戦国策 / 范睢至秦
范睢至秦,王庭迎,謂范睢曰:「寡人宜以身受令久矣。今者義渠之事急,寡人日自請太后。今義渠之事已,寡人乃得以身受命。躬竊閔然不敏,敬執賓主之禮。」范睢辭讓。是日見范睢,見者無不變色易容者。秦王屏左右,宮中虛無人,秦王跪而請曰:「先生何以幸教寡人?」范睢曰:「唯唯。」有間,秦王復請,范睢曰:「唯唯。」若是者三。秦王跽曰:「先生不幸教寡人乎?」范睢謝曰:「非敢然也。臣聞始時呂尚之遇文王也,身為漁父而釣於渭陽之濱耳。若是者,交疏也。已一說而立為太師,載與俱歸者,其言深也。故文王果收功於呂尚,卒擅天下而身立為帝王。即使文王疏呂望而弗與深言,是周無天子之德,而文、武無與成其王也。今臣,羇旅之臣也,交疏於王,而所願陳者,皆匡君之之事,處人骨肉之間,願以陳臣之陋忠,而未知王心也,所以王三問而不對者是也。臣非有所畏而不敢言也,知今日言之於前,而明日伏誅於後,然臣弗敢畏也。大王信行臣之言,死不足以為臣患,亡不足以為臣憂,漆身而為厲,被髮而為狂,不足以為臣恥。五帝之聖而死,三王之仁而死,五伯之賢而死,烏獲之力而死,奔、育之勇焉而死。死者,人之所必不免也。處必然之勢,可以少有補於秦,此臣之所大願也,臣何患乎?伍子胥橐載而出昭關,夜行而晝伏,至於蔆水,無以餌其口,坐行蒲服,乞食於吳巿,卒興吳國,闔廬為霸。使臣得進謀如伍子胥,加之以幽囚,終身不復見,是臣說之行也,臣何憂乎?箕子、接輿,漆身而為厲,被髮而為狂,無益於殷、楚。使臣得同行於箕子、接輿,漆身可以補所賢之主,是臣之大榮也,臣又何恥乎?臣之所恐者,獨恐臣死之後,天下見臣盡忠而身蹶也,是以杜口裹足,莫肯即秦耳。足下上畏太后之嚴,下惑姦臣之態;居深宮之中,不離保傅之手;終身闇惑,無與照姦;大者宗廟滅覆,小者身以孤危。此臣之所恐耳!若夫窮辱之事,死亡之患,臣弗敢畏也。臣死而秦治,賢於生也。」秦王跽曰:「先生是何言也!夫秦國僻遠,寡人愚不肖,先生乃幸至此,此天以寡人慁先生,而存先王之廟也。寡人得受命於先生,此天所以幸先王而不棄其孤也。先生奈何而言若此!事無大小,上及太后,下至大臣,願先生悉以教寡人,無疑寡人也。」范睢再拜,秦王亦再拜。范睢曰:「大王之國,北有甘泉、谷口,南帶涇、渭,右隴、蜀,左關、阪;戰車千乘,奮擊百萬。以秦卒之勇,車騎之多,以當諸侯,譬若馳韓盧而逐蹇兔也,霸王之業可致。今反閉而不敢窺兵於山東者,是穰侯為國謀不忠,而大王之計有所失也。」王曰:「願聞所失計。」睢曰:「大王越韓、魏而攻強齊,非計也。少出師,則不足以傷齊;多之則害於秦。臣意王之計欲少出師,而悉韓、魏之兵則不義矣。今見與國之不可親,越人之國而攻,可乎?疏於計矣!昔者,齊人伐楚,戰勝,破軍殺將,再辟千里,膚寸之地無得者,豈齊不欲地哉,形弗能有也。諸侯見齊之罷露,君臣之不親,舉兵而伐之,主辱軍破,為天下笑。所以然者,以其伐楚而肥韓、魏也。此所謂藉賊兵而齎盜食者也。王不如遠交而近攻,得寸則王之寸,得尺則王之尺也。今舍此而遠攻,不亦繆乎?且昔者,中山之地,方五百里,趙獨擅之,功成、名立、利附,則天下莫能害。今韓、魏,中國之處,而天下之樞也。王若欲霸,必親中國而以為天下樞,以威楚、趙。趙彊則楚附,楚彊則趙附。楚、趙附則齊必懼,懼必卑辭重幣以事秦,齊附而韓、魏可虛也。」王曰:「寡人欲親魏,魏多變之國也,寡人不能親。請問親魏奈何?」范睢曰:「卑辭重幣以事之。不可,削地而賂之。不可,舉兵而伐之。」於是舉兵而攻邢丘,邢丘拔而魏請附。曰:「秦、韓之地形,相錯如繡。秦之有韓,若木之有蠹,人之病心腹。天下有變,為秦害者莫大於韓。王不如收韓。」