戦国策 / 濮陽人呂不韋賈於邯鄲
濮陽人呂不韋賈於邯鄲,見秦質子異人,歸而謂父曰:「耕田之利幾倍?」曰:「十倍。」「珠玉之贏幾倍?」曰:「百倍。」「立國家之主贏幾倍?」曰:「無數。」曰:「今力田疾作,不得煖衣餘食;今建國立君,澤可以遺世。願往事之。」秦子異人質於趙,處於〈戶夘〉城。故往說之曰:「子傒有承國之業,又有母在中。今子無母於中,外託於不可知之國,一日倍約,身為糞土。今子聽吾計事,求歸,可以有秦國。吾為子使秦,必來請子。」乃說秦王后弟陽泉君曰:「君之罪至死,君知之乎?君之門下無不居高尊位,太子門下無貴者。君之府藏珍珠寶玉,君之駿馬盈外廄,美女充後庭。王之春秋高,一日山陵崩,太子用事,君危於累卵,而不壽於朝生。說有可以一切而使君富貴千萬歲,其寧於太山四維,必無危亡之患矣。」陽泉君避席,請聞其說。不韋曰:「王年高矣,王后無子,子傒有承國之業,士倉又輔之。王一日山陵崩,子傒立,士倉用事,王后之門,必生蓬蒿。子異人賢材也,棄在於趙,無母於內,引領西望,而願一得歸。王后誠請而立之,是子異人無國而有國,王后無子而有子也。」陽泉君曰:「然。」入說王后,王后乃請趙而歸之。趙未之遣,不韋說趙曰:「子異人,秦之寵子也,無母於中,王后欲取而子之。使秦而欲屠趙,不顧一子以留計,是抱空質也。若使子異人歸而得立,趙厚送遣之,是不敢倍德畔施,是自為德講。秦王老矣,一日晏駕,雖有子異人,不足以結秦。」趙乃遣之。異人至,不韋使楚服而見。王后悅其狀,高其知,曰:「吾楚人也。」而自子之,乃變其名曰楚。王使子誦,子曰:「少棄捐在外,嘗無師傅所教學,不習於誦。」王罷之,乃留止。間曰:「陛下嘗軔車於趙矣,趙之豪桀,得知名者不少。今大王反國,皆西面而望。大王無一介之使以存之,臣恐其皆有怨心。使邊境早閉晚開。」王以為然,奇其計。王后勸立之。王乃召相,令之曰:「寡人子莫若楚。」立以為太子。子楚立,以不韋為相,號曰文信侯,食藍田十二縣。王后為華陽太后,諸侯皆致秦邑。
新字:濮陽人呂不韋賈於邯鄲,見秦質子異人,帰而謂父曰:「耕田之利幾倍?」曰:「十倍。」「珠玉之贏幾倍?」曰:「百倍。」「立国家之主贏幾倍?」曰:「無数。」曰:「今力田疾作,不得煖衣余食;今建国立君,沢可以遺世。願往事之。」秦子異人質於趙,処於〈戸夘〉城。故往説之曰:「子傒有承国之業,又有母在中。今子無母於中,外託於不可知之国,一日倍約,身為糞土。今子聴吾計事,求帰,可以有秦国。吾為子使秦,必来請子。」乃説秦王后弟陽泉君曰:「君之罪至死,君知之乎?君之門下無不居高尊位,太子門下無貴者。君之府蔵珍珠宝玉,君之駿馬盈外廄,美女充後庭。王之春秋高,一日山陵崩,太子用事,君危於累卵,而不寿於朝生。説有可以一切而使君富貴千万歳,其寧於太山四維,必無危亡之患矣。」陽泉君避席,請聞其説。不韋曰:「王年高矣,王后無子,子傒有承国之業,士倉又輔之。王一日山陵崩,子傒立,士倉用事,王后之門,必生蓬蒿。子異人賢材也,棄在於趙,無母於内,引領西望,而願一得帰。王后誠請而立之,是子異人無国而有国,王后無子而有子也。」陽泉君曰:「然。」入説王后,王后乃請趙而帰之。趙未之遣,不韋説趙曰:「子異人,秦之寵子也,無母於中,王后欲取而子之。使秦而欲屠趙,不顧一子以留計,是抱空質也。若使子異人帰而得立,趙厚送遣之,是不敢倍徳畔施,是自為徳講。秦王老矣,一日晏駕,雖有子異人,不足以結秦。」趙乃遣之。異人至,不韋使楚服而見。王后悅其状,高其知,曰:「吾楚人也。」而自子之,乃変其名曰楚。王使子誦,子曰:「少棄捐在外,嘗無師傅所教学,不習於誦。」王罷之,乃留止。間曰:「陛下嘗軔車於趙矣,趙之豪桀,得知名者不少。今大王反国,皆西面而望。大王無一介之使以存之,臣恐其皆有怨心。使辺境早閉晩開。」王以為然,奇其計。王后勧立之。王乃召相,令之曰:「寡人子莫若楚。」立以為太子。子楚立,以不韋為相,号曰文信侯,食藍田十二県。王后為華陽太后,諸侯皆致秦邑。
