戦国策 / 秦王與中期爭論
秦王與中期爭論,不勝。秦王大怒,中期徐行而去。或為中期說秦王曰:「悍人也。中期適遇明君故也,向者遇桀、紂,必殺之矣。」秦王因不罪。
新字:秦王与中期争論,不勝。秦王大怒,中期徐行而去。或為中期説秦王曰:「悍人也。中期適遇明君故也,向者遇桀、紂,必殺之矣。」秦王因不罪。
書き下し
秦王、中期と爭論して勝たず。秦王大いに怒る。中期徐ろに行きて去る。或るひと中期の為に秦王に說きて曰く、「悍き人なり。中期は適々明君に遇へるが故なり。向者桀・紂に遇はば、必ず之を殺さん。」秦王因りて罪せず。
現代語訳
秦王が中期と議論をして、言い負かされてしまった。秦王は激怒したが、中期は落ち着いた足取りでその場を去った。ある人が中期のために秦王に説いて言った。「彼は気の強い人物です。中期がたまたま賢明な君主に出会えたからこそ無事なのです。もし桀や紂のような暴君に出会っていたら、間違いなく殺されていたでしょう。」秦王はこれを聞いて、中期を罰しなかった。
解説
本篇は、議論で王に勝った臣下・中期が処罰を免れた短い逸話です。第三者の一言、「あなたが寛容な明君だからこそ彼は生きていられる」という言い方が、王の怒りを名誉の問題にすり替え、面子を保ちながら矛を収めさせている点が巧みです。相手を直接弁護するのではなく、王自身の器量を試す形で説得する話法は、戦国策に繰り返し現れる典型的な諫言の技術です。誰がいつの秦王かは明記されていませんが、直言する臣下と、それを受け止める君主の度量という対比が主題です。現代でも、強い意見のぶつかり合いの後に第三者が間に入り、当事者の面子を保ちながら事態を収める調整役の重要性を示す話として読めます。
この章句が説くこと
中期秦王諫言面子度量
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