王曰:「寡人欲收韓,不聽,為之奈何?」范睢曰:「舉兵而攻滎陽,則成睪之路不通;北斬太行之道則上黨之兵不下;一舉而攻榮陽,則其國斷而為三。魏、韓見必亡,焉得不聽?韓聽而霸事可成也。」王曰:「善。」范睢曰:「臣居山東,聞齊之內有田單,不聞其王。聞秦之有太后、穰侯、涇陽、華陽,不聞其有王。夫擅國之謂王,能專利害之謂王,制殺生之威之謂王。今太后擅行不顧,穰侯出使不報,涇陽、華陽擊斷無諱,四貴備而國不危者,未之有也。為此四者,下乃所謂無王已。然則權焉得不傾,而令焉得從王出乎?臣聞:『善為國者,內固其威,而外重其權。』穰侯使者操王之重,決裂諸侯,剖符於天下,征敵伐國,莫敢不聽。戰勝攻取,則利歸於陶;國弊,御於諸侯;戰敗,則怨結於百姓,而禍歸社稷。詩曰:『木實繁者披其枝,披其枝者傷其心。大其都者危其國,尊其臣者卑其主。』淖齒管齊之權,縮閔王之筯,縣之廟梁,宿昔而死。李兌用趙,減食主父,百日而餓死。今秦,太后、穰侯用事,高陵、涇陽佐之,卒無秦王,此亦淖齒、李兌之類已。臣今見王獨立於廟朝矣,且臣將恐後世之有秦國者,非王之子孫也。」秦王懼,於是乃廢太后,逐穰侯,出高陵,走涇陽於關外。昭王謂范睢曰:「昔者,齊公得管仲,時以為仲父。今吾得子,亦以為父。」
新字:范睢至秦,王庭迎,謂范睢曰:「寡人宜以身受令久矣。今者義渠之事急,寡人日自請太后。今義渠之事已,寡人乃得以身受命。躬竊閔然不敏,敬執賓主之礼。」范睢辞譲。是日見范睢,見者無不変色易容者。秦王屏左右,宮中虚無人,秦王跪而請曰:「先生何以幸教寡人?」范睢曰:「唯唯。」有間,秦王復請,范睢曰:「唯唯。」若是者三。秦王跽曰:「先生不幸教寡人乎?」范睢謝曰:「非敢然也。臣聞始時呂尚之遇文王也,身為漁父而釣於渭陽之浜耳。若是者,交疏也。已一説而立為太師,載与俱帰者,其言深也。故文王果収功於呂尚,卒擅天下而身立為帝王。即使文王疏呂望而弗与深言,是周無天子之徳,而文、武無与成其王也。今臣,羇旅之臣也,交疏於王,而所願陳者,皆匡君之之事,処人骨肉之間,願以陳臣之陋忠,而未知王心也,所以王三問而不対者是也。臣非有所畏而不敢言也,知今日言之於前,而明日伏誅於後,然臣弗敢畏也。大王信行臣之言,死不足以為臣患,亡不足以為臣憂,漆身而為厲,被髪而為狂,不足以為臣恥。五帝之聖而死,三王之仁而死,五伯之賢而死,烏獲之力而死,奔、育之勇焉而死。死者,人之所必不免也。処必然之勢,可以少有補於秦,此臣之所大願也,臣何患乎?伍子胥橐載而出昭関,夜行而昼伏,至於蔆水,無以餌其口,坐行蒲服,乞食於吳巿,卒興吳国,闔廬為覇。使臣得進謀如伍子胥,加之以幽囚,終身不復見,是臣説之行也,臣何憂乎?箕子、接輿,漆身而為厲,被髪而為狂,無益於殷、楚。使臣得同行於箕子、接輿,漆身可以補所賢之主,是臣之大栄也,臣又何恥乎?臣之所恐者,独恐臣死之後,天下見臣尽忠而身蹶也,是以杜口裹足,莫肯即秦耳。足下上畏太后之厳,下惑姦臣之態;居深宮之中,不離保傅之手;終身闇惑,無与照姦;大者宗廟滅覆,小者身以孤危。此臣之所恐耳!若夫窮辱之事,死亡之患,臣弗敢畏也。臣死而秦治,賢於生也。」秦王跽曰:「先生是何言也!夫秦国僻遠,寡人愚不肖,先生乃幸至此,此天以寡人慁先生,而存先王之廟也。寡人得受命於先生,此天所以幸先王而不棄其孤也。先生奈何而言若此!事無大小,上及太后,下至大臣,願先生悉以教寡人,無疑寡人也。」范睢再拝,秦王亦再拝。范睢曰:「大王之国,北有甘泉、谷口,南帯涇、渭,右隴、蜀,左関、阪;戦車千乗,奮擊百万。以秦卒之勇,車騎之多,以当諸侯,譬若馳韓盧而逐蹇兔也,覇王之業可致。