書き下し
濮陽の人呂不韋、邯鄲に賈す。秦の質子異人を見て、歸りて父に謂ひて曰く、「田を耕すの利は幾倍ぞ。」曰く、「十倍。」「珠玉の贏は幾倍ぞ。」曰く、「百倍。」「國家の主を立つるの贏は幾倍ぞ。」曰く、「數ふる無し。」曰く、「今力田疾作するも、煖衣餘食を得ず。今國を建て君を立つれば、澤以て世に遺すべし。願はくは往きて之に事へん。」秦の子異人、趙に質たり、〈戶夘〉城に處る。故に往きて之に說きて曰く、「子傒に國を承くるの業有り、又母中に在り有り。今子中に母無く、外は不可知の國に託せらる。一日約に倍かば、身糞土と爲らん。今子吾が計事を聽きて歸るを求めば、以て秦國を有つべし。吾子の爲に秦に使ひして、必ず來りて子を請はん。」乃ち秦の王后の弟陽泉君に說きて曰く、「君の罪死に至る、君之を知るか。君の門下高尊の位に居らざる無く、太子の門下貴き者無し。君の府藏の珍珠寶玉、君の駿馬外廄に盈ち、美女後庭に充つ。王の春秋高く、一日山陵崩ぜば、太子事を用ゐ、君累卵より危ふく、朝生よりも壽ならず。說くこと一切を以て君をして富貴千萬歲ならしむべき有り、其れ太山四維よりも寧んじ、必ず危亡の患無からん。」陽泉君席を避けて、其の說を聞かんことを請ふ。不韋曰く、「王年高し。王后子無し。子傒に國を承くるの業有り、士倉又之を輔く。王一日山陵崩ぜば、子傒立ちて士倉事を用ゐ、王后の門必ず蓬蒿を生ぜん。子異人賢材なるに、棄てられて趙に在り、中に母無く、引領して西望し、一たび歸るを得んことを願ふ。王后誠に請ひて之を立てば、是れ子異人國無くして國有り、王后子無くして子有るなり。」陽泉君曰く、「然り。」入りて王后に說く。王后乃ち趙に請ひて之を歸せしむ。趙未だ之を遣らず。不韋趙に說きて曰く、「子異人は秦の寵子なり、中に母無く、王后取りて之を子とせんと欲す。秦をして趙を屠らんと欲せしめば、一子を顧みずして計を留めん、是れ空質を抱くなり。若し子異人をして歸りて立つを得しめば、趙厚く之を送遣し、是れ敢へて德に倍き施を畔かず、是れ自ら德の講と爲すなり。秦王老いたり、一日晏駕せば、子異人有りと雖も、以て秦を結ぶに足らず。」趙乃ち之を遣る。異人至る。不韋楚服を使ひて見えしむ。王后其の狀を悅び、其の知を高しとし、曰く、「吾は楚人なり。」而して自ら之を子とし、乃ち其の名を變じて楚と曰ふ。王子をして誦せしむ。子曰く、「少くして棄捐せられて外に在り、嘗て師傅の教學する所無く、誦に習はず。」王之を罷む、乃ち留止す。間に曰く、「陛下嘗て趙に軔車せり。趙の豪桀、名を知られたる者少なからず。今大王反國して、皆西面して望む。大王一介の使も以て之を存する無くば、臣恐らくは其れ皆怨心有らん。邊境をして早く閉ぢ晚く開かしめん。」王以て然りとし、其の計を奇とす。王后立つるを勸む。王乃ち相を召し、之に令して曰く、「寡人の子は楚に若く莫し。」立てて以て太子と爲す。子楚立ち、不韋を以て相と爲し、號して文信侯と曰ひ、藍田十二縣を食む。王后華陽太后と爲り、諸侯皆な秦に邑を致す。
現代語訳
