二宮翁夜話 / 巻之一
下館侯の宝蔵火災ありて、重宝天国の剣焼けたり、官吏城下の富商中村某に謂て曰、如其焼けたりといへども、当家第一の宝物なり、能く研ぎて白鞘にし、蔵に納め置んと評議せり、如何、中村某焼たる剣を見て曰、尤の論なれど無益なり、例令此剣焼ずとも、如此細し、何の用にか立ん、然る上に如此焼たるを、今研ぎて何の用にかせん、此侭にて仕舞置べしと云り、翁声を励して曰、汝大家の子孫に産れ、祖先の余光に因りて格式を賜り、人の上に立ちて人に敬せらるゝ、汝にして、右様の事を申すは、大なる過ちなり、汝が人に敬せらるゝは、太平の恩沢なり、今は太平なり、何ぞ剣の用に立と立ざるとを論ずる時ならんや、夫れ汝自ら省り見よ、汝が身用に立つ者と思ふか、汝はこの天国の焼剣と同じく、実は用に立つ者にあらず、只先祖の積徳と、家柄と格式とに仍て、用立者の如くに見え、人にも敬せらるゝなり、焼身にても細身にても重宝と尊むは、太平の恩沢此剣の幸福なり、汝を中村氏と人々敬するは、是又太平の恩徳と先祖の余蔭なり、用立、用立ざるを論ぜば、汝が如きは捨て可なり、仮令用立ずとも、当家御先祖の重宝、古代の遺物、是を大切にするは、太平の今日至当の理なり、我は此剣の為に云にあらず、汝がために云なり、能々沈思せよ、往時水府公、寺社の梵鐘を取上げて、大砲に鋳替へ玉ひし事あり、予此時にも、御処置悪きにはあらねども、未だ太平なれば甚だ早し、太平には鐘や手水鉢を鋳て、社寺に納めて、太平を祈らすべし、事あらば速に取て大砲となす、誰か異議を云ん、社寺ともに悦んで捧ぐべし、斯して国は保つべきなり、若し敵を見て大砲を造る、所謂盗を捕へて縄を索ふが如しと云んか、然りといへども尋常の敵を防ぐべき備へは、今日足れり、其敵の容易ならざるを見て、我領内の鐘を取て大砲に鋳る、何ぞ遅からんや、此時日もなき程ならば、大砲ありといへども、必防ぐ事あたはざるべし、と云し事ありき、何ぞ太平の時に、乱世の如き論を出さんや、斯の如く用立ざる焼身をも宝とす、況や用立べき剣に於てをや、然らば自然宜敷剣も出来たらん、されば能く研ぎあげて白鞘にし、元の如く、腹紗に包み二重の箱に納めて、重宝とすべし、是汝に帯刀を許し格式を与ふるに同じ、能々心得べしと、中村某叩頭して謝す、時九月なり、翌朝中村氏発句を作りて或人に示す、其句「じりじりと照りつけられて実法る秋」と、ある人是を翁に呈す、翁見て悦喜限りなし、曰、我昨夜中村を教戒す、定めて不快の念あらんか、怒気内心に満んかと、ひそかに案じたり、然れども家柄と大家とに懼れ、おもねる者のみなれば、しらずしらず増長して、終に家を保つ事覚束なしと思ひたれば、止むを得ず厳に教戒せるなり、然るに怒気を貯へず、不快の念もなく、虚心平気に此句を作る、其器量按外にして、大度見えたり、此家の主人たるに恥ず、此家の維持疑ひなし、古語に、我を非として当る者は我師也とあり、且大禹は善言を拝すともあり、汝等も肝銘せよ、夫れ富家の主人は、何を言ても御尤御尤と錆付者のみにて、礪に出合て研ぎ磨かるゝ事なき故、慢心生ずる也、譬ば、爰に正宗の刀ありといへども、研ぐ事なく磨く事なく、錆付物とのみ一処におかば、忽腐れて紙も切れざるに至るべし、其如く、三味線引や太鼓持などゝのみ交り居て、夫も御尤、是も御尤と、こび諂ふを悦んで明し暮し、争友一人のなきは、豈あやふからざらんや。
書き下し
