戦国策 / 范睢至秦
范睢至秦,王庭迎,謂范睢曰:「寡人宜以身受令久矣。今者義渠之事急,寡人日自請太后。今義渠之事已,寡人乃得以身受命。躬竊閔然不敏,敬執賓主之禮。」范睢辭讓。是日見范睢,見者無不變色易容者。秦王屏左右,宮中虛無人,秦王跪而請曰:「先生何以幸教寡人?」范睢曰:「唯唯。」有間,秦王復請,范睢曰:「唯唯。」若是者三。秦王跽曰:「先生不幸教寡人乎?」范睢謝曰:「非敢然也。臣聞始時呂尚之遇文王也,身為漁父而釣於渭陽之濱耳。若是者,交疏也。已一說而立為太師,載與俱歸者,其言深也。故文王果收功於呂尚,卒擅天下而身立為帝王。即使文王疏呂望而弗與深言,是周無天子之德,而文、武無與成其王也。今臣,羇旅之臣也,交疏於王,而所願陳者,皆匡君之之事,處人骨肉之間,願以陳臣之陋忠,而未知王心也,所以王三問而不對者是也。臣非有所畏而不敢言也,知今日言之於前,而明日伏誅於後,然臣弗敢畏也。大王信行臣之言,死不足以為臣患,亡不足以為臣憂,漆身而為厲,被髮而為狂,不足以為臣恥。五帝之聖而死,三王之仁而死,五伯之賢而死,烏獲之力而死,奔、育之勇焉而死。死者,人之所必不免也。處必然之勢,可以少有補於秦,此臣之所大願也,臣何患乎?伍子胥橐載而出昭關,夜行而晝伏,至於蔆水,無以餌其口,坐行蒲服,乞食於吳巿,卒興吳國,闔廬為霸。使臣得進謀如伍子胥,加之以幽囚,終身不復見,是臣說之行也,臣何憂乎?箕子、接輿,漆身而為厲,被髮而為狂,無益於殷、楚。使臣得同行於箕子、接輿,漆身可以補所賢之主,是臣之大榮也,臣又何恥乎?臣之所恐者,獨恐臣死之後,天下見臣盡忠而身蹶也,是以杜口裹足,莫肯即秦耳。足下上畏太后之嚴,下惑姦臣之態;居深宮之中,不離保傅之手;終身闇惑,無與照姦;大者宗廟滅覆,小者身以孤危。此臣之所恐耳!若夫窮辱之事,死亡之患,臣弗敢畏也。臣死而秦治,賢於生也。」秦王跽曰:「先生是何言也!夫秦國僻遠,寡人愚不肖,先生乃幸至此,此天以寡人慁先生,而存先王之廟也。寡人得受命於先生,此天所以幸先王而不棄其孤也。先生奈何而言若此!事無大小,上及太后,下至大臣,願先生悉以教寡人,無疑寡人也。」范睢再拜,秦王亦再拜。范睢曰:「大王之國,北有甘泉、谷口,南帶涇、渭,右隴、蜀,左關、阪;戰車千乘,奮擊百萬。以秦卒之勇,車騎之多,以當諸侯,譬若馳韓盧而逐蹇兔也,霸王之業可致。今反閉而不敢窺兵於山東者,是穰侯為國謀不忠,而大王之計有所失也。」王曰:「願聞所失計。」睢曰:「大王越韓、魏而攻強齊,非計也。少出師,則不足以傷齊;多之則害於秦。臣意王之計欲少出師,而悉韓、魏之兵則不義矣。今見與國之不可親,越人之國而攻,可乎?疏於計矣!昔者,齊人伐楚,戰勝,破軍殺將,再辟千里,膚寸之地無得者,豈齊不欲地哉,形弗能有也。諸侯見齊之罷露,君臣之不親,舉兵而伐之,主辱軍破,為天下笑。所以然者,以其伐楚而肥韓、魏也。此所謂藉賊兵而齎盜食者也。王不如遠交而近攻,得寸則王之寸,得尺則王之尺也。今舍此而遠攻,不亦繆乎?且昔者,中山之地,方五百里,趙獨擅之,功成、名立、利附,則天下莫能害。今韓、魏,中國之處,而天下之樞也。王若欲霸,必親中國而以為天下樞,以威楚、趙。趙彊則楚附,楚彊則趙附。楚、趙附則齊必懼,懼必卑辭重幣以事秦,齊附而韓、魏可虛也。」王曰:「寡人欲親魏,魏多變之國也,寡人不能親。請問親魏奈何?」范睢曰:「卑辭重幣以事之。不可,削地而賂之。不可,舉兵而伐之。」於是舉兵而攻邢丘,邢丘拔而魏請附。曰:「秦、韓之地形,相錯如繡。秦之有韓,若木之有蠹,人之病心腹。天下有變,為秦害者莫大於韓。王不如收韓。」王曰:「寡人欲收韓,不聽,為之奈何?」范睢曰:「舉兵而攻滎陽,則成睪之路不通;北斬太行之道則上黨之兵不下;一舉而攻榮陽,則其國斷而為三。魏、韓見必亡,焉得不聽?韓聽而霸事可成也。」王曰:「善。」范睢曰:「臣居山東,聞齊之內有田單,不聞其王。聞秦之有太后、穰侯、涇陽、華陽,不聞其有王。夫擅國之謂王,能專利害之謂王,制殺生之威之謂王。今太后擅行不顧,穰侯出使不報,涇陽、華陽擊斷無諱,四貴備而國不危者,未之有也。為此四者,下乃所謂無王已。然則權焉得不傾,而令焉得從王出乎?臣聞:『善為國者,內固其威,而外重其權。』穰侯使者操王之重,決裂諸侯,剖符於天下,征敵伐國,莫敢不聽。戰勝攻取,則利歸於陶;國弊,御於諸侯;戰敗,則怨結於百姓,而禍歸社稷。詩曰:『木實繁者披其枝,披其枝者傷其心。大其都者危其國,尊其臣者卑其主。』淖齒管齊之權,縮閔王之筯,縣之廟梁,宿昔而死。李兌用趙,減食主父,百日而餓死。今秦,太后、穰侯用事,高陵、涇陽佐之,卒無秦王,此亦淖齒、李兌之類已。臣今見王獨立於廟朝矣,且臣將恐後世之有秦國者,非王之子孫也。」秦王懼,於是乃廢太后,逐穰侯,出高陵,走涇陽於關外。昭王謂范睢曰:「昔者,齊公得管仲,時以為仲父。今吾得子,亦以為父。」
新字:范睢至秦,王庭迎,謂范睢曰:「寡人宜以身受令久矣。今者義渠之事急,寡人日自請太后。今義渠之事已,寡人乃得以身受命。躬竊閔然不敏,敬執賓主之礼。」范睢辞譲。是日見范睢,見者無不変色易容者。秦王屏左右,宮中虚無人,秦王跪而請曰:「先生何以幸教寡人?」范睢曰:「唯唯。」有間,秦王復請,范睢曰:「唯唯。」若是者三。秦王跽曰:「先生不幸教寡人乎?」范睢謝曰:「非敢然也。臣聞始時呂尚之遇文王也,身為漁父而釣於渭陽之浜耳。若是者,交疏也。已一説而立為太師,載与倶帰者,其言深也。故文王果収功於呂尚,卒擅天下而身立為帝王。即使文王疏呂望而弗与深言,是周無天子之徳,而文、武無与成其王也。今臣,羇旅之臣也,交疏於王,而所願陳者,皆匡君之之事,処人骨肉之間,願以陳臣之陋忠,而未知王心也,所以王三問而不対者是也。臣非有所畏而不敢言也,知今日言之於前,而明日伏誅於後,然臣弗敢畏也。大王信行臣之言,死不足以為臣患,亡不足以為臣憂,漆身而為厲,被髪而為狂,不足以為臣恥。五帝之聖而死,三王之仁而死,五伯之賢而死,烏獲之力而死,奔、育之勇焉而死。死者,人之所必不免也。処必然之勢,可以少有補於秦,此臣之所大願也,臣何患乎?伍子胥橐載而出昭関,夜行而昼伏,至於蔆水,無以餌其口,坐行蒲服,乞食於吳巿,卒興吳国,闔廬為覇。使臣得進謀如伍子胥,加之以幽囚,終身不復見,是臣説之行也,臣何憂乎?箕子、接輿,漆身而為厲,被髪而為狂,無益於殷、楚。使臣得同行於箕子、接輿,漆身可以補所賢之主,是臣之大栄也,臣又何恥乎?臣之所恐者,独恐臣死之後,天下見臣尽忠而身蹶也,是以杜口裹足,莫肯即秦耳。足下上畏太后之厳,下惑姦臣之態;居深宮之中,不離保傅之手;終身闇惑,無与照姦;大者宗廟滅覆,小者身以孤危。此臣之所恐耳!若夫窮辱之事,死亡之患,臣弗敢畏也。臣死而秦治,賢於生也。」