濮陽の商人呂不韋は、邯鄲で商いをしていた。秦の人質である公子異人を見かけ、家に帰って父に尋ねた。「田畑を耕して得られる利益は元手の何倍になりますか。」父は「十倍だ」と答えた。「珠玉を商って得られる利益は何倍になりますか。」「百倍だ。」「一国の君主を立てる利益は何倍になりますか。」「数え切れないほどだ。」呂不韋は言った。「今、懸命に田を耕しても、暖かい衣も十分な食も得られません。しかし国を建て君主を立てれば、その恩恵は末代まで残せます。私はぜひそちらに賭けてみたいと思います。」当時、秦の公子異人は趙に人質として送られ、〈戶夘〉城に住んでいた。呂不韋は彼のもとへ行き説いた。「子傒には国を継ぐ地位があり、しかも国内に母がいます。あなたには国内に母がなく、先行きの見えない他国に身を寄せています。もしある日、両国の約束が破れれば、あなたの命は無に等しいものとなるでしょう。今、私の計略に従って帰国の道を求めれば、秦国を手にすることもできます。私はあなたのために秦へ赴き、必ずあなたを迎え入れるよう働きかけましょう。」そして呂不韋は秦の王后の弟である陽泉君に説いた。「あなたの罪は死に値するものです。ご存じですか。あなたの一族は皆高い地位に就いていますが、太子の側近には身分の高い者がいません。あなたの蔵には珍しい真珠や宝玉があふれ、駿馬は外厩に満ち、美女は後宮に満ちています。しかし王のご高齢を考えれば、ある日突然お亡くなりになれば、太子が実権を握り、あなたの立場は積み上げた卵よりも危うく、朝に生まれてすぐ死ぬ虫よりも短命なものとなるでしょう。私にはあなたを末永く富貴にし、泰山のように安泰にし、危険を避けさせる方法があります。」陽泉君は席を立ってその説を聞くことを願った。呂不韋は言った。「王はご高齢で、王后には実子がありません。子傒には国を継ぐ地位があり、士倉がこれを補佐しています。もし王がある日お亡くなりになれば、子傒が立ち士倉が実権を握り、王后の一門はたちまち荒れ果ててしまうでしょう。公子異人は賢明な人物でありながら、趙に見捨てられたように置かれ、国内に母もなく、首を伸ばして西の秦を望み、一日も早く帰国したいと願っています。王后が真心をもって彼を(太子に)立てるよう願い出れば、公子異人は国を持たぬ身から国を持つ身となり、王后は実子のない身から実子を持つ身となるのです。」陽泉君は「その通りだ」と言い、宮中に入って王后を説いた。王后はそこで趙に使者を送り、異人を帰国させるよう求めた。しかし趙はなかなか異人を送り出そうとしなかった。呂不韋は趙に説いた。「公子異人は秦の寵愛される公子であり、国内に母がなく、王后が引き取って自らの子にしようとしています。もし秦が趙を滅ぼそうとするなら、たった一人の人質のために計略を変えることはないでしょう。それでは趙はただ空しい人質を抱えているだけです。もし公子異人を帰国させ立太子させれば、趙が手厚く送り出したという恩義から、秦は徳に背いて恩を仇で返すようなことはできなくなります。これは自ら徳を講じることになるのです。秦王はすでに老いており、ある日崩御されれば、たとえ公子異人がいたとしても、それだけでは秦との関係を結ぶには足りません。」趙はそこで異人を送り出した。異人が秦に到着すると、呂不韋は彼に楚の服を着せて王后に謁見させた。王后はその姿を喜び、その気配りを評価して、「私は楚の出身です」と言い、自ら彼を実子とし、名を「楚」と改めさせた。王が異人に書を読ませようとしたところ、異人は「幼い頃から見捨てられて他国におり、師の教えを受けたことがなく、読み書きに慣れておりません」と答えた。