下館侯(しもだてこう)の宝蔵(ほうぞう)火災ありて、重宝(じゅうほう)天国(あまくに)の剣(つるぎ)焼けたり、官吏城下の富商中村某(それがし)に謂(いっ)て曰(いわ)く、如其(かく)焼けたりといへども、当家第一の宝物なり、能(よ)く研ぎて白鞘(しらさや)にし、蔵に納め置かんと評議せり、如何(いかん)、中村某焼(やけ)たる剣(けん)を見て曰く、尤(もっと)もの論なれど無益なり、例令(たとい)此剣焼(やけ)ずとも、如此(かく)細し、何の用にか立たん、然る上に如此焼たるを、今研ぎて何の用にかせん、此侭(このまま)にて仕舞(しまい)置くべしと云へり、翁声を励(はげ)まして曰く、汝(なんじ)大家(たいか)の子孫に産(うま)れ、祖先の余光に因りて格式を賜り、人の上に立ちて人に敬せらるゝ、汝にして、右様の事を申すは、大なる過ちなり、汝が人に敬せらるゝは、太平の恩沢(おんたく)なり、今は太平なり、何ぞ剣の用に立つと立たざるとを論ずる時ならんや、夫(そ)れ汝自ら省(かえり)み見よ、汝が身用に立つ者と思ふか、汝はこの天国の焼剣(やけみ)と同じく、実は用に立つ者にあらず、只先祖の積徳と、家柄と格式とに仍(よっ)て、用立(たつ)者の如くに見え、人にも敬せらるゝなり、焼身(やけみ)にても細身にても重宝と尊むは、太平の恩沢此剣(けん)の幸福なり、汝を中村氏と人々敬するは、是又太平の恩徳と先祖の余蔭(よいん)なり、用立、用立たざるを論ぜば、汝が如きは捨(す)てて可なり、仮令(たとい)用立たずとも、当家御先祖の重宝、古代の遺物、是を大切にするは、太平の今日至当の理(り)なり、我は此剣の為に云ふにあらず、汝がために云ふなり、能々(よくよく)沈思せよ、往時水府公(すいふこう)、寺社の梵鐘(つりがね)を取上げて、大砲に鋳(い)替へ玉ひし事あり、予此時にも、御処置悪(あ)しきにはあらねども、未だ太平なれば甚(はなは)だ早し、太平には鐘や手水鉢(てみずばち)を鋳て、社寺に納めて、太平を祈らすべし、事あらば速(すみや)かに取て大砲となす、誰(たれ)か異議を云はん、社寺ともに悦んで捧ぐべし、斯(か)くして国は保つべきなり、若(も)し敵を見て大砲を造る、所謂(いわゆる)盗(ぬすびと)を捕へて縄を索(な)ふが如しと云はんか、然りといへども尋常の敵を防ぐべき備へは、今日足れり、其敵の容易ならざるを見て、我領内の鐘を取て大砲に鋳る、何ぞ遅からんや、此時日もなき程ならば、大砲ありといへども、必(かなら)ず防ぐ事あたはざるべし、と云ひし事ありき、何ぞ太平の時に、乱世の如き論を出(いだ)さんや、斯の如く用立たざる焼身をも宝とす、況(いわ)んや用立つべき剣に於てをや、然らば自然宜敷(よろしき)剣も出来(いでき)たらん、されば能く研ぎあげて白鞘にし、元の如く、腹紗(ふくさ)に包み二重の箱に納めて、重宝とすべし、是汝に帯刀を許し格式を与ふるに同じ、能々心得べしと、中村某叩頭(こうとう)して謝す、時九月なり、翌朝(よくちょう)中村氏発句(ほっく)を作りて或人に示す、其句「じりじりと照りつけられて実法(みの)る秋」と、ある人是を翁に呈す、翁見て悦喜(えっき)限りなし、曰く、我昨夜中村を教戒す、定めて不快の念あらんか、怒気内心に満(み)たんかと、ひそかに案じたり、然れども家柄と大家とに懼(おそ)れ、おもねる者のみなれば、しらずしらず増長して、終に家を保つ事覚束(おぼつか)なしと思ひたれば、止むを得ず厳に教戒せるなり、然るに怒気を貯へず、不快の念もなく、虚心平気に此句を作る、其器量按外(あんがい)にして、大度(たいど)見えたり、此家の主人たるに恥(は)ぢず、此家の維持疑ひなし、古語に、我を非として当る者は我師(わがし)也とあり、且(かつ)大禹(たいう)は善言を拝すともあり、汝等(なんじら)も肝銘(かんめい)せよ、夫れ富家(ふか)の主人は、何を言ても御尤御尤(ごもっとも)と錆付(さびつく)者のみにて、礪(と)に出合て研ぎ磨かるゝ事なき故、慢心生ずる也、譬(たと)へば、爰(ここ)に正宗の刀ありといへども、研ぐ事なく磨く事なく、錆付物とのみ一処におかば、忽(たちま)ち腐れて紙も切れざるに至るべし、其如く、三味線(さみせん)引や太鼓持などゝのみ交り居て、夫も御尤、是も御尤と、こび諂(へつ)らふを悦んで明し暮し、争友(そうゆう)一人のなきは、豈(あに)あやふからざらんや。