今反閉而不敢窺兵於山東者,是穰侯為国謀不忠,而大王之計有所失也。」王曰:「願聞所失計。」睢曰:「大王越韓、魏而攻強斉,非計也。少出師,則不足以傷斉;多之則害於秦。臣意王之計欲少出師,而悉韓、魏之兵則不義矣。今見与国之不可親,越人之国而攻,可乎?疏於計矣!昔者,斉人伐楚,戦勝,破軍殺将,再辟千里,膚寸之地無得者,豈斉不欲地哉,形弗能有也。諸侯見斉之罷露,君臣之不親,舉兵而伐之,主辱軍破,為天下笑。所以然者,以其伐楚而肥韓、魏也。此所謂藉賊兵而齎盗食者也。王不如遠交而近攻,得寸則王之寸,得尺則王之尺也。今舎此而遠攻,不亦繆乎?且昔者,中山之地,方五百里,趙独擅之,功成、名立、利附,則天下莫能害。今韓、魏,中国之処,而天下之枢也。王若欲覇,必親中国而以為天下枢,以威楚、趙。趙彊則楚附,楚彊則趙附。楚、趙附則斉必懼,懼必卑辞重幣以事秦,斉附而韓、魏可虚也。」王曰:「寡人欲親魏,魏多変之国也,寡人不能親。請問親魏奈何?」范睢曰:「卑辞重幣以事之。不可,削地而賂之。不可,舉兵而伐之。」於是舉兵而攻邢丘,邢丘抜而魏請附。曰:「秦、韓之地形,相錯如繡。秦之有韓,若木之有蠹,人之病心腹。天下有変,為秦害者莫大於韓。王不如収韓。」王曰:「寡人欲収韓,不聴,為之奈何?」范睢曰:「舉兵而攻滎陽,則成睪之路不通;北斬太行之道則上党之兵不下;一舉而攻栄陽,則其国断而為三。魏、韓見必亡,焉得不聴?韓聴而覇事可成也。」王曰:「善。」范睢曰:「臣居山東,聞斉之內有田単,不聞其王。聞秦之有太后、穰侯、涇陽、華陽,不聞其有王。夫擅国之謂王,能専利害之謂王,制殺生之威之謂王。今太后擅行不顧,穰侯出使不報,涇陽、華陽擊断無諱,四貴備而国不危者,未之有也。為此四者,下乃所謂無王已。然則権焉得不傾,而令焉得従王出乎?臣聞:『善為国者,內固其威,而外重其権。』穰侯使者操王之重,決裂諸侯,剖符於天下,征敵伐国,莫敢不聴。戦勝攻取,則利帰於陶;国弊,御於諸侯;戦敗,則怨結於百姓,而禍帰社稷。詩曰:『木実繁者披其枝,披其枝者傷其心。大其都者危其国,尊其臣者卑其主。』淖齒管斉之権,縮閔王之筯,県之廟梁,宿昔而死。李兌用趙,減食主父,百日而餓死。今秦,太后、穰侯用事,高陵、涇陽佐之,卒無秦王,此亦淖齒、李兌之類已。臣今見王独立於廟朝矣,且臣将恐後世之有秦国者,非王之子孫也。」秦王懼,於是乃廃太后,逐穰侯,出高陵,走涇陽於関外。昭王謂范睢曰:「昔者,斉公得管仲,時以為仲父。今吾得子,亦以為父。」
書き下し
范睢秦に至る、王庭に迎へ、范睢に謂ひて曰く、「寡人宜しく身を以て令を受くること久しかるべし。今義渠の事急なれば、寡人日々自ら太后に請ふ。今義渠の事已(や)みぬれば、寡人乃ち身を以て命を受くるを得たり。躬(み)づから竊かに閔然として不敏なるも、敬んで賓主の禮を執らん。」范睢辭讓す。是の日范睢を見るに、見る者變色易容せざる無し。秦王左右を屏(しりぞ)け、宮中虛しくして人無く、秦王跪きて請ひて曰く、「先生何を以てか寡人に教ふるを幸ひせん。」范睢曰く、「唯唯。」間有りて、秦王復た請ふ、范睢曰く、「唯唯。」是くの若き者三たびす。秦王跽(ひざまづ)きて曰く、「先生幸ひに寡人に教へざるか。」范睢謝して曰く、「敢へて然るに非ざるなり。臣聞く、始め呂尚の文王に遇へるや、身漁父と為りて渭陽の濱に釣りせしのみ。是くの若きは交疏なり。已に一說して立ちて太師と為り、載せて俱に歸る者は、其の言深ければなり。故に文王果して功を呂尚に收め、卒に天下を擅にして身帝王と立てり。即し文王呂望を疏んじて與に深く言はざらしめば、是れ周に天子の德無く、文・武與に其の王を成す無からん。