王はそれ以上求めず、そのまま留め置いた。ある折に呂不韋は言った。「陛下はかつて趙で車を止められたことがございます。趙の豪傑で名を知られる者は少なくありません。今、大王が秦に戻られた後、皆が西を向いて期待を寄せています。大王が一人の使者すらも彼らのもとに送らなければ、皆に怨みの心が生じるのではないかと私は恐れます。それでは国境も、開閉の時機を誤ることになりましょう。」王はこれをもっともだと考え、その進言を高く評価した。王后も異人を太子に立てるよう勧めた。王はそこで宰相を召し、命じて言った。「わが子の中で楚(異人)に及ぶ者はいない。」こうして異人は太子に立てられた。子楚(異人)が即位すると、呂不韋は宰相となり、文信侯と号し、藍田の十二県を領地として与えられた。王后は華陽太后となり、諸侯はこぞって秦に邑を献上した。
解説
この章句が説くこと
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史記 呂不韋列伝呂不韋曰く、「秦王老いたり、安国君太子と為るを得。竊かに聞く、安国君華陽夫人を愛幸し、華陽夫人子無し、能く適嗣を立つる者は独り華陽夫人のみ、と。今子は兄弟二十余人、子又中に居り、甚だしくは幸せられず、久しく諸侯に質たり。即し大王薨じ、安国君立ちて王と為らば、則ち子長子と太子為るを争ふを幾(こひねが)ふを得る毋からん」と。子楚曰く、「然り、之を為すこと柰何」と。呂不韋曰く、「子貧しく、以て親に奉献し及び賓客に結ぶ有るに非ず。不韋貧しと雖も、請ふ千金を以て子の為に西游し、安国君及び華陽夫人に事へ、子を立てて適嗣と為さん」と。子楚乃ち頓首して曰く、「必ず君の策の如くば、請ふ秦国を分かちて君と共にするを得ん」と。
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史記 呂不韋列伝呂不韋は、陽翟の大賈人なり。往来して賤を販ひ貴を売り、家千金を累ぬ。子楚は、秦の諸庶孽の孫、諸侯に質たり、車乗進用饒かならず、居処困しみ、意を得ず。呂不韋邯鄲に賈し、見て之を憐みて曰く、「此れ奇貨居く可し」と。乃ち往きて子楚に見え、説きて曰く、「吾能く子の門を大にせん」と。子楚笑ひて曰く、「且く自ら君の門を大にして、乃ち吾が門を大にせよ」と。呂不韋曰く、「子知らざるなり、吾が門は子の門を待ちて大なり」と。子楚心に謂ふ所を知り、乃ち引きて与に坐し、深く語る。
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史記 呂不韋列伝荘襄王即位三年にして薨じ、太子政立ちて王と為り、呂不韋を尊びて相国と為し、号して仲父と称す。是の時に当り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り、皆士に下り賓客を喜びて以て相ひ傾く。呂不韋秦の彊きを以て、如かざるを羞ぢ、亦た士を招致し、之を厚遇し、食客三千人に至る。呂不韋乃ち其の客をして人人聞く所を著さしめ、集論して八覧・六論・十二紀を以てし、二十余万言、以て天地万物古今の事を備ふと為し、号して呂氏春秋と曰ふ。咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游士賓客の能く一字を増損する有らば千金を予へんと延(まね)く。