秦王跽曰:「先生是何言也!夫秦国僻遠,寡人愚不肖,先生乃幸至此,此天以寡人慁先生,而存先王之廟也。寡人得受命於先生,此天所以幸先王而不棄其孤也。先生奈何而言若此!事無大小,上及太后,下至大臣,願先生悉以教寡人,無疑寡人也。」范睢再拝,秦王亦再拝。范睢曰:「大王之国,北有甘泉、谷口,南帯涇、渭,右隴、蜀,左関、阪;戦車千乗,奮擊百万。以秦卒之勇,車騎之多,以当諸侯,譬若馳韓盧而逐蹇兔也,覇王之業可致。今反閉而不敢窺兵於山東者,是穰侯為国謀不忠,而大王之計有所失也。」王曰:「願聞所失計。」睢曰:「大王越韓、魏而攻強斉,非計也。少出師,則不足以傷斉;多之則害於秦。臣意王之計欲少出師,而悉韓、魏之兵則不義矣。今見与国之不可親,越人之国而攻,可乎?疏於計矣!昔者,斉人伐楚,戦勝,破軍殺将,再辟千里,膚寸之地無得者,豈斉不欲地哉,形弗能有也。諸侯見斉之罷露,君臣之不親,舉兵而伐之,主辱軍破,為天下笑。所以然者,以其伐楚而肥韓、魏也。此所謂藉賊兵而齎盗食者也。王不如遠交而近攻,得寸則王之寸,得尺則王之尺也。今舎此而遠攻,不亦繆乎?且昔者,中山之地,方五百里,趙独擅之,功成、名立、利附,則天下莫能害。今韓、魏,中国之処,而天下之枢也。王若欲覇,必親中国而以為天下枢,以威楚、趙。趙彊則楚附,楚彊則趙附。楚、趙附則斉必懼,懼必卑辞重幣以事秦,斉附而韓、魏可虚也。」王曰:「寡人欲親魏,魏多変之国也,寡人不能親。請問親魏奈何?」范睢曰:「卑辞重幣以事之。不可,削地而賂之。不可,舉兵而伐之。」於是舉兵而攻邢丘,邢丘抜而魏請附。曰:「秦、韓之地形,相錯如繡。秦之有韓,若木之有蠹,人之病心腹。天下有変,為秦害者莫大於韓。王不如収韓。」王曰:「寡人欲収韓,不聴,為之奈何?」范睢曰:「舉兵而攻滎陽,則成睪之路不通;北斬太行之道則上党之兵不下;一舉而攻栄陽,則其国断而為三。魏、韓見必亡,焉得不聴?韓聴而覇事可成也。」王曰:「善。」范睢曰:「臣居山東,聞斉之内有田単,不聞其王。聞秦之有太后、穰侯、涇陽、華陽,不聞其有王。夫擅国之謂王,能専利害之謂王,制殺生之威之謂王。今太后擅行不顧,穰侯出使不報,涇陽、華陽擊断無諱,四貴備而国不危者,未之有也。為此四者,下乃所謂無王已。然則権焉得不傾,而令焉得従王出乎?臣聞:『善為国者,内固其威,而外重其権。』穰侯使者操王之重,決裂諸侯,剖符於天下,征敵伐国,莫敢不聴。戦勝攻取,則利帰於陶;国弊,御於諸侯;戦敗,則怨結於百姓,而禍帰社稷。詩曰:『木実繁者披其枝,披其枝者傷其心。大其都者危其国,尊其臣者卑其主。』淖齒管斉之権,縮閔王之筯,県之廟梁,宿昔而死。李兌用趙,減食主父,百日而餓死。今秦,太后、穰侯用事,高陵、涇陽佐之,卒無秦王,此亦淖齒、李兌之類已。臣今見王独立於廟朝矣,且臣将恐後世之有秦国者,非王之子孫也。」秦王懼,於是乃廃太后,逐穰侯,出高陵,走涇陽於関外。昭王謂范睢曰:「昔者,斉公得管仲,時以為仲父。今吾得子,亦以為父。」
書き下し
范睢秦に至る、王庭に迎へ、范睢に謂ひて曰く、「寡人宜しく身を以て令を受くること久しかるべし。今義渠の事急なれば、寡人日々自ら太后に請ふ。今義渠の事已(や)みぬれば、寡人乃ち身を以て命を受くるを得たり。躬(み)づから竊かに閔然として不敏なるも、敬んで賓主の禮を執らん。」范睢辭讓す。是の日范睢を見るに、見る者變色易容せざる無し。秦王左右を屏(しりぞ)け、宮中虛しくして人無く、秦王跪きて請ひて曰く、「先生何を以てか寡人に教ふるを幸ひせん。」范睢曰く、「唯唯。」間有りて、秦王復た請ふ、范睢曰く、「唯唯。」是くの若き者三たびす。秦王跽(ひざまづ)きて曰く、「先生幸ひに寡人に教へざるか。」范睢謝して曰く、「敢へて然るに非ざるなり。臣聞く、始め呂尚の文王に遇へるや、身漁父と為りて渭陽の濱に釣りせしのみ。是くの若きは交疏なり。已に一說して立ちて太師と為り、載せて俱に歸る者は、其の言深ければなり。故に文王果して功を呂尚に收め、卒に天下を擅にして身帝王と立てり。即し文王呂望を疏んじて與に深く言はざらしめば、是れ周に天子の德無く、文・武與に其の王を成す無からん。今臣は羇旅の臣にして、王に交疏し、而して願はくは陳ぜんとする所は、皆君を匡すの事にして、人の骨肉の間に處る。願はくは臣の陋忠を陳べんとするも、未だ王の心を知らざるなり。王三たび問ひて對へざる所以は是れなり。臣畏るる所有りて敢へて言はざるに非ざるなり。今日之を前に言ひて、明日之に伏誅せらるるを知るも、然れども臣敢へて畏れざるなり。大王信じて臣の言を行はば、死すとも以て臣の患ひと爲すに足らず、亡ぶとも以て臣の憂ひと爲すに足らず、身に漆して厲(らい)と爲り、髮を被りて狂と爲るも、以て臣の恥と爲すに足らず。五帝の聖にして死し、三王の仁にして死し、五伯の賢にして死し、烏獲の力にして死し、奔・育の勇にして死せり。死は人の必ず免れざる所なり。必然の勢に處りて、以て少しく秦に補ふ有る可くんば、此れ臣の大いに願ふ所なり、臣何をか患へん。伍子胥は橐に載せられて昭關を出で、夜行きて晝伏し、蔆水に至りて以て其の口を餌ふ無く、坐行蒲服して、食を呉市に乞ひ、卒に呉國を興し、闔廬を覇たらしめたり。臣をして謀を進むること伍子胥の如きを得しめ、之に幽囚を加へて、終身復た見えざるとも、是れ臣の說の行はるるなり、臣何をか憂へん。箕子・接輿は、身に漆して厲と爲り、髮を被りて狂と爲るも、殷・楚に益無かりき。臣をして箕子・接輿と行を同じくするを得しめ、身に漆すること以て賢とする所の主に補ふ可くんば、是れ臣の大榮なり、臣又何をか恥ぢん。臣の恐るる所は、獨り臣死するの後、天下臣の忠を盡くして身蹶(たふ)るるを見んことを恐るるなり。是を以て口を杜(と)ぢ足を裹みて、肯へて秦に即く莫きのみ。足下上は太后の嚴を畏れ、下は姦臣の態に惑ひ、深宮の中に居りて保傅の手を離れず、終身闇惑して與に姦を照らす無く、大なる者は宗廟滅覆し、小なる者は身以て孤危なり。此れ臣の恐るる所のみ。若し夫れ窮辱の事、死亡の患ひの若きは、臣敢へて畏れざるなり。臣死して秦治まらば、生けるより賢れり。」秦王跽きて曰く、「先生是れ何の言ぞや。夫れ秦國は僻遠にして、寡人は愚にして不肖なり。先生乃ち幸ひに此に至る、此れ天寡人を以て先生を慁(わづら)はし、先王の廟を存せしむるなり。寡人先生に命を受くるを得るは、此れ天の先王を幸ひして其の孤を棄てざる所以なり。先生奈何ぞ言ふこと此くの若くなる。事の大小と無く、上は太后に及び、下は大臣に至るまで、願はくは先生悉く以て寡人に教へ、寡人を疑ふ無かれ。」范睢再拜す、秦王も亦た再拜す。范睢曰く、「大王の國は、北に甘泉・谷口有り、南に涇・渭を帶び、右に隴・蜀、左に關・阪あり。