今臣は羇旅の臣にして、王に交疏し、而して願はくは陳ぜんとする所は、皆君を匡すの事にして、人の骨肉の間に處る。願はくは臣の陋忠を陳べんとするも、未だ王の心を知らざるなり。王三たび問ひて對へざる所以は是れなり。臣畏るる所有りて敢へて言はざるに非ざるなり。今日之を前に言ひて、明日之に伏誅せらるるを知るも、然れども臣敢へて畏れざるなり。大王信じて臣の言を行はば、死すとも以て臣の患ひと爲すに足らず、亡ぶとも以て臣の憂ひと爲すに足らず、身に漆して厲(らい)と爲り、髮を被りて狂と爲るも、以て臣の恥と爲すに足らず。五帝の聖にして死し、三王の仁にして死し、五伯の賢にして死し、烏獲の力にして死し、奔・育の勇にして死せり。死は人の必ず免れざる所なり。必然の勢に處りて、以て少しく秦に補ふ有る可くんば、此れ臣の大いに願ふ所なり、臣何をか患へん。伍子胥は橐に載せられて昭關を出で、夜行きて晝伏し、蔆水に至りて以て其の口を餌ふ無く、坐行蒲服して、食を呉市に乞ひ、卒に呉國を興し、闔廬を覇たらしめたり。臣をして謀を進むること伍子胥の如きを得しめ、之に幽囚を加へて、終身復た見えざるとも、是れ臣の說の行はるるなり、臣何をか憂へん。箕子・接輿は、身に漆して厲と爲り、髮を被りて狂と爲るも、殷・楚に益無かりき。臣をして箕子・接輿と行を同じくするを得しめ、身に漆すること以て賢とする所の主に補ふ可くんば、是れ臣の大榮なり、臣又何をか恥ぢん。臣の恐るる所は、獨り臣死するの後、天下臣の忠を盡くして身蹶(たふ)るるを見んことを恐るるなり。是を以て口を杜(と)ぢ足を裹みて、肯へて秦に即く莫きのみ。足下上は太后の嚴を畏れ、下は姦臣の態に惑ひ、深宮の中に居りて保傅の手を離れず、終身闇惑して與に姦を照らす無く、大なる者は宗廟滅覆し、小なる者は身以て孤危なり。此れ臣の恐るる所のみ。若し夫れ窮辱の事、死亡の患ひの若きは、臣敢へて畏れざるなり。臣死して秦治まらば、生けるより賢れり。」秦王跽きて曰く、「先生是れ何の言ぞや。夫れ秦國は僻遠にして、寡人は愚にして不肖なり。先生乃ち幸ひに此に至る、此れ天寡人を以て先生を慁(わづら)はし、先王の廟を存せしむるなり。寡人先生に命を受くるを得るは、此れ天の先王を幸ひして其の孤を棄てざる所以なり。先生奈何ぞ言ふこと此くの若くなる。事の大小と無く、上は太后に及び、下は大臣に至るまで、願はくは先生悉く以て寡人に教へ、寡人を疑ふ無かれ。」范睢再拜す、秦王も亦た再拜す。范睢曰く、「大王の國は、北に甘泉・谷口有り、南に涇・渭を帶び、右に隴・蜀、左に關・阪あり。戰車千乘、奮擊百萬。秦卒の勇、車騎の多きを以て、以て諸侯に當らば、譬へば韓盧を馳せて蹇兔を逐ふが若し。霸王の業致す可し。今反りて閉ぢて敢へて兵を山東に窺はざる者は、是れ穰侯國の爲に謀りて忠ならず、大王の計に失ふ所有ればなり。」王曰く、「願はくは失ふ所の計を聞かん。」睢曰く、「大王韓・魏を越えて強齊を攻むるは、計に非ざるなり。師を出だすこと少なければ、則ち以て齊を傷つくるに足らず。之を多くすれば則ち秦を害す。臣意ふに王の計、師を出だすこと少なくして、韓・魏の兵を悉くせんと欲するは則ち不義なり。今與國の親しむ可からざるを見て、人の國を越えて攻む、可ならんや。計に疏きなり。昔者、齊人楚を伐ちて、戰ひて勝ち、軍を破り將を殺し、地を再辟すること千里なるも、膚寸の地も得る者無かりき。豈に齊地を欲せざらんや、形有つ能はざればなり。諸侯齊の罷露するを見て、君臣の親しまざるを見て、兵を舉げて之を伐ち、主辱められ軍破れ、天下の笑ひと爲れり。