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戦国策・范睢至秦范睢秦に至る、王庭に迎へ、范睢に謂ひて曰く、「寡人宜しく身を以て令を受くること久しかるべし。今義渠の事急なれば、寡人日々自ら太后に請ふ。今義渠の事已(や)みぬれば、寡人乃ち身を以て命を受くるを得たり。躬(み)づから竊かに閔然として不敏なるも、敬んで賓主の禮を執らん。」范睢辭讓す。是の日范睢を見るに、見る者變色易容せざる無し。秦王左右を屏(しりぞ)け、宮中虛しくして人無く、秦王跪きて請ひて曰く、「先生何を以てか寡人に教ふるを幸ひせん。」范睢曰く、「唯唯。」間有りて、秦王復た請ふ、范睢曰く、「唯唯。」是くの若き者三たびす。秦王跽(ひざまづ)きて曰く、「先生幸ひに寡人に教へざるか。」范睢謝して曰く、「敢へて然るに非ざるなり。臣聞く、始め呂尚の文王に遇へるや、身漁父と為りて渭陽の濱に釣りせしのみ。是くの若きは交疏なり。已に一說して立ちて太師と為り、載せて俱に歸る者は、其の言深ければなり。故に文王果して功を呂尚に收め、卒に天下を擅にして身帝王と立てり。即し文王呂望を疏んじて與に深く言はざらしめば、是れ周に天子の德無く、文・武與に其の王を成す無からん。今臣は羇旅の臣にして、王に交疏し、而して願はくは陳ぜんとする所は、皆君を匡すの事にして、人の骨肉の間に處る。願はくは臣の陋忠を陳べんとするも、未だ王の心を知らざるなり。王三たび問ひて對へざる所以は是れなり。臣畏るる所有りて敢へて言はざるに非ざるなり。今日之を前に言ひて、明日之に伏誅せらるるを知るも、然れども臣敢へて畏れざるなり。大王信じて臣の言を行はば、死すとも以て臣の患ひと爲すに足らず、亡ぶとも以て臣の憂ひと爲すに足らず、身に漆して厲(らい)と爲り、髮を被りて狂と爲るも、以て臣の恥と爲すに足らず。五帝の聖にして死し、三王の仁にして死し、五伯の賢にして死し、烏獲の力にして死し、奔・育の勇にして死せり。死は人の必ず免れざる所なり。必然の勢に處りて、以て少しく秦に補ふ有る可くんば、此れ臣の大いに願ふ所なり、臣何をか患へん。伍子胥は橐に載せられて昭關を出で、夜行きて晝伏し、蔆水に至りて以て其の口を餌ふ無く、坐行蒲服して、食を呉市に乞ひ、卒に呉國を興し、闔廬を覇たらしめたり。臣をして謀を進むること伍子胥の如きを得しめ、之に幽囚を加へて、終身復た見えざるとも、是れ臣の說の行はるるなり、臣何をか憂へん。箕子・接輿は、身に漆して厲と爲り、髮を被りて狂と爲るも、殷・楚に益無かりき。臣をして箕子・接輿と行を同じくするを得しめ、身に漆すること以て賢とする所の主に補ふ可くんば、是れ臣の大榮なり、臣又何をか恥ぢん。臣の恐るる所は、獨り臣死するの後、天下臣の忠を盡くして身蹶(たふ)るるを見んことを恐るるなり。是を以て口を杜(と)ぢ足を裹みて、肯へて秦に即く莫きのみ。足下上は太后の嚴を畏れ、下は姦臣の態に惑ひ、深宮の中に居りて保傅の手を離れず、終身闇惑して與に姦を照らす無く、大なる者は宗廟滅覆し、小なる者は身以て孤危なり。此れ臣の恐るる所のみ。若し夫れ窮辱の事、死亡の患ひの若きは、臣敢へて畏れざるなり。臣死して秦治まらば、生けるより賢れり。」秦王跽きて曰く、「先生是れ何の言ぞや。夫れ秦國は僻遠にして、寡人は愚にして不肖なり。先生乃ち幸ひに此に至る、此れ天寡人を以て先生を慁(わづら)はし、先王の廟を存せしむるなり。寡人先生に命を受くるを得るは、此れ天の先王を幸ひして其の孤を棄てざる所以なり。