現代語訳
下館侯の宝蔵で火災があり、重宝である天国作の剣が焼けた。役人が城下の富商・中村某に相談して言った。「このように焼けたとはいえ、当家第一の宝物である。よく研いで白鞘に納め、蔵に収めておこうと評議したが、どうだろうか」。中村某は焼けた剣を見て言った。「もっともなご意見ですが無益です。たとえこの剣が焼けていなくても、これほど細く、何の役に立ちましょう。まして焼けてしまったものを今さら研いで何になりましょう。このまましまっておくべきです」。翁(尊徳)は声を励まして言われた。「そなたは名家の子孫に生まれ、祖先の余光によって格式を賜り、人の上に立って敬われている。そのそなたがこんなことを言うのは大きな過ちだ。そなたが人に敬われるのは太平の恩沢である。今は太平の世だ。なぜ剣が役に立つか立たぬかを論ずる時であろうか。よく自分を省みよ。そなたは自分が役に立つ者と思うか。そなたはこの天国の焼剣と同じく、実は役に立つ者ではない。ただ先祖の積んだ徳と家柄と格式によって、役立つ者のように見え、人にも敬われているのだ。焼け身でも細身でも重宝として尊ぶのは、太平の恩沢であり、この剣の幸福だ。人々がそなたを中村氏と敬うのも、太平の恩徳と先祖の余蔭である。役立つ役立たぬを論ずるなら、そなたのような者こそ捨ててよいことになる。たとえ役に立たなくとも、当家ご先祖の重宝、古代の遺物を大切にするのは、太平の今日として至当の道理だ。私はこの剣のために言うのではない、そなたのために言うのだ。よくよく思案せよ」。(さらに翁は続けた)かつて水戸公が寺社の梵鐘を取り上げ大砲に鋳替えられたことがある。私はそのときも「ご処置が悪いのではないが、まだ太平なのだから早すぎる。太平の世には鐘や手水鉢を鋳て社寺に納め、太平を祈らせるべきだ。事が起これば速やかにそれを取って大砲とすればよい。誰が異議を唱えよう、社寺もともに喜んで捧げるはずだ。こうして国は保てる。もし敵を見てから大砲を造れば、いわゆる泥棒を捕らえてから縄をなうようなものではないか。とはいえ通常の敵を防ぐ備えは今日十分にある。その敵が容易ならぬと見てから領内の鐘を取って大砲に鋳ても、何も遅くはない。もし時間の余裕もないほどなら、大砲があっても防げないだろう」と言ったことがある。なぜ太平の時に乱世のような議論を持ち出すのか。このように役に立たない焼け身さえ宝とするのだ。まして役に立つべき剣ならなおさらだ。研げば自然によい剣にもなろう。だからよく研ぎ上げて白鞘にし、元通り袱紗に包んで二重の箱に納め、重宝とすべきだ。これはそなたに帯刀を許し格式を与えるのと同じことだ。よく心得よ、と。中村某は頭を下げて謝した。時は九月であった。翌朝、中村氏が発句を作ってある人に示した。その句は「じりじりと照りつけられて実法る秋」であった。ある人がこれを翁に差し出した。翁は見て限りなく喜んで言われた。「私は昨夜中村を戒めた。さぞ不快に思い、怒りが胸に満ちているだろうとひそかに案じていた。しかし家柄と名家に恐れ入り、おもねる者ばかりだから、知らず知らず増長して、ついには家を保てなくなると思ったので、やむを得ず厳しく戒めたのだ。