然る所以の者は、其の楚を伐ちて韓・魏を肥やせばなり。此れ所謂『賊に兵を藉し盜に食を齎す』者なり。王は遠く交はりて近く攻むるに如かず、寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば則ち王の尺なり。今此を舍てて遠く攻む、亦た繆(あやま)らざらんや。且つ昔者、中山の地、方五百里、趙獨り之を擅にす。功成り名立ち利附けば、則ち天下能く害する莫し。今韓・魏は、中國の處にして天下の樞なり。王若し霸たらんと欲せば、必ず中國に親しみて以て天下の樞と爲し、以て楚・趙を威(おど)すべし。趙彊ければ則ち楚附き、楚彊ければ則ち趙附く。楚・趙附けば則ち齊必ず懼れ、懼るれば必ず辭を卑くし幣を重くして以て秦に事へん。齊附きて韓・魏虛にす可きなり。」王曰く、「寡人魏に親しまんと欲するも、魏は變多きの國なり、寡人親しむ能はず。請ふ魏に親しむこと奈何と問はん。」范睢曰く、「辭を卑くし幣を重くして以て之に事へよ。不可ならば地を削りて之に賂せよ。不可ならば兵を舉げて之を伐て。」是に於て兵を舉げて邢丘を攻め、邢丘拔けて魏附くを請ふ。曰く、「秦・韓の地形は、相錯はること繡の如し。秦の韓有るは、木の蠹有るが若く、人の心腹を病むがごとし。天下變有らば、秦の爲に害を爲す者は韓より大なるは莫し。王は韓を收むるに如かず。」王曰く、「寡人韓を收めんと欲するも聽かず、之を爲すこと奈何せん。」范睢曰く、「兵を舉げて滎陽を攻むれば、則ち成睪の路通ぜず。北に太行の道を斬らば則ち上黨の兵下らず。一たび舉げて榮陽を攻むれば、則ち其の國斷ちて三と爲らん。魏・韓必ず亡ぶるを見ば、焉んぞ聽かざるを得んや。韓聽けば霸の事成る可し。」王曰く、「善し。」范睢曰く、「臣山東に居りしとき、齊の內に田單有るを聞くも、其の王有るを聞かず。秦に太后・穰侯・涇陽・華陽有るを聞くも、其の王有るを聞かず。夫れ國を擅にする之を王と謂ひ、能く利害を專らにする之を王と謂ひ、殺生の威を制する之を王と謂ふ。今太后行を擅にして顧みず、穰侯使を出だして報ぜず、涇陽・華陽擊斷して諱む無し。四貴備はりて國危からざる者、未だ之有らざるなり。此の四者の爲にすれば、下乃ち所謂王無きのみ。然らば則ち權焉んぞ傾かざるを得んや、令焉んぞ王より出づるを得んや。臣聞く、『善く國を爲むる者は、內に其の威を固くし、外に其の權を重くす』と。穰侯の使者は王の重きを操り、諸侯を決裂し、天下に符を剖ち、敵を征し國を伐ち、敢へて聽かざる莫し。戰ひて勝ち攻めて取れば、則ち利陶に歸す。國弊るれば、諸侯に御せられ、戰ひて敗るれば、則ち怨み百姓に結び、禍ひ社稷に歸す。詩に曰く、『木の實繁き者は其の枝を披き、其の枝を披く者は其の心を傷つく。其の都を大にする者は其の國を危くし、其の臣を尊くする者は其の主を卑くす。』と。淖齒齊の權を管し、閔王の筯を縮め、之を廟梁に縣け、宿昔にして死せり。李兌趙を用ゐ、主父の食を減じ、百日にして餓死せり。今秦、太后・穰侯事を用ゐ、高陵・涇陽之を佐け、卒に秦王無し。此れ亦た淖齒・李兌の類のみ。臣今王の廟朝に獨立するを見る。且つ臣將に後世秦國を有つ者、王の子孫に非ざるを恐れんとす。」秦王懼れ、是に於て乃ち太后を廢し、穰侯を逐ひ、高陵を出だし、涇陽を關外に走らしむ。昭王范睢に謂ひて曰く、「昔者、齊公管仲を得て、時に以て仲父と爲す。今吾子を得て、亦た以て父と爲さん。」
現代語訳