戰車千乘、奮擊百萬。秦卒の勇、車騎の多きを以て、以て諸侯に當らば、譬へば韓盧を馳せて蹇兔を逐ふが若し。霸王の業致す可し。今反りて閉ぢて敢へて兵を山東に窺はざる者は、是れ穰侯國の爲に謀りて忠ならず、大王の計に失ふ所有ればなり。」王曰く、「願はくは失ふ所の計を聞かん。」睢曰く、「大王韓・魏を越えて強齊を攻むるは、計に非ざるなり。師を出だすこと少なければ、則ち以て齊を傷つくるに足らず。之を多くすれば則ち秦を害す。臣意ふに王の計、師を出だすこと少なくして、韓・魏の兵を悉くせんと欲するは則ち不義なり。今與國の親しむ可からざるを見て、人の國を越えて攻む、可ならんや。計に疏きなり。昔者、齊人楚を伐ちて、戰ひて勝ち、軍を破り將を殺し、地を再辟すること千里なるも、膚寸の地も得る者無かりき。豈に齊地を欲せざらんや、形有つ能はざればなり。諸侯齊の罷露するを見て、君臣の親しまざるを見て、兵を舉げて之を伐ち、主辱められ軍破れ、天下の笑ひと爲れり。然る所以の者は、其の楚を伐ちて韓・魏を肥やせばなり。此れ所謂『賊に兵を藉し盜に食を齎す』者なり。王は遠く交はりて近く攻むるに如かず、寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば則ち王の尺なり。今此を舍てて遠く攻む、亦た繆(あやま)らざらんや。且つ昔者、中山の地、方五百里、趙獨り之を擅にす。功成り名立ち利附けば、則ち天下能く害する莫し。今韓・魏は、中國の處にして天下の樞なり。王若し霸たらんと欲せば、必ず中國に親しみて以て天下の樞と爲し、以て楚・趙を威(おど)すべし。趙彊ければ則ち楚附き、楚彊ければ則ち趙附く。楚・趙附けば則ち齊必ず懼れ、懼るれば必ず辭を卑くし幣を重くして以て秦に事へん。齊附きて韓・魏虛にす可きなり。」王曰く、「寡人魏に親しまんと欲するも、魏は變多きの國なり、寡人親しむ能はず。請ふ魏に親しむこと奈何と問はん。」范睢曰く、「辭を卑くし幣を重くして以て之に事へよ。不可ならば地を削りて之に賂せよ。不可ならば兵を舉げて之を伐て。」是に於て兵を舉げて邢丘を攻め、邢丘拔けて魏附くを請ふ。曰く、「秦・韓の地形は、相錯はること繡の如し。秦の韓有るは、木の蠹有るが若く、人の心腹を病むがごとし。天下變有らば、秦の爲に害を爲す者は韓より大なるは莫し。王は韓を收むるに如かず。」王曰く、「寡人韓を收めんと欲するも聽かず、之を爲すこと奈何せん。」范睢曰く、「兵を舉げて滎陽を攻むれば、則ち成睪の路通ぜず。北に太行の道を斬らば則ち上黨の兵下らず。一たび舉げて榮陽を攻むれば、則ち其の國斷ちて三と爲らん。魏・韓必ず亡ぶるを見ば、焉んぞ聽かざるを得んや。韓聽けば霸の事成る可し。」王曰く、「善し。」范睢曰く、「臣山東に居りしとき、齊の內に田單有るを聞くも、其の王有るを聞かず。秦に太后・穰侯・涇陽・華陽有るを聞くも、其の王有るを聞かず。夫れ國を擅にする之を王と謂ひ、能く利害を專らにする之を王と謂ひ、殺生の威を制する之を王と謂ふ。今太后行を擅にして顧みず、穰侯使を出だして報ぜず、涇陽・華陽擊斷して諱む無し。四貴備はりて國危からざる者、未だ之有らざるなり。此の四者の爲にすれば、下乃ち所謂王無きのみ。然らば則ち權焉んぞ傾かざるを得んや、令焉んぞ王より出づるを得んや。臣聞く、『善く國を爲むる者は、內に其の威を固くし、外に其の權を重くす』と。穰侯の使者は王の重きを操り、諸侯を決裂し、天下に符を剖ち、敵を征し國を伐ち、敢へて聽かざる莫し。戰ひて勝ち攻めて取れば、則ち利陶に歸す。國弊るれば、諸侯に御せられ、戰ひて敗るれば、則ち怨み百姓に結び、禍ひ社稷に歸す。詩に曰く、『木の實繁き者は其の枝を披き、其の枝を披く者は其の心を傷つく。其の都を大にする者は其の國を危くし、其の臣を尊くする者は其の主を卑くす。』と。淖齒齊の權を管し、閔王の筯を縮め、之を廟梁に縣け、宿昔にして死せり。李兌趙を用ゐ、主父の食を減じ、百日にして餓死せり。今秦、太后・穰侯事を用ゐ、高陵・涇陽之を佐け、卒に秦王無し。此れ亦た淖齒・李兌の類のみ。臣今王の廟朝に獨立するを見る。且つ臣將に後世秦國を有つ者、王の子孫に非ざるを恐れんとす。」秦王懼れ、是に於て乃ち太后を廢し、穰侯を逐ひ、高陵を出だし、涇陽を關外に走らしむ。昭王范睢に謂ひて曰く、「昔者、齊公管仲を得て、時に以て仲父と爲す。今吾子を得て、亦た以て父と爲さん。」
現代語訳
范雎が秦に到着すると、王は宮廷で出迎え、范雎に言った。「私はとうに自ら教えを受けるべきであったのに、遅くなってしまった。近ごろ義渠の事(北方民族の脅威)が切迫していたため、私は毎日自ら太后に伺いを立てていた。今、義渠の件が片づいたので、ようやく自ら先生の教えを受けられるようになった。私自身、内心恥ずかしく至らぬ者ではあるが、謹んで賓主の礼を尽くしたい。」范雎は謙遜して辞退した。この日、范雎に謁見した者は皆、その威に打たれて顔色を変えないものはなかった。秦王は左右の者を退け、宮中には誰もいなくなった。秦王は跪いて「先生は何をもって私にご教示くださいますか」と願った。范雎は「はあ、はあ」とだけ答えた。しばらくして王が再び願うと、范雎はまた「はあ、はあ」と答えるだけであった。これが三度繰り返された。秦王は跪いたまま「先生はどうか私に教えてくださらないのですか」と言った。范雎は謝って言った。「あえてそうしているのではありません。私が聞くところでは、かつて呂尚(太公望)が文王に出会ったとき、その身はただの漁師で渭水のほとりで釣りをしていたにすぎませんでした。この時点では二人の交わりは浅いものでした。ところが一度説いただけで太師に取り立てられ、車に乗せて共に帰ったのは、その言葉が深いものであったからです。それゆえ文王は結局呂尚によって功業を収め、ついに天下を手中にして自ら帝王となったのです。もし文王が呂望を疎んじて深く語り合わなかったなら、周には天子たる徳がなく、文王・武王が王業を成し遂げることもなかったでしょう。今、私は他国から流れてきた身の上の臣であり、王との交わりも浅いものです。それでいて申し上げたいことは、すべて君主を正すべき事柄であり、王の肉親の間に立ち入るような内容です。私のつたない忠誠を申し述べたいと願いながらも、まだ王のお心のほどを知りません。王が三度お尋ねになっても私がお答えしなかったのはこのためです。私は何かを恐れて言わないのではありません。今日ここで申し上げれば明日には処刑されるかもしれないと知っていても、私はあえて恐れはしません。大王が私の言葉を信じて実行してくださるなら、死んでも私の患いとするに足らず、亡命しても私の憂いとするに足らず、身に漆を塗ってらい病者のようになり、髪を振り乱して狂人のようになっても、私の恥とするには足りません。