先生奈何ぞ言ふこと此くの若くなる。事の大小と無く、上は太后に及び、下は大臣に至るまで、願はくは先生悉く以て寡人に教へ、寡人を疑ふ無かれ。」范睢再拜す、秦王も亦た再拜す。范睢曰く、「大王の國は、北に甘泉・谷口有り、南に涇・渭を帶び、右に隴・蜀、左に關・阪あり。戰車千乘、奮擊百萬。秦卒の勇、車騎の多きを以て、以て諸侯に當らば、譬へば韓盧を馳せて蹇兔を逐ふが若し。霸王の業致す可し。今反りて閉ぢて敢へて兵を山東に窺はざる者は、是れ穰侯國の爲に謀りて忠ならず、大王の計に失ふ所有ればなり。」王曰く、「願はくは失ふ所の計を聞かん。」睢曰く、「大王韓・魏を越えて強齊を攻むるは、計に非ざるなり。師を出だすこと少なければ、則ち以て齊を傷つくるに足らず。之を多くすれば則ち秦を害す。臣意ふに王の計、師を出だすこと少なくして、韓・魏の兵を悉くせんと欲するは則ち不義なり。今與國の親しむ可からざるを見て、人の國を越えて攻む、可ならんや。計に疏きなり。昔者、齊人楚を伐ちて、戰ひて勝ち、軍を破り將を殺し、地を再辟すること千里なるも、膚寸の地も得る者無かりき。豈に齊地を欲せざらんや、形有つ能はざればなり。諸侯齊の罷露するを見て、君臣の親しまざるを見て、兵を舉げて之を伐ち、主辱められ軍破れ、天下の笑ひと爲れり。然る所以の者は、其の楚を伐ちて韓・魏を肥やせばなり。此れ所謂『賊に兵を藉し盜に食を齎す』者なり。王は遠く交はりて近く攻むるに如かず、寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば則ち王の尺なり。今此を舍てて遠く攻む、亦た繆(あやま)らざらんや。且つ昔者、中山の地、方五百里、趙獨り之を擅にす。功成り名立ち利附けば、則ち天下能く害する莫し。今韓・魏は、中國の處にして天下の樞なり。王若し霸たらんと欲せば、必ず中國に親しみて以て天下の樞と爲し、以て楚・趙を威(おど)すべし。趙彊ければ則ち楚附き、楚彊ければ則ち趙附く。楚・趙附けば則ち齊必ず懼れ、懼るれば必ず辭を卑くし幣を重くして以て秦に事へん。齊附きて韓・魏虛にす可きなり。」王曰く、「寡人魏に親しまんと欲するも、魏は變多きの國なり、寡人親しむ能はず。請ふ魏に親しむこと奈何と問はん。」范睢曰く、「辭を卑くし幣を重くして以て之に事へよ。不可ならば地を削りて之に賂せよ。不可ならば兵を舉げて之を伐て。」是に於て兵を舉げて邢丘を攻め、邢丘拔けて魏附くを請ふ。曰く、「秦・韓の地形は、相錯はること繡の如し。秦の韓有るは、木の蠹有るが若く、人の心腹を病むがごとし。天下變有らば、秦の爲に害を爲す者は韓より大なるは莫し。王は韓を收むるに如かず。」王曰く、「寡人韓を收めんと欲するも聽かず、之を爲すこと奈何せん。」范睢曰く、「兵を舉げて滎陽を攻むれば、則ち成睪の路通ぜず。北に太行の道を斬らば則ち上黨の兵下らず。一たび舉げて榮陽を攻むれば、則ち其の國斷ちて三と爲らん。魏・韓必ず亡ぶるを見ば、焉んぞ聽かざるを得んや。韓聽けば霸の事成る可し。」王曰く、「善し。」范睢曰く、「臣山東に居りしとき、齊の內に田單有るを聞くも、其の王有るを聞かず。秦に太后・穰侯・涇陽・華陽有るを聞くも、其の王有るを聞かず。夫れ國を擅にする之を王と謂ひ、能く利害を專らにする之を王と謂ひ、殺生の威を制する之を王と謂ふ。今太后行を擅にして顧みず、穰侯使を出だして報ぜず、涇陽・華陽擊斷して諱む無し。四貴備はりて國危からざる者、未だ之有らざるなり。此の四者の爲にすれば、下乃ち所謂王無きのみ。