范雎が秦に到着すると、王は宮廷で出迎え、范雎に言った。「私はとうに自ら教えを受けるべきであったのに、遅くなってしまった。近ごろ義渠の事(北方民族の脅威)が切迫していたため、私は毎日自ら太后に伺いを立てていた。今、義渠の件が片づいたので、ようやく自ら先生の教えを受けられるようになった。私自身、内心恥ずかしく至らぬ者ではあるが、謹んで賓主の礼を尽くしたい。」范雎は謙遜して辞退した。この日、范雎に謁見した者は皆、その威に打たれて顔色を変えないものはなかった。秦王は左右の者を退け、宮中には誰もいなくなった。秦王は跪いて「先生は何をもって私にご教示くださいますか」と願った。范雎は「はあ、はあ」とだけ答えた。しばらくして王が再び願うと、范雎はまた「はあ、はあ」と答えるだけであった。これが三度繰り返された。秦王は跪いたまま「先生はどうか私に教えてくださらないのですか」と言った。范雎は謝って言った。「あえてそうしているのではありません。私が聞くところでは、かつて呂尚(太公望)が文王に出会ったとき、その身はただの漁師で渭水のほとりで釣りをしていたにすぎませんでした。この時点では二人の交わりは浅いものでした。ところが一度説いただけで太師に取り立てられ、車に乗せて共に帰ったのは、その言葉が深いものであったからです。それゆえ文王は結局呂尚によって功業を収め、ついに天下を手中にして自ら帝王となったのです。もし文王が呂望を疎んじて深く語り合わなかったなら、周には天子たる徳がなく、文王・武王が王業を成し遂げることもなかったでしょう。今、私は他国から流れてきた身の上の臣であり、王との交わりも浅いものです。それでいて申し上げたいことは、すべて君主を正すべき事柄であり、王の肉親の間に立ち入るような内容です。私のつたない忠誠を申し述べたいと願いながらも、まだ王のお心のほどを知りません。王が三度お尋ねになっても私がお答えしなかったのはこのためです。私は何かを恐れて言わないのではありません。今日ここで申し上げれば明日には処刑されるかもしれないと知っていても、私はあえて恐れはしません。大王が私の言葉を信じて実行してくださるなら、死んでも私の患いとするに足らず、亡命しても私の憂いとするに足らず、身に漆を塗ってらい病者のようになり、髪を振り乱して狂人のようになっても、私の恥とするには足りません。五帝ほどの聖人も死に、三王ほどの仁者も死に、五覇ほどの賢者も死に、烏獲ほどの力持ちも死に、孟賁・夏育ほどの勇者も死にました。死は人が必ず免れないものです。必ず訪れるこの定めの中にあって、わずかでも秦のお役に立てるのであれば、それこそ私の大いに願うところであり、何を患うことがありましょうか。伍子胥は袋に隠されて昭関を脱出し、夜は歩き昼は隠れ、蔆水のほとりに至っては食べる物もなく、腹ばいになって進み、呉の市で食を乞いましたが、ついに呉国を興し、闔廬を覇者にしました。もし私が伍子胥のように策を進めることができるなら、たとえ幽閉されて生涯二度とお目にかかれなくなろうとも、それは私の説が実行されたということですから、何を憂えることがありましょうか。箕子や接輿は、身に漆を塗ってらい病者となり、髪を振り乱して狂人となりましたが、それは殷や楚の役には立ちませんでした。もし私が箕子や接輿と同じ道を歩み、その身を犠牲にすることで賢明な主君のお役に立てるのであれば、それは私の大いなる栄誉であり、何を恥じることがありましょうか。私が恐れるのはただ一つ、私が死んだ後に、天下の人々が私の忠誠が尽くされたのにこの身が倒れたのを見て、それゆえ口をつぐみ足を止めて、誰も進んで秦に仕えようとしなくなることです。