五帝ほどの聖人も死に、三王ほどの仁者も死に、五覇ほどの賢者も死に、烏獲ほどの力持ちも死に、孟賁・夏育ほどの勇者も死にました。死は人が必ず免れないものです。必ず訪れるこの定めの中にあって、わずかでも秦のお役に立てるのであれば、それこそ私の大いに願うところであり、何を患うことがありましょうか。伍子胥は袋に隠されて昭関を脱出し、夜は歩き昼は隠れ、蔆水のほとりに至っては食べる物もなく、腹ばいになって進み、呉の市で食を乞いましたが、ついに呉国を興し、闔廬を覇者にしました。もし私が伍子胥のように策を進めることができるなら、たとえ幽閉されて生涯二度とお目にかかれなくなろうとも、それは私の説が実行されたということですから、何を憂えることがありましょうか。箕子や接輿は、身に漆を塗ってらい病者となり、髪を振り乱して狂人となりましたが、それは殷や楚の役には立ちませんでした。もし私が箕子や接輿と同じ道を歩み、その身を犠牲にすることで賢明な主君のお役に立てるのであれば、それは私の大いなる栄誉であり、何を恥じることがありましょうか。私が恐れるのはただ一つ、私が死んだ後に、天下の人々が私の忠誠が尽くされたのにこの身が倒れたのを見て、それゆえ口をつぐみ足を止めて、誰も進んで秦に仕えようとしなくなることです。あなた様(王)は上は太后の厳しさを恐れ、下は姦臣の見せかけに惑わされ、深宮の中に住まって守り役の手から離れられず、生涯道理に暗く惑わされたまま姦臣を見抜く者もなく、大きくは宗廟が滅び覆り、小さくはご自身が孤立して危うくなる。これこそ私が恐れることなのです。困窮や屈辱、死や亡命といった患いについては、私はあえて恐れはしません。私が死んでも秦が治まるのであれば、生きているより優れたことです。」秦王は跪いたまま言った。「先生、それはどういうお言葉ですか。秦の国は辺鄙な僻地にあり、私は愚かで至らぬ者です。それでも先生が幸いにもこの地までいらしてくださった、これは天が私に先生をわずらわせることで、先王の宗廟を存続させようとされているのです。私が先生から教えを受けられるのも、天が先王を幸いし、その遺児(私)を見捨てないためなのです。先生はどうしてこのようなことをおっしゃるのですか。事柄の大小を問わず、上は太后に関わることから下は大臣に至るまで、どうか先生、すべて包み隠さず私に教えてください。私を疑わないでください。」范雎は二度拝礼し、秦王もまた二度拝礼した。范雎は言った。「大王の国は、北に甘泉・谷口があり、南は涇水・渭水を帯び、右(西)には隴・蜀があり、左(東)には函谷関・崤山があります。戦車は千乗、精鋭の兵は百万。秦の兵の勇猛さと戦車・騎兵の多さをもって諸侯に当たれば、あたかも名犬・韓盧を走らせて足の悪い兎を追うようなものです。覇王の大業も成し遂げられるはずです。それなのに、かえって国を閉ざして山東の地に兵を進めようとしないのは、穰侯が国のために謀って忠実でなく、大王の計略にも誤りがあるからです。」王は「その誤った計略について聞かせてほしい」と言った。范雎は言った。「大王が韓・魏を飛び越えて強国の斉を攻めるのは、良い策ではありません。出兵を少なくすれば斉に打撃を与えるには足りず、多くすれば秦自身を害します。私が思いますに、王のお考えは出兵を少なくして韓・魏の兵をすべて動員しようとするものでしょうが、それは道理に合いません。今、同盟国が信頼できないと分かっているのに、他国を飛び越えて攻めるなど、できるものでしょうか。それは計略として疎漏です。昔、斉が楚を討伐し、戦いに勝って敵軍を破り将軍を殺し、二度にわたって千里の地を切り開きましたが、結局わずかな土地も得られませんでした。斉が土地を欲しなかったわけではなく、その土地を保持できるだけの形勢になかったからです。諸侯は斉が疲弊し、君臣の仲が親密でないのを見て、兵を挙げてこれを討ち、斉の主君は辱められ軍は敗れ、天下の笑い者となりました。そうなった理由は、斉が楚を討伐したことで実は韓・魏を肥え太らせてしまったからです。これがいわゆる『賊に武器を貸し、盗人に食糧を与える』というものです。王は遠くと交わりを結び近くを攻めるのが得策です。一寸の地を得れば王の一寸となり、一尺の地を得れば王の一尺となります。今これを捨てて遠くを攻めるのは、誤りではないでしょうか。また昔、中山の地は方五百里ありましたが、趙が単独でこれを併呑しました。功が成り名が立ち利益が付随すれば、天下の誰もこれを害することはできません。今、韓・魏は中原に位置し、天下の要となる地です。王がもし覇者たらんとするならば、必ず中原の国々と親しんでこれを天下の要とし、それによって楚・趙を威圧すべきです。趙が強くなれば楚が付き従い、楚が強くなれば趙が付き従います。楚・趙が付き従えば斉は必ず恐れ、恐れれば必ず言葉を低くし贈り物を重くして秦に仕えるでしょう。斉が付き従えば、韓・魏はたやすく制圧できます。」王は言った。「私は魏と親しくなりたいが、魏は変わりやすい国なので、親しむことができない。どうすれば魏と親しめるか、教えてほしい。」范雎は言った。「言葉を低くし贈り物を重くして仕えることです。それでだめなら、こちらの地を割いて贈り物とすることです。それでもだめなら、兵を挙げて討伐することです。」そこで兵を挙げて邢丘を攻め、邢丘を落とすと魏は服属を願い出た。范雎は言った。「秦と韓の地形は、まるで刺繍のように入り組んでいます。秦にとって韓があるのは、木に食い虫がいるようなもの、人が心臓や腹に病を抱えているようなものです。天下に変事があれば、秦にとって害となるのは韓より大きいものはありません。王は韓を服属させるのが一番です。」王は言った。「私は韓を服属させたいが、韓が言うことを聞かない、どうすればよいか。」范雎は言った。「兵を挙げて滎陽を攻めれば、成睪への道が通じなくなります。北で太行山の道を断てば、上党の兵が下って来られなくなります。一挙に滎陽を攻めれば、韓の国は分断されて三つになります。魏・韓は必ず滅亡すると悟れば、どうして言うことを聞かないでいられましょうか。韓が服属すれば覇業は成し遂げられます。」王は「よろしい」と言った。范雎は言った。「私が山東(崤山以東の諸国)にいたとき、斉には田単がいるとは聞きましたが、斉王がいるとは聞きませんでした。秦には太后・穰侯・涇陽君・華陽君がいるとは聞きましたが、秦王がいるとは聞きませんでした。そもそも国を思うままにできる者を王と言い、利害を専断できる者を王と言い、人の生殺の権を握る者を王と言うのです。