然らば則ち權焉んぞ傾かざるを得んや、令焉んぞ王より出づるを得んや。臣聞く、『善く國を爲むる者は、內に其の威を固くし、外に其の權を重くす』と。穰侯の使者は王の重きを操り、諸侯を決裂し、天下に符を剖ち、敵を征し國を伐ち、敢へて聽かざる莫し。戰ひて勝ち攻めて取れば、則ち利陶に歸す。國弊るれば、諸侯に御せられ、戰ひて敗るれば、則ち怨み百姓に結び、禍ひ社稷に歸す。詩に曰く、『木の實繁き者は其の枝を披き、其の枝を披く者は其の心を傷つく。其の都を大にする者は其の國を危くし、其の臣を尊くする者は其の主を卑くす。』と。淖齒齊の權を管し、閔王の筯を縮め、之を廟梁に縣け、宿昔にして死せり。李兌趙を用ゐ、主父の食を減じ、百日にして餓死せり。今秦、太后・穰侯事を用ゐ、高陵・涇陽之を佐け、卒に秦王無し。此れ亦た淖齒・李兌の類のみ。臣今王の廟朝に獨立するを見る。且つ臣將に後世秦國を有つ者、王の子孫に非ざるを恐れんとす。」秦王懼れ、是に於て乃ち太后を廢し、穰侯を逐ひ、高陵を出だし、涇陽を關外に走らしむ。昭王范睢に謂ひて曰く、「昔者、齊公管仲を得て、時に以て仲父と爲す。今吾子を得て、亦た以て父と爲さん。」
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史記 呂不韋列伝始皇帝益々壮んにして、太后淫止まず。呂不韋禍の己に及ぶを覚らるるを恐れ、乃ち私かに大陰人嫪毐を求めて舍人と為し、太后に進む。始皇九年、嫪毐の実は宦者に非ず、常に太后と私乱すと告ぐる有り。事覚れ、秦王嫪毐を誅し、三族を夷ぐ。歳余にして、相国呂不韋を免ず。諸侯の賓客使者道に相ひ望み、文信侯を請ふ。秦王其の変を為すを恐れ、乃ち文信侯に書を賜ひて曰く、「君何の功か秦に、秦君を河南に封じ、十万戸を食む。君何の親か秦に、号して仲父と称す。其れ家属と蜀に徙り処れ」と。呂不韋自ら稍く侵さるるを度り、誅を恐れ、乃ち酖を飲みて死す。
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戦国策・楚王死楚王死す、太子齊に質為(た)り。蘇秦、薛公に謂ひて曰く、「君何ぞ楚の太子を留めて、以て其の下東國を市(か)はざる。」薛公曰く、「不可なり。我太子を留めば、郢中王を立てん、然らば則ち是れ我空質を抱きて天下に不義を行ふなり。」蘇秦曰く、「然らず。郢中王を立てば、君因りて其の新王に謂ひて曰はん、『我に下東國を與へよ、吾王の爲に太子を殺さん。然らずんば、吾將に三國と共に之を立てんとす。』然らば則ち下東國必ず得可きなり。」蘇秦の事、以て行くを請ふ可し。以て楚王をして亟(すみ)やかに下東國に入らしむ可し。以て楚に益割せしむ可し。以て太子に忠にして楚をして益地を入れしむ可し。以て楚王の爲に太子を走らしむ可し。以て太子に忠にして之をして亟やかに去らしむ可し。以て人をして蘇秦を薛公に惡ましむ可し。以て蘇秦の爲に楚に封を請ふ可し。以て人をして薛公に説きて以て蘇子を善くせしむ可し。以て蘇子をして自ら薛公に解かしむ可し。蘇秦、薛公に謂ひて曰く、「臣聞く、謀泄る者は事功無く、計決せざる者は名成らず、と。今君太子を留むる者は、以て下東國を市はんとするなり。亟やかに下東國を得る者に非ずんば、則ち楚の計變ぜん、變ぜば則ち是れ君空質を抱きて名を天下に負ふなり。」薛公曰く、「善し。之を爲すこと奈何。」對へて曰く、「臣請ふ君の爲に楚に之き、亟やかに下東國の地に入らしめん。楚成るを得ば、則ち君敗るる無からん。」