あなた様(王)は上は太后の厳しさを恐れ、下は姦臣の見せかけに惑わされ、深宮の中に住まって守り役の手から離れられず、生涯道理に暗く惑わされたまま姦臣を見抜く者もなく、大きくは宗廟が滅び覆り、小さくはご自身が孤立して危うくなる。これこそ私が恐れることなのです。困窮や屈辱、死や亡命といった患いについては、私はあえて恐れはしません。私が死んでも秦が治まるのであれば、生きているより優れたことです。」秦王は跪いたまま言った。「先生、それはどういうお言葉ですか。秦の国は辺鄙な僻地にあり、私は愚かで至らぬ者です。それでも先生が幸いにもこの地までいらしてくださった、これは天が私に先生をわずらわせることで、先王の宗廟を存続させようとされているのです。私が先生から教えを受けられるのも、天が先王を幸いし、その遺児(私)を見捨てないためなのです。先生はどうしてこのようなことをおっしゃるのですか。事柄の大小を問わず、上は太后に関わることから下は大臣に至るまで、どうか先生、すべて包み隠さず私に教えてください。私を疑わないでください。」范雎は二度拝礼し、秦王もまた二度拝礼した。范雎は言った。「大王の国は、北に甘泉・谷口があり、南は涇水・渭水を帯び、右(西)には隴・蜀があり、左(東)には函谷関・崤山があります。戦車は千乗、精鋭の兵は百万。秦の兵の勇猛さと戦車・騎兵の多さをもって諸侯に当たれば、あたかも名犬・韓盧を走らせて足の悪い兎を追うようなものです。覇王の大業も成し遂げられるはずです。それなのに、かえって国を閉ざして山東の地に兵を進めようとしないのは、穰侯が国のために謀って忠実でなく、大王の計略にも誤りがあるからです。」王は「その誤った計略について聞かせてほしい」と言った。范雎は言った。「大王が韓・魏を飛び越えて強国の斉を攻めるのは、良い策ではありません。出兵を少なくすれば斉に打撃を与えるには足りず、多くすれば秦自身を害します。私が思いますに、王のお考えは出兵を少なくして韓・魏の兵をすべて動員しようとするものでしょうが、それは道理に合いません。今、同盟国が信頼できないと分かっているのに、他国を飛び越えて攻めるなど、できるものでしょうか。それは計略として疎漏です。昔、斉が楚を討伐し、戦いに勝って敵軍を破り将軍を殺し、二度にわたって千里の地を切り開きましたが、結局わずかな土地も得られませんでした。斉が土地を欲しなかったわけではなく、その土地を保持できるだけの形勢になかったからです。諸侯は斉が疲弊し、君臣の仲が親密でないのを見て、兵を挙げてこれを討ち、斉の主君は辱められ軍は敗れ、天下の笑い者となりました。そうなった理由は、斉が楚を討伐したことで実は韓・魏を肥え太らせてしまったからです。これがいわゆる『賊に武器を貸し、盗人に食糧を与える』というものです。王は遠くと交わりを結び近くを攻めるのが得策です。一寸の地を得れば王の一寸となり、一尺の地を得れば王の一尺となります。今これを捨てて遠くを攻めるのは、誤りではないでしょうか。また昔、中山の地は方五百里ありましたが、趙が単独でこれを併呑しました。功が成り名が立ち利益が付随すれば、天下の誰もこれを害することはできません。今、韓・魏は中原に位置し、天下の要となる地です。王がもし覇者たらんとするならば、必ず中原の国々と親しんでこれを天下の要とし、それによって楚・趙を威圧すべきです。趙が強くなれば楚が付き従い、楚が強くなれば趙が付き従います。楚・趙が付き従えば斉は必ず恐れ、恐れれば必ず言葉を低くし贈り物を重くして秦に仕えるでしょう。