ところが彼は怒りをためず、不快の念もなく、虚心平気にこの句を作った。その器量は思いのほかで、大きな度量が見える。この家の主人たるに恥じない。この家の存続は疑いない。古語に『自分を非として叱ってくれる者はわが師である』とあり、また『大禹は善言を拝した(よい忠告に頭を下げた)』ともある。そなたたちも肝に銘じよ。そもそも富家の主人は、何を言っても『ごもっとも、ごもっとも』とさびつく(へつらう)者ばかりで、砥石に出合って研ぎ磨かれることがないから慢心が生じる。たとえばここに正宗の名刀があっても、研がず磨かず、さびついた物ばかりと一緒に置けば、たちまち腐って紙も切れなくなる。それと同じで、三味線弾きや太鼓持ちばかりと交わって、あれもごもっとも、これもごもっともと媚びへつらう者を喜んで日を過ごし、諫めてくれる友が一人もいないのは、なんと危ういことではないか」と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』桓公十三年 莫敖屈瑕の敗死十三年春、楚の屈瑕羅を伐つ。鬬伯比之を送る。還りて、其の禦に謂ひて曰く、「莫敖必ず敗れん。趾を舉ぐること高し、心固からず」と。遂に楚子に見えて曰く、「必ず師を濟せ」と。楚子焉を辭す。入りて夫人鄧曼に告ぐ。鄧曼曰く、「大夫は其れ眾の謂に非ず。其れ君の小民を撫するに信を以てし、諸司を訓ふるに德を以てし、而して莫敖を威すに刑を以てするを謂ふなり。莫敖は蒲騷の役に狃れ、將に自ら用ゐんとす。必ず羅を小とせん。君若し鎮撫せずんば、其れ備へを設けざらんか。夫れ固より君の眾を訓へて好く之を鎮撫し、諸司を召して之に勸むるに令德を以てし、莫敖を見て諸に天の假易せざるを告げよと謂ふなり。然らずんば、夫れ豈に楚の師の盡く行くを知らざらんや」と。楚子賴人をして之を追はしむ。及ばず。莫敖師に徇へしめて曰く、「諫むる者は刑有り」と。鄢に及び、次を亂して以て濟る。遂に次無く、且つ備へを設けず。羅に及ぶ。羅と盧戎と兩つながら之に軍す。大いに之を敗る。莫敖荒谷に縊れ、群帥冶父に囚へられて以て刑を聽く。楚子曰く、「孤の罪なり」と。皆之を免す。宋多く賂を鄭に責む。鄭命に堪へず。故に紀・魯を以て齊及び宋・衛・燕と戰ふ。戰ふ所を書せざるは、後るればなり。鄭人來りて好を修めんことを請ふ。
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史記 秦本紀繆公聞き、怒りて曰く、「孤兵を発して子沮みて吾が軍を哭するは、何ぞや」と。二老曰く、「臣敢へて君の軍を沮むに非ず。軍行くに、臣の子与に往く。臣老いたり、遅く還らば相見ざらんことを恐る、故に哭するのみ」と。二老退きて、其の子に謂ひて曰く、「汝の軍即し敗れなば、必ず殽の阨に於てせん」と。三十三年春、秦の兵遂に東し、晋の地を更り、周の北門を過ぐ。周の王孫満曰く、「秦の師礼無し、敗れずして何をか待たん」と。兵滑に至る。鄭の販売の賈人弦高、十二牛を持ちて将に之を周に売らんとす。秦の兵を見て、死虜を恐れ、因りて其の牛を献じて、曰く、「大国将に鄭を誅せんとすと聞く。鄭君謹んで守御の備へを修め、臣をして牛十二を以て軍士を労はしむ」と。秦の三将軍相謂ひて曰く、「将に鄭を襲はんとす。鄭今已に之を覚る、往くも及ぶ無し」と。滑を滅ぼす。滑は、晋の辺邑なり。是の時に当たり、晋の文公の喪尚ほ未だ葬らず。太子襄公怒りて曰く、「秦我が孤を侮り、喪に因りて我が滑を破る」と。遂に衰絰を墨くし、