今、太后は自らの行いを思うままにして誰にも顧みず、穰侯は使者を出しても報告せず、涇陽君・華陽君は思うままに事を裁断してはばかることがありません。この四人の権貴がそろっていながら国家が危うくならなかった例は、今までにありません。この四人が実権を握っている以上、それは事実上『王がいない』のと同じことです。それでは権力が傾かないはずがなく、政令が王から出るはずがありません。私はこう聞いています。『国をうまく治める者は、内では自らの権威を固め、外では自らの権限を重んじる』と。穰侯の使者は王の権威を勝手に操り、諸侯を分断し、天下に割符を発行し、敵国を征伐して、誰も従わない者はいません。戦って勝ち、攻めて土地を取れば、その利益は陶に帰します。国が疲弊すれば、その責めは諸侯に押し付けられ、戦って敗れれば、恨みは民に結ばれ、禍は国家そのものに帰します。詩経に言います。『木の実が多く実れば、その枝が裂ける。枝が裂ければ木の幹を傷める。都を大きくしすぎればその国を危うくし、臣下を尊くしすぎればその主君を卑しくする。』と。淖歯は斉の実権を握り、閔王の筋を引き抜いて廟の梁に吊るし、一晩のうちに死なせました。李兌は趙で権力を用い、主父(趙の武霊王)の食糧を減らし、百日で餓死させました。今、秦では太后・穰侯が実権を握り、高陵君・涇陽君がこれを助け、ついには秦王が実質いないも同然です。これもまた淖歯や李兌と同じ類なのです。私は今、王がただ一人、宗廟の朝廷に孤立しているのを見ています。私はこの先、後世に秦国を保つ者が、王のご子孫ではなくなってしまうのではないかと恐れています。」秦王は恐れをなし、そこで太后を退け、穰侯を追放し、高陵君を国外に出し、涇陽君を関の外へ追いやった。昭王は范雎に言った。「昔、斉の桓公は管仲を得て、これを仲父(父に次ぐ人)と呼びました。今、私はあなたを得て、同じくあなたを父と呼びましょう。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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戦国策・秦一・蘇秦始將連橫蘇秦始めて連橫を將(も)って秦の惠王に說きて曰わく、「大王の國、西に巴・蜀・漢中の利有り、北に胡貉・代馬の用有り、南に巫山・黔中の限有り、東に肴・函の固有り。田肥美にして、民殷富、戰車萬乘、奮擊百萬、沃野千里、蓄積饒多、地勢形便なり、此れ所謂天府、天下の雄國なり。大王の賢、士民の眾、車騎の用、兵法の教を以て、以て諸侯を并せ、天下を吞み、帝と稱して治むべし。願わくは大王少しく留意せられ、臣請う其の效を奏せん。」秦王曰わく、「寡人之を聞く、毛羽豐滿ならざる者は以て高く飛ぶべからず、文章成らざる者は以て誅罰すべからず、道德厚からざる者は以て民を使うべからず、政教順ならざる者は以て大臣を煩わすべからずと。今先生儼然として千里を遠しとせずして庭に之を教う、願わくは異日を以てせん。」蘇秦曰わく、「臣固より大王の用うる能わざるを疑えり。昔者神農補遂を伐ち、黃帝涿鹿を伐ちて蚩尤を禽にし、堯驩兜を伐ち、舜三苗を伐ち、禹共工を伐ち、湯有夏を伐ち、文王崇を伐ち、武王紂を伐ち、齊桓戰に任じて天下に伯たり。此に由りて之を觀れば、惡んぞ戰わざる者有らんや。古者車轂擊馳し、言語相結び、天下一と爲る、從を約し橫を連ね、兵革藏さず、文士並び餝り、諸侯亂惑し、萬端俱に起こり、勝げて理むべからず、科條既に備わりて、民偽態多く、書策稠濁して、百姓足らず、上下相愁い、民聊む所無く、明言理を章らかにして、兵甲愈々起こり、辯言偉服にして、戰攻息まず、繁く文辭を稱して、天下治まらず、舌弊れ耳聾いて、成功を見ず、義を行い信を約すれど、天下親しまず。是に於いて、乃ち文を廢して武に任じ、死士を厚く養い、甲を綴り兵を厲まし、勝を戰場に效す。夫れ徒らに處りて利を致し、安んじて坐して地を廣むるは、古の五帝・三王・五伯、明主賢君と雖も、常に坐して之を致さんと欲するも、其の勢い能わず、故に戰を以て之に續ぐ。寬なれば則ち兩軍相攻め、迫れば則ち杖戟相橦(う)ち、然る後に大功を建つべし。是の故に兵は外に勝ち、義は內に強く、威は上に立ち、民は下に服す。今天下を并せ、萬乘を凌ぎ、敵國を詘し、海內を制し、元元を子とし、諸侯を臣とせんと欲せば、兵に非ざれば可ならず。今の嗣主、至道に忽にして、皆教に惛く、治に亂れ、言に迷い、語に或い、辯に沈み、辭に溺る。此を以て之を論ずれば、王固より行う能わざるなり。」秦王に說くこと書十たび上りて說行われず。黑貂の裘弊れ、黃金百斤盡き、資用乏絕して、秦を去りて歸る。縢を羸(や)せしめ蹻を履き、書を負い橐を擔い、形容枯槁し、面目犂黑にして、歸る色有り。家に歸り至るに、妻紝より下らず、嫂炊を為さず、父母與に言わず。蘇秦喟然として歎じて曰わく、「妻我を以て夫と為さず、嫂我を以て叔と為さず、父母我を以て子と為さず、是れ皆秦の罪なり。」乃ち夜書を發き、篋數十を陳べ、太公陰符の謀を得て、伏して之を誦し、簡練して以て揣摩を為す。書を讀みて睡らんと欲すれば、錐を引きて自ら其の股を刺し、血流れて足に至る。曰わく、「安んぞ人主に說きて其の金玉錦繡を出さしめず、卿相の尊を取る者有らんや。」期年にして揣摩成り、曰わく、「此れ真に以て當世の君に說くべし。」是に於いて乃ち燕烏集の闕を摩し、趙王に華屋の下に見えて說き、掌を抵ちて談ず。趙王大いに悅び、封じて武安君と為す。相印を受け、革車百乘、綿繡千純、白壁百雙、黃金萬溢、以て其の後に隨い、從を約し橫を散じ、以て強秦を抑う。故に蘇秦趙に相たりて關通ぜず。此の時に當たりて、天下の大、萬民の眾、王侯の威、謀臣の權、皆蘇秦の策に決せんと欲す。斗糧を費やさず、未だ一兵を煩わさず、未だ一士を戰わさず、未だ一絃を絕たず、未だ一矢を折らずして、諸侯相親しむこと、兄弟より賢れり。夫れ賢人在りて天下服し、一人用いられて天下從う。故に曰わく、政に式(もち)いて勇に式いず、廊廟の內に式いて四境の外に式いずと。秦の隆んなるに當たりて、黃金萬溢用を為し、轂を轉じ騎を連ね、道に炫熿し、山東の國、風に從いて服し、趙をして大いに重からしむ。且つ夫れ蘇秦特だ窮巷掘門、桑戶棬樞の士のみ。軾に伏し銜を撙(おさ)え、天下を橫歷し、諸侯の王に廷說し、左右の口を杜(ふさ)ぎ、天下之に伉うる能わず。將に楚王に說かんとし、路洛陽を過ぐ。父母之を聞き、宮を清め道を除き、樂を張り飲を設け、郊迎すること三十里。妻側目して視、耳を傾けて聽く、嫂蛇行匍伏し、四拜して自ら跪きて謝す。蘇秦曰わく、「嫂、何ぞ前には倨りて後には卑きや。」嫂曰わく、「季子の位尊くして金多きを以てなり。」蘇秦曰わく、「嗟乎、貧窮なれば則ち父母も子とせず、富貴なれば則ち親戚も畏懼す。人世上に生まるるや、勢位富貴、蓋し忽にすべけんや。」