斉が付き従えば、韓・魏はたやすく制圧できます。」王は言った。「私は魏と親しくなりたいが、魏は変わりやすい国なので、親しむことができない。どうすれば魏と親しめるか、教えてほしい。」范雎は言った。「言葉を低くし贈り物を重くして仕えることです。それでだめなら、こちらの地を割いて贈り物とすることです。それでもだめなら、兵を挙げて討伐することです。」そこで兵を挙げて邢丘を攻め、邢丘を落とすと魏は服属を願い出た。范雎は言った。「秦と韓の地形は、まるで刺繍のように入り組んでいます。秦にとって韓があるのは、木に食い虫がいるようなもの、人が心臓や腹に病を抱えているようなものです。天下に変事があれば、秦にとって害となるのは韓より大きいものはありません。王は韓を服属させるのが一番です。」王は言った。「私は韓を服属させたいが、韓が言うことを聞かない、どうすればよいか。」范雎は言った。「兵を挙げて滎陽を攻めれば、成睪への道が通じなくなります。北で太行山の道を断てば、上党の兵が下って来られなくなります。一挙に滎陽を攻めれば、韓の国は分断されて三つになります。魏・韓は必ず滅亡すると悟れば、どうして言うことを聞かないでいられましょうか。韓が服属すれば覇業は成し遂げられます。」王は「よろしい」と言った。范雎は言った。「私が山東(崤山以東の諸国)にいたとき、斉には田単がいるとは聞きましたが、斉王がいるとは聞きませんでした。秦には太后・穰侯・涇陽君・華陽君がいるとは聞きましたが、秦王がいるとは聞きませんでした。そもそも国を思うままにできる者を王と言い、利害を専断できる者を王と言い、人の生殺の権を握る者を王と言うのです。今、太后は自らの行いを思うままにして誰にも顧みず、穰侯は使者を出しても報告せず、涇陽君・華陽君は思うままに事を裁断してはばかることがありません。この四人の権貴がそろっていながら国家が危うくならなかった例は、今までにありません。この四人が実権を握っている以上、それは事実上『王がいない』のと同じことです。それでは権力が傾かないはずがなく、政令が王から出るはずがありません。私はこう聞いています。『国をうまく治める者は、内では自らの権威を固め、外では自らの権限を重んじる』と。穰侯の使者は王の権威を勝手に操り、諸侯を分断し、天下に割符を発行し、敵国を征伐して、誰も従わない者はいません。戦って勝ち、攻めて土地を取れば、その利益は陶に帰します。国が疲弊すれば、その責めは諸侯に押し付けられ、戦って敗れれば、恨みは民に結ばれ、禍は国家そのものに帰します。詩経に言います。『木の実が多く実れば、その枝が裂ける。枝が裂ければ木の幹を傷める。都を大きくしすぎればその国を危うくし、臣下を尊くしすぎればその主君を卑しくする。』と。淖歯は斉の実権を握り、閔王の筋を引き抜いて廟の梁に吊るし、一晩のうちに死なせました。李兌は趙で権力を用い、主父(趙の武霊王)の食糧を減らし、百日で餓死させました。今、秦では太后・穰侯が実権を握り、高陵君・涇陽君がこれを助け、ついには秦王が実質いないも同然です。これもまた淖歯や李兌と同じ類なのです。私は今、王がただ一人、宗廟の朝廷に孤立しているのを見ています。私はこの先、後世に秦国を保つ者が、王のご子孫ではなくなってしまうのではないかと恐れています。」秦王は恐れをなし、そこで太后を退け、穰侯を追放し、高陵君を国外に出し、涇陽君を関の外へ追いやった。昭王は范雎に言った。「昔、斉の桓公は管仲を得て、これを仲父(父に次ぐ人)と呼びました。今、私はあなたを得て、同じくあなたを父と呼びましょう。」