薛公曰く、「善し。」因りて之を遣る。楚王に謂ひて曰く、「齊太子を奉じて之を立てんと欲す。臣薛公の太子を留むるを觀るに、以て下東國を市はんとするなり。今王亟やかに下東國に入れずんば、則ち太子且に王の割を倍して齊をして己を奉ぜしめん。」楚王曰く、「謹んで命を受けん。」因りて下東國を獻ず。故に曰く、楚をして亟やかに地を入れしむ可きなり、と。薛公に謂ひて曰く、「楚の勢多く割く可きなり。」薛公曰く、「奈何。」「請ふ太子に其の故を告げ、太子をして君に謁せしめ、以て太子に忠にし、楚王をして之を聞かしめば、以て益地を入れしむ可し。」故に曰く、以て楚に益割せしむ可きなり、と。太子に謂ひて曰く、「齊太子を奉じて之を立てんとす、楚王地を割きて以て太子を留めんことを請ふも、齊其の地を少しとす。太子何ぞ楚の割地に倍して齊に資(と)らざる、齊必ず太子を奉ぜん。」太子曰く、「善し。」楚の割に倍して齊に延く。楚王之を聞きて恐れ、益地を割きて之を獻じ、尚ほ事の成らざらんことを恐る。故に曰く、以て楚をして益地を入れしむ可きなり、と。楚王に謂ひて曰く、「齊の敢へて多く地を割く所以の者は、太子を挾めばなり。今已に地を得て求めて止まざる者は、太子を以て王に權すればなり。故に臣能く太子を去らしめん。太子去らば、齊辭無く、必ず王に倍かじ。王因りて強齊に馳せて交を爲さば、齊辭し、必ず王に聽かん。然らば則ち是れ王讎を去りて齊の交を得るなり。」楚王大いに悅びて曰く、「請ふ國を以て因(よ)らん。」故に曰く、以て楚王の爲に太子をして亟やかに去らしむ可きなり、と。太子に謂ひて曰く、「夫れ楚を剬(た)つ者は王なり、空名を以て巿ふ者は太子なり、齊未だ必ずしも太子の言を信ぜざるなり、而して楚の功見(あら)はる。楚の交成らば、太子必ず危からん。太子其れ之を圖れ。」太子曰く、「謹んで命を受けん。」乃ち車を約して暮に去る。故に曰く、以て太子をして急に去らしむ可きなり、と。蘇秦人をして薛公に請ひて曰はしむ、「夫れ太子を留めんことを勸めし者は蘇秦なり。蘇秦誠に君の爲にするに非ざるなり、且つ以て楚を便にするなり。蘇秦君の之を知るを恐る、故に多く楚を割きて以て跡を滅す。今太子を勸むる者又蘇秦なり、而るに君知らず、臣竊かに君の爲に之を疑ふ。」薛公大いに蘇秦を怒る。故に曰く、人をして蘇秦を薛公に惡ましむ可きなり、と。又人をして楚王に謂はしめて曰く、「夫れ薛公をして太子を留めしめし者は蘇秦なり、王を奉じて楚太子に代へて立てし者も又蘇秦なり、地を割きて約を固めし者も又蘇秦なり、王に忠にして太子を走らしめし者も又蘇秦なり。今人蘇秦を薛公に惡む、其の齊の爲に薄くして楚の爲に厚きを以てなり。願はくは王の之を知らんことを。」楚王曰く、「謹んで命を受けん。」因りて蘇秦を封じて武貞君と爲す。故に曰く、以て蘇秦の爲に楚に封を請ふ可きなり、と。又景鯉をして薛公に請はしめて曰はしむ、「君の天下に重んぜらるる所以の者は、能く天下の士を得て齊の權有るを以てなり。今蘇秦は天下の辯士なり、世與に少なく有り。君因りて蘇秦を善くせずんば、則ち是れ天下の士を圍塞して説途を利せざるなり。夫れ君を善くせざる者は且に蘇秦を奉ぜんとす、而して君の事殆(あやう)し。今蘇秦楚王に善くせられて、君蚤く親しまずんば、則ち是れ身自ら楚と讎を爲すなり。故に君因りて之に親しみ、貴びて之を重んずるに如かず、是れ君楚を有つなり。」薛公因りて蘇秦を善くす。故に曰く、以て蘇秦の爲に薛公に説きて蘇秦を善くせしむ可きなり、と。