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戦国策・范子因王稽入秦范子、王稽に因りて秦に入り、書を昭王に獻じて曰く、「臣聞く、明主の正に蒞(のぞ)むや、功有る者は賞せざるを得ず、能有る者は官せざるを得ず。勞大なる者は其の祿厚く、功多き者は其の爵尊く、能く衆を治むる者は其の官大なり、と。故に不能なる者は敢へて其の職に當らず、能なる者も亦た蔽隱せらるるを得ず。臣の言を以て可と為さば、則ち行ひて益々其の道を利せよ。若し將に行はざらんとせば、則ち久しく臣を留むるも爲す無きなり。語に曰く、『人主は愛する所を賞し、惡む所を罰す』と。明主は則ち然らず、賞は必ず功有るに加へ、刑は必ず罪有るに斷ず。今臣の胸は椹質に當るに足らず、要は斧鉞を待つに足らず、豈敢へて疑事を以て王に嘗試せんや。臣を賤と爲して輕んじ辱しむと雖も、獨り臣を重任する者の後王の前に反覆する無きを重んぜざらんや。「臣聞く、周に砥厄有り、宋に結綠有り、梁に懸黎有り、楚に和璞有り。此の四寶は工の失ふ所なるも、天下の名器と爲る。然らば則ち聖王の棄つる所の者、獨り以て國家を厚くするに足らざらんや。「臣聞く、善く家を厚くする者は之を國に取り、善く國を厚くする者は之を諸侯に取る、と。天下明主有らば、則ち諸侯厚きを擅にするを得ず。是れ何の故ぞや。其の榮を凋ましむるが爲なり。良醫は病人の死生を知り、聖主は成敗の事に明らかなり。利あらば則ち之を行ひ、害あらば則ち之を舍て、疑はしければ則ち少しく之を嘗む。堯・舜・禹・湯復び生くと雖も、改むる能はざるのみ。語の至れる者は、臣敢へて之を書に載せず。其の淺き者は又聽くに足らず。意ふに臣愚にして王の心に闔(かな)はざるか。已に臣を言ふ者、將に賤にして聽くに足らざらんとするか。是くの若きに非ざれば、則ち臣の志、願はくは少しく游觀の間を賜ひ、足下を望見して之に入らん。」書上る、秦王之を說び、因りて王稽に謝說し、人をして車を持して之を召さしむ。
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史記 范雎蔡沢列伝范睢秦の昭王に説きて曰く、「夫れ穰侯韓魏を越えて斉の綱・壽を攻むるは、計に非ざるなり。昔斉の湣王南のかた楚を攻め、軍を破り将を殺し、再び地を辟くこと千里なるも、斉尺寸の地も得る無き者は、形勢有る能はざればなり。斉を攻めて大破せらるる所以は、其の楚を伐ちて韓魏を肥やすを以てなり、此れ所謂賊に兵を借し盗に糧を齎すなり。王遠く交はりて近きを攻むるに如かず、寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば亦た王の尺なり。今此を釈てて遠く攻むるは、亦た繆らずや。王霸たらんと欲せば、必ず中国に親しみて以て天下の枢と為し、以て楚趙を威せ。斉懼れ、必ず卑辞重幣以て秦に事へん。斉附きて韓魏因りて虜とす可きなり」と。昭王曰く、「善し」と。乃ち范睢を拝して客卿と為し、兵事を謀らしむ。
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戦国策・蘇秦謂燕昭王蘇秦燕の昭王に謂いて曰く、「今此に人有り、孝は曾參・孝己の如く、信は尾生高の如く、廉は鮑焦・史鰌の如く、此の三行を兼ねて以て王に事えば、奚如」と。王曰く、「是くの如くんば足れり」と。對えて曰く、「足下以て足れりと為さば、則ち臣足下に事えざらん。臣且に無為の事に處り、歸りて周の上埊に耕さんとす、耕して之を食い、織りて之を衣ん」と。王曰く、「何の故ぞや」と。對えて曰く、「孝は曾參・孝己の如くんば、則ち其の親を養うに過ぎず。信は尾生高の如くんば、則ち人を欺かざるに過ぎず。廉は鮑焦・史鰌の如くんば、則ち人の財を竊まざるに過ぎず。今臣は進取を為す者なり。臣以為えらく廉は身と俱に達せず、義は生と俱に立たず。仁義なる者は、自ら完うするの道にして、進取の術に非ざるなり」と。王曰く、「自ら憂うるを以て足らざるか」と。對えて曰く、「自ら憂うるを以て足れりと為さば、則ち秦は殽塞を出でず、齊は營丘を出でず、楚は疏章を出でず。三王代りて位し、五伯政を改むるは、皆自ら憂えざるを以ての故なり。若し自ら憂いて足れりとせば、則ち臣も亦周に負籠せんのみ、何為れぞ大王の廷を煩わさんや。昔者楚は章武を取り、諸侯北面して朝す。秦は西山を取り、諸侯西面して朝す。曩者燕をして周室の上を去らしめざりせば、則ち諸侯馬を別にして朝せざらんとす。臣之を聞く、善く事を為す者は、先ず其の國の大小を量り、其の兵の強弱を揆る、故に功成るべく、名立つべし。事を為す能わざる者は、先ず其の國の大小を量らず、其の兵の強弱を揆らず、故に功成るべからず、名立つべからず。今王東嚮して齊を伐つの心有り、而して愚臣之を知る」と。王曰く、「子何を以て之を知るや」と。對えて曰く、「戟を矜り劍を砥ぎ、丘に登り東嚮して歎ずるは、是を以て愚臣之を知る。今夫れ烏獲千鈞の重きを舉ぐるも、行年八十にして、扶持を求む。故に齊強國なりと雖も、西のかた宋に勞し、南のかた楚に罷れば、則ち齊軍敗るべく、河間取るべし」と。燕王曰く、「善し。吾請う子を拜して上卿と為し、子に車百乘を奉ぜん、子此を以て寡人の為に東のかた齊に游ばば、何如」と。對えて曰く、「足下之を愛するを以ての故に與うるならば、則ち何ぞ愛子と諸舅・叔父・負床の孫に與えずして、得ずして乃ち無能の臣に與うるや、何ぞや。王の臣を論ずること、何如なる人ぞや。今臣の足下に事うる所以は、忠信なり。忠信の故を以て、左右に罪を見んことを恐る」と。王曰く、「安んぞ人臣為りて其の力を盡くし、其の能を竭くして、罪を得る者有らんや」と。對えて曰く、「臣請う王の為に譬えん。昔周の上埊嘗て之有り。其の丈夫官して三年歸らず、其の妻人を愛す。其の愛する所の者曰く、『子の丈夫來たらば、則ち且に柰何せんとするか』と。其の妻曰く、『憂うる勿かれ、吾已に藥酒を為りて以て其の來たるを待つ』と。已にして其の丈夫果たして來たる、是に於て其の妾をして藥酒を酌みて之を進めしむ。其の妾之を知り、半道にして立つ。慮りて曰く、『吾此を以て吾が主父に飲ましめば、則ち吾が主父を殺し、此を以て吾が主父に告げば、則ち吾が主母を逐わる。吾が父を殺し、吾が主母を逐う者と、寧ろ佯りて躓きて之を覆さん』と。是に於て佯り僵れて之を仆す。其の妻曰く、『子の遠行の為に來たるを、故に美酒を為り、今妾奉じて之を仆す』と。其の丈夫知らず、其の妾を縛りて之を笞つ。故に妾の笞たるる所以は、忠信なればなり。今臣足下の為に齊に使いするに、恐らくは忠信左右に諭らざらんことを。臣之を聞く、萬乘の主は、人臣に制せられず。十乘の家は、眾人に制せられず。疋夫徒步の士は、妻妾に制せられず。而るを又況んや當世の賢主をや。臣請う行かん、願わくは足下の群臣に制せられざらんことを」と。
