史記 / 管晏列伝
方晏子伏莊公尸哭之、成禮然後去、豈所謂見義不為無勇者邪。至其諫說、犯君之顏、此所謂進思盡忠、退思補過者哉。假令晏子而在、余雖為之執鞭、所忻慕焉。
新字:方晏子伏荘公尸哭之、成礼然後去、豈所謂見義不為無勇者邪。至其諫説、犯君之顏、此所謂進思尽忠、退思補過者哉。仮令晏子而在、余雖為之執鞭、所忻慕焉。
書き下し
方に晏子、荘公の尸に伏して之に哭し、礼を成し然る後に去るは、豈に所謂「義を見て為さざるは勇無き」者か。其の諫説に至りては、君の顔を犯す。此れ所謂「進みては忠を尽くすを思ひ、退きては過ちを補ふを思ふ」者か。仮令ひ晏子をして在らしめば、余之が為に鞭を執ると雖も、忻慕する所なり。
現代語訳
晏子が(殺された)荘公の遺体に伏して泣き、臣下としての礼を尽くしてから立ち去ったのは、まさに「なすべき義を前にして行わないのは勇気がないことだ」という教えを体現したものではないか。主君を諫めるときには、君主の不機嫌もいとわず面と向かって諫言した。これこそ「仕えては忠を尽くすことを思い、退いては主君の過ちを補うことを思う」臣下ではないか。もし晏子が今も生きているなら、私はその御者となって鞭を執る役でもかまわない。それほど私は彼を慕い、敬うのである。
解説
歴史家・司馬遷が「この人になら仕えたい」とまで言い切る、憧れの臣下像の総括です。晏子の何がそこまで人を惹きつけるのか。危険を顧みず義を行い(荘公の遺体への礼)、トップの機嫌を損ねてでも正しいことを直言し(犯君之顔)、仕えては全力で忠を尽くし、退いてはトップの欠点を補おうと考え続ける。つまり保身ではなく、組織と主君のために自分の立場を賭けられる誠実さです。『進みては忠を尽くし、退きては過ちを補ふ』は、あらゆる組織人の理想の姿勢と言えます。目の前で忠を尽くすだけでなく、見えないところでもトップの弱点を補おうと動く。リーダーにとっては「こういう部下を持ちたい」、フォロワーにとっては「こう在りたい」という双方の規範です。司馬遷ほどの人物が心から敬慕したという事実そのものが、誠実な生き方の持つ求心力を物語っています。