坼至泉者,地以告也;人有当闕而哭者,人以告也。天地人皆以告矣,而王不知戒焉,何得無誅乎?」於是殺閔王於鼓里。太子乃解衣免服,逃太史之家為溉園。君王后,太史氏女,知其貴人,善事之。田単以即墨之城,破亡余卒,破燕兵,紿騎劫,遂以復斉,遽迎太子於莒,立之以為王。襄王即位,君王后以為后,生斉王建。
書き下し
齊の負郭の民に孤狐咺という者有り、閔王を正議するに、之を檀衢に斮り、百姓附かず。齊の孫室子陳挙直言するに、之を東閭に殺し、宗族心を離す。司馬穰苴は政を為す者なるも、之を殺し、大臣親しまず。故を以て燕兵を挙げ、昌国君をして将として之を撃たしむ。齊は向子をして将として之に応ぜしむ。齊軍破れ、向子は輿一乘を以て亡ぐ。達子余卒を収め、復た振るい、燕と戦い、償う所以を求むるも、閔王与うるを肯ぜず、軍破れて走る。王莒に奔り、淖歯之を数えて曰く、「夫れ千乘・博昌の間、方数百里、血雨りて衣を沾す、王之を知るか」と。王曰く、「知らず」と。「嬴・博の間、地坼けて泉に至る、王之を知るか」と。王曰く、「知らず」と。「人有り闕に当りて哭する者、之を求むれば則ち得ず、之を去れば則ち其の声を聞く、王之を知るか」と。王曰く、「知らず」と。淖歯曰く、「天の血雨りて衣を沾す者は、天以て告ぐるなり。地の坼けて泉に至る者は、地以て告ぐるなり。人有り闕に当りて哭する者は、人以て告ぐるなり。天地人皆以て告げたるに、王戒むるを知らず、何ぞ誅無きを得んや」と。是に於て閔王を鼓里に殺す。太子乃ち衣を解き服を免れ、太史の家に逃れて園に溉ぐ。君王后は、太史氏の女なり、其の貴人なるを知り、善く之に事う。田単即墨の城を以て、破亡の余卒もて、燕兵を破り、騎劫を紿き、遂に以て齊を復し、遽かに太子を莒に迎え、之を立てて王と為す。襄王位に即くや、君王后以て后と為し、齊王建を生む。
現代語訳
齊の都城の外に住む民に孤狐咺という者がいた。閔王を正面から諫めたところ、檀衢の刑場で斬られてしまい、それ以来民は王に心を寄せなくなった。齊の公室の一族である陳挙も直言したために東閭で殺され、一族の心は王から離れた。司馬穰苴の子孫で当時政治を執っていた者も、王に殺されたため、重臣たちは王に親しまなくなった。こうした事情から燕は兵を挙げ、昌国君(楽毅)を将として齊を攻めさせた。齊は向子を将として応戦させたが、齊軍は敗れ、向子は車一台で逃げ去った。達子が残兵を集めて再び態勢を立て直し、燕軍と戦ったが、恩賞を求めても閔王は与えようとせず、軍はついに敗走した。王は莒に逃げのびたが、淖歯は王を責めて言った。「千乗と博昌のあたり、数百里四方に血の雨が降り衣を濡らしたことを、王はご存じか」。王は「知らぬ」と答えた。「嬴・博のあたりで地面が裂けて泉が湧き出たことを、王はご存じか」。王は「知らぬ」と答えた。「宮門のあたりで泣く者があり、探しても見つからないのに、立ち去るとまたその声が聞こえたことを、王はご存じか」。王は「知らぬ」と答えた。淖歯は言った。「天が血の雨を降らせて衣を濡らしたのは天からの警告であり、大地が裂けて泉が湧いたのは地からの警告であり、人が宮門で泣いたのは人からの警告です。天地人すべてが警告したのに、王はそれを戒めとして受け止めようとしなかった。誅されぬはずがありましょうか」。こうして閔王は鼓里で殺された。太子は衣服を脱ぎ捨てて身分を隠し、太史の家に逃げ込んで庭園の水やりをする下働きとなった。のちの君王后は太史氏の娘で、彼がただ者ではないと見抜き、大切に世話をした。田単は即墨の城にこもり、敗残の兵をもって燕軍を破り、騎劫を欺いてついに齊を復興させると、急ぎ莒から太子を迎え、王として即位させた。襄王が即位すると、君王后を王后とし、後の齊王建が生まれた。
解説

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