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戦国策・蘇秦從燕之趙始合從蘇秦燕從り趙に之き、始めて合從す、趙王に說きて曰く、「天下の卿相人臣、乃ち布衣の士に至るまで、大王の行義を高賢とせざる莫く、皆教を奉じて忠を前に陳ぜんことを願うの日久し。然りと雖も、奉陽君妒み、大王事を任ずるを得ず、是を以て外の賓客遊談の士、敢えて忠を前に盡くす者無し。今奉陽君館舍を捐て、大王乃ち今然る後士民と相親しむを得たり、臣故に敢えて其の愚を獻じ、愚忠を效さん。大王の爲に計るに、民を安んじて事無きに若くは莫し、請う爲す有るを庸うる無かれ。民を安んずるの本は、交わりを擇ぶに在り。交わりを擇びて得れば則ち民安く、交わりを擇びて得ざれば則ち民終身安んずるを得ず。請う外患を言わん、齊・秦兩敵と爲れば、而ち民安んずるを得ず。秦に倚りて齊を攻むれば、而ち民安んずるを得ず。齊に倚りて秦を攻むれば、而ち民安んずるを得ず。故に夫れ人主を謀り、人國を伐つ者、常に苦しむは辭を出だして人の交わりを斷絕するにあり、願わくは大王愼みて口より出だすこと無かれ。「請う左右を屏け、異なる所以を言わん、陰陽のみ。大王誠に能く臣を聽かば、燕は必ず氊裘狗馬の地を致し、齊は必ず海隅魚鹽の地を致し、楚は必ず橘柚雲夢の地を致し、韓・魏は皆封地湯沐の邑を致さしむ可く、貴戚父兄は皆以て封侯を受く可し。夫れ地を割き實を效すは、五伯の軍を覆し將を禽にして求むる所以なり。侯を封じ戚を貴ぶは、湯・武の放殺して爭う所以なり。今大王垂拱して兩つながら之を有つ、是れ臣の大王の爲に願う所以なり。大王秦に與せば、則ち秦必ず韓・魏を弱くせん。齊に與せば、則ち齊必ず楚・魏を弱くせん。魏弱ければ則ち河外を割き、韓弱ければ則ち宜陽を效さん。宜陽效せば則ち上郡絕え、河外割かば則ち道通ぜず。楚弱ければ則ち援無し。此の三策なる者、熟計せざる可からざるなり。夫れ秦軹道を下せば則ち南陽動き、韓を劫かして周を包めば則ち趙自ら銷鑠せん、衛に據りて淇を取らば則ち齊必ず入朝せん。秦已に山東に行うを得んと欲せば、則ち必ず甲を舉げて趙に向かわん。秦の甲河を涉り漳を踰え、番吾に據らば、則ち兵必ず邯鄲の下に戰わん。此れ臣の大王の爲に患うる所以なり。「當今の時、山東の建國、趙の彊きに如くは莫し。趙の地方二千里、甲を帶ぶる者數十萬、車千乘、騎萬匹、粟十年を支う、西に常山有り、南に河・漳有り、東に清河有り、北に燕國有り。燕固より弱國、畏るるに足らざるなり。且つ秦の天下に畏害する所の者、趙に如くは莫し。然れども秦敢えて兵甲を舉げて趙を伐たざる者は、何ぞや。韓・魏の其の後を議せんことを畏るればなり。然らば則ち韓・魏は、趙の南蔽なり。秦の韓・魏を攻むるや、則ち然らず。名山大川の限有る無く、稍稍として之を蠶食し、國都に傅きて止まん。韓・魏秦に支うる能わずんば、必ず入りて臣たらん。韓・魏秦に臣たれば、秦韓・魏の隔て無く、禍趙に中たらん。此れ臣の大王の爲に患うる所以なり。「臣聞く、堯は三夫の分無く、舜は咫尺の地無くして、以て天下を有てり。禹は百人の聚無くして、以て諸侯に王たり。湯・武の卒は三千人に過ぎず、車は三百乘に過ぎずして、立ちて天子と爲る。誠に其の道を得ればなり。是の故に明主外は其の敵國の彊弱を料り、內は其の士卒の眾寡・賢と不肖とを度り、兩軍の相當たるを待たずして、勝敗存亡の機節、固より已に胸中に見る、豈に眾人の言に掩われて、冥冥を以て事を決せんや。「臣竊かに天下の地圖を以て之を案ずるに、諸侯の地秦より五倍し、諸侯の卒を料るに、秦より十倍す。六國力を并せて一と爲り、西面して秦を攻めば、秦破るること必せり。今秦に破らるるを見て、西面して之に事え、秦に臣たるを見る。夫れ人を破るの與人に破らるる、人に臣たるの與人に臣たらしむる、豈に同日にして言う可けんや。夫れ橫人なる者、皆諸侯の地を割きて以て秦と成らんことを欲す。秦と成れば、則ち臺を高くし、宮室を美にし、竽瑟の音を聽き、五味の和を察し、前に軒轅有り、後に長庭有り、美人巧笑すれど、卒に秦の患有りて、其の憂いに與らず。是の故に橫人日夜秦權を以て諸侯を恐猲するを務め、以て地を割かんことを求む。願わくは大王之を熟計せんことを。「臣聞く、明王は疑いを絕ち讒を去り、流言の跡を屏け、朋黨の門を塞ぐ、故に主を尊び地を廣め兵を彊うするの計、臣忠を前に陳ずるを得たり。故に竊かに大王の爲に計るに、韓・魏・齊・楚・燕・趙を一にし、六國從親して以て秦に儐畔するに莫くは若かず。天下の將相をして、相與に洹水の上に會し、質を通じ白馬を刑して以て之を盟わしめん。約して曰く、秦楚を攻めば、齊・魏各々銳師を出だして以て之を佐け、韓食道を絕ち、趙河・漳を涉り、燕常山の北を守らん。秦韓・魏を攻めば、則ち楚其の後を絕ち、齊銳師を出だして以て之を佐け、趙河・漳を涉り、燕雲中を守らん。秦齊を攻めば、則ち楚其の後を絕ち、韓成臯を守り、魏午道を塞ぎ、趙河・漳・博關を涉り、燕銳師を出だして以て之を佐けん。秦燕を攻めば、則ち趙常山を守り、楚武關に軍し、齊渤海を涉り、韓・魏銳師を出だして以て之を佐けん。秦趙を攻めば、則ち韓宜陽に軍し、楚武關に軍し、魏河外に軍し、齊渤海を涉り、燕銳師を出だして以て之を佐けん。諸侯先に約に背く者有らば、五國共に之を伐たん。六國從親して以て秦を擯けば、秦必ず敢えて兵を函谷關より出だして以て山東を害せざらん。是の如くんば則ち伯業成らん。」趙王曰く、「寡人年少く、國に蒞むの日淺く、未だ嘗て社稷の長計を聞くを得ず。今上客天下を存し、諸侯を安んずるに意有り、寡人敬みて國を以て從わん。」乃ち蘇秦を封じて武安君と爲し、車百乘を飾り、黃金千鎰、白璧百雙、錦繡千純、以て諸侯に約す。