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史記 燕召公世家燕の兵独り北ぐるを追ひ、入りて臨淄に至り、尽く斉の宝を取り、其の宮室宗廟を焼く。斉の城の下らざる者は、独り唯だ聊・莒・即墨のみ。其の余は皆燕に属すること、六歳。昭王三十三年にして卒し、子の恵王立つ。恵王の太子為りし時、楽毅と隙有り。即位するに及びて、毅を疑ひ、騎劫をして代はりて将たらしむ。楽毅亡げて趙に走る。斉の田単即墨を以て撃ちて燕の軍を敗り、騎劫死し、燕の兵引き帰り、斉悉く復た其の故城を得たり。閔王莒に死し、乃ち其の子を立てて襄王と為す。恵王七年にして卒す。韓・魏・楚共に燕を伐つ。燕の武成王立つ。武成王の七年、斉の田単我を伐ち、中陽を抜く。十三年、秦趙を長平に敗ること四十余万。十四年、武成王卒し、子の孝王立つ。孝王の元年、秦の邯鄲を囲む者解き去る。三年にして卒し、子の今王喜立つ。今王喜の四年、秦の昭王卒す。燕王相の栗腹に命じて歓を趙に約し、五百金を以て趙王の酒と為さしむ。還りて燕王に報じて曰く、「趙王の壮者は皆長平に死し、其の孤は未だ壮ならず、伐つべきなり」と。王、昌国君楽間を召して之を問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。伐つべからず」と。王曰く、「吾五を以て一を伐たん」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王怒り、群臣皆以て可と為す。卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗(こう)を攻め、卿秦代を攻む。唯だ独り大夫将渠燕王に謂ひて曰く、「人と関を通じ交はりを約し、五百金を以て人の王に飲ましめ、使者報じて反って之を攻むるは、不祥なり。兵に成功無からん」と。燕王聴かず、自ら偏軍を将ゐて之に随ふ。将渠燕王の綬を引きて之を止めて曰く、「王必ず自ら往くこと無かれ。往くも成功無からん」と。王之を蹵(け)るに足を以てす。将渠泣きて曰く、「臣は以て自らの為にするに非ず、王の為なり」と。燕の軍宋子に至る。趙廉頗をして将たらしめ、撃ちて栗腹を鄗に破る。楽乗卿秦を代に破る。
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説苑・尊賢魏の文侯大夫に曲陽に觴す。飲酣にして、文侯喟然として歎じて曰く、「吾独り豫譲以て臣と為す無し」と。蹇重酒を挙げて進みて曰く、「臣請う君に浮せん」と。文侯曰く、「何を以てか」と。対えて曰く、「臣之を聞く、命有るの父母は孝子を知らず、道有るの君は忠臣を知らずと。夫れ豫譲の君は、亦何如なる哉」と。文侯曰く、「善し」と。浮を受けて之を飲み、嚼みて譲らず。曰く、「管仲鮑叔以て臣と為す無きが故に、豫譲の功有るなり」と。趙簡子曰く、「吾范中行氏の良臣を得んと欲す」と。史黶曰く、「安んぞ之を用いんや」と。簡子曰く、「良臣は、人の願う所なり、又何ぞ問わんや」と。曰く、「君以て良臣無きが故なり。夫れ君に事うる者は、過ちを諫めて可を薦め、善を章かにして否を替え、能を献じて賢を進む。朝夕善を誦し、敗るれば之を納れ、聴かるれば則ち進み、否らざれば則ち退く。今范中行氏の良臣は、其の君を匡相する能わずして、難に至らしむ。出でて外に在り、又入る能わず。亡びて之を棄つ、何ぞ良と為さん。若し棄てずんば、君安んぞ之を得ん。夫れ良将は其の君を営みて、其の位に復さしめ、死して而る後に止む、何ぞ来たると曰わんや。若し未だ能わずんば、乃ち良に非ざるなり」と。簡子曰く、「善し」と。
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