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戦国策・秦一・張儀說秦王張儀秦王に說きて曰わく、「臣之を聞く、知らずして言うは不智と為し、知りて言わざるは不忠と為す。人臣為りて不忠なれば當に死すべく、言審らかならざるも亦た當に死すべし。然りと雖も、臣願わくは聞く所を悉く言わん、大王其の罪を裁せよ。臣聞く、天下陰かに燕、陽に魏、荊に連なり齊に固く、餘韓を收めて從を成し、將に西南して以て秦の難を為さんとすと。臣竊かに之を笑う。世に三亡有りて、天下之を得るは、其れ此の謂いか。臣之を聞きて曰わく、『亂を以て治を攻むる者は亡び、邪を以て正を攻むる者は亡び、逆を以て順を攻むる者は亡ぶ』と。今天下の府庫盈たず、囷倉空虛にして、其の士民を悉くし、軍を張ること數千百萬、白刃前に在り、斧質後に在れど、皆去りて走り、死する能わず、其の百姓死する能わざるを罪すと雖も、其の上殺す能わざるなり。賞を言えば則ち與えず、罰を言えば則ち行われず、賞罰行われず、故に民死せざるなり。「今秦號令を出だして賞罰を行い、攻不攻相い事とす。其の父母懷袵の中を出でて、生まれて未だ嘗て寇を見ざるも、戰を聞けば頓足徒裼し、白刃を犯し、煨炭を蹈み、死を前に斷つ者是に比す。夫れ死を斷ずると生を斷ずるとは同じからざるも、民之を為す者は是れ奮を貴べばなり。一以て十に勝つべく、十以て百に勝つべく、百以て千に勝つべく、千以て萬に勝つべく、萬以て天下に勝つべし。今秦の地形、長を斷ちて短を續ぎ、方數千里、名師數百萬、秦の號令賞罰、地形の利害、天下之に如くは莫し。此を以て天下と、天下兼ねて之を有つに足らず。是れ秦戰いて未だ嘗て勝たずんばあらず、攻めて未だ嘗て取らずんばあらず、當たる所未だ嘗て破らずんばあらざるを知るなり。地を開くこと數千里、此れ甚だ大功なり。然れども甲兵頓れ、士民病み、蓄積索き、田疇荒れ、囷倉虛しく、四鄰の諸侯服せず、伯王の名成らず。此れ異故無く、謀臣皆其の忠を盡くさざればなり。「臣敢えて往昔を言わん。昔者齊南は荊を破り、中は宋を破り、西は秦を服し、北は燕を破り、中は韓・魏の君を使い、地廣くして兵強く、戰勝攻取して天下に詔令し、濟清河濁、以て限と為すに足り、長城・鉅坊、以て塞と為すに足る。齊は五戰の國なるも、一戰勝たずして齊無し。故に此に由りて之を觀れば、夫れ戰は萬乘の存亡なり。「且つ臣之を聞きて曰わく、『株を削り根を掘れば、禍と鄰たること無く、禍乃ち存せず』と。秦荊人と戰い、大いに荊を破り、郢を襲い、洞庭・五都・江南を取る。荊王亡走し、東のかた陳に伏す。是の時に當たりて、荊に隨うに兵を以てせば、則ち荊舉ぐべし。荊を舉ぐれば、則ち其の民貪るに足り、地利するに足る。東は以て齊・燕を強くし、中は三晉を陵ぐ。然らば則ち是れ一舉にして伯王の名成すべく、四鄰の諸侯朝せしむべし。而るに謀臣為さず、軍を引きて退き、荊人と和せり。今荊人亡國を收め、散民を聚め、社主を立て、宗廟を置き、天下を帥いて西面して秦の難を為さしむ。此れ固に已に伯王の道無きこと一なり。天下志を比べて華下に軍す。大王詐を以て之を破り、兵梁郭に至り、梁を圍むこと數旬にして、則ち梁拔くべし。梁を拔けば、則ち魏舉ぐべし。魏を舉ぐれば、則ち荊・趙の志絕ゆ。荊・趙の志絕ゆれば、則ち趙危うし。趙危うくして荊孤なり。東は以て齊・燕を強くし、中は三晉を陵ぐ。然らば則ち是れ一舉にして伯王の名成すべく、四鄰の諸侯朝せしむべし。而るに謀臣為さず、軍を引きて退き、魏氏と和し、魏氏をして亡國を收め、散民を聚め、社主を立て、宗廟を置かしむ。此れ固に已に伯王の道無きこと二なり。前者穰侯の秦を治むるや、一國の兵を用いて、兩國の功を成さんと欲す。是の故に兵終身外に暴靈し、士民內に潞病し、伯王の名成らず。此れ固に已に伯王の道無きこと三なり。「趙氏は中央の國にして、雜民の居る所なり。其の民輕くして用い難く、號令治まらず、賞罰信ならず、地形便ならず、上其の民力を盡くす能わず。彼固より亡國の形なるも、民氓を憂えず、其の士民を悉くし、長平の下に軍し、以て韓の上黨を爭う。大王詐を以て之を破り、武安を拔く。是の時に當たりて、趙氏上下相親しまず、貴賤相信ぜず。然らば則ち是れ邯鄲守らず、邯鄲を拔き、河間を完うし、軍を引きて去り、西のかた脩武を攻め、羊腸を踰え、代・上黨を降す。代三十六縣、上黨十七縣、一領の甲を用いず、一民を苦しめず、皆秦の有なり。代・上黨戰わずして已に秦と為り、東陽河外戰わずして已に反りて齊と為り、中の呼池以北戰わずして已に燕と為らん。然らば則ち是れ趙を舉ぐれば則ち韓必ず亡び、韓亡ぶれば則ち荊・魏獨立する能わず。荊・魏獨立する能わざれば、則ち是れ一舉にして韓を壞り、魏を蠹み、荊を挾み、東は以て齊・燕を弱め、白馬の口を決して以て魏氏に流す。一舉にして三晉亡び、從者敗る。大王拱手して以て須てば、天下遍く隨いて伏し、伯王の名成すべし。而るに謀臣為さず、軍を引きて退き、趙氏と和を為す。大王の明、秦兵の強きを以て、伯王の業、地尊きを得べからずして、乃ち亡國に欺かるるを取る、是れ謀臣の拙なり。且つ夫れ趙當に亡ぶべくして亡びず、秦當に伯たるべくして伯たらず、天下固より秦の謀臣を量ること一なり。乃ち復た卒を悉くして邯鄲を攻むるも、拔く能わず、甲兵を棄てて怒り、戰慄して卻く。天下固より秦の力を量ること二なり。軍乃ち引きて退き、李下に并す。大王又軍を并せて與に戰うに致すも、能く厚く之に勝つに非ず、又交ごも罷れて卻く。天下固より秦の力を量ること三なり。內には吾が謀臣を量り、外には吾が兵力を極む。是に由りて之を觀れば、臣天下の從を以て、豈其れ難からんや。內には吾が甲兵頓れ、士民病み、蓄積索き、田疇荒れ、囷倉虛し。外には天下志を比ぶること甚だ固し。願わくは大王以て之を慮る有れ。「且つ臣之を聞く、戰戰慄慄として、日に一日を慎むと。苟くも其の道を慎まば、天下有つべし。何を以て其の然るを知るや。昔者紂天子と為り、天下を帥いて甲百萬を將い、左は淇谷に飲み、右は洹水に飲み、淇水竭きて洹水流れずして、以て周武の難を為す。武王素甲三千領を將い、戰うこと一日にして、紂の國を破り、其の身を禽にし、其の地に據りて、其の民を有つも、天下傷まざるは莫し。智伯三國の眾を帥い、以て趙の襄主を晉陽に攻め、水を決して之に灌ぎ、三年にして、城且に拔けんとす。襄主龜を錯き、策を數え兆を占い、以て利害を視、何れの國か降すべきかを、張孟談をして使いせしむ。是に於いて潛かに行きて出で、智伯の約に反き、兩國の眾を得て、以て智伯の國を攻め、其の身を禽にし、以て襄子の功を成す。今秦の地、長を斷ちて短を續ぎ、方數千里、名師數百萬、秦國の號令賞罰、地形の利害、天下之に如くは莫し。此を以て天下と、天下兼ねて之を有つべし。「臣死を昧して大王に見えんことを望み、天下の從を舉げ破り、趙を舉げ韓を亡ぼし、荊・魏を臣とし、齊・燕を親しみ、以て伯王の名を成し、四鄰の諸侯を朝せしむるの道を言う所以なり。大王試みに其の說を聽くに、一舉にして天下の從破れず、趙舉がらず、韓亡びず、荊・魏臣とせられず、齊・燕親しまず、伯王の名成らず、四鄰の諸侯朝せずんば、大王臣を斬りて以て國に徇え、以て主の為に謀りて不忠なる者とせよ。」