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戦国策 / 或為六國說秦王

或為六國說秦王曰:「土廣不足以為安,人眾不足以為強。若土廣者安,人眾者強,則桀、紂之後將存。昔者,趙氏亦嘗強矣。曰趙強何若?舉左案齊,舉右案魏,厭案萬乘之國,二國,千乘之宋也。築剛平,衛無東野,芻牧薪采莫敢闚東門。當是時,衛危於累卵,天下之士相從謀曰:『吾將還其委質,而朝於邯鄲之君乎!』於是天下有稱伐邯鄲者,莫不令朝行。魏伐邯鄲,因退為逢澤之遇,乘夏車,稱夏王,朝為天子,天下皆從。齊太公聞之,舉兵伐魏,壤地兩分,國家大危。梁王身抱質執璧,請為陳侯臣,天下乃釋梁。郢威王聞之,寢不寐,食不飽,帥天下百姓,以與申縛遇於泗水之上,而大敗申縛。趙人聞之至枝桑,燕人聞之至格道。格道不通,平際絕。齊戰敗不勝,謀則不得,使陳毛釋劍掫,委南聽罪,西說趙,北說燕,內喻其百姓,而天下乃齊釋。於是夫積薄而為厚,聚少而為多,以同言郢威王於側紂之間。臣豈以郢威王為政衰謀亂以至於此哉?郢為強,臨天下諸侯,故天下樂伐之也!」

新字:或為六国説秦王曰:「土広不足以為安,人眾不足以為強。若土広者安,人眾者強,則桀、紂之後将存。昔者,趙氏亦嘗強矣。曰趙強何若?舉左案斉,舉右案魏,厭案万乗之国,二国,千乗之宋也。築剛平,衛無東野,芻牧薪采莫敢闚東門。当是時,衛危於累卵,天下之士相従謀曰:『吾将還其委質,而朝於邯鄲之君乎!』於是天下有称伐邯鄲者,莫不令朝行。魏伐邯鄲,因退為逢沢之遇,乗夏車,称夏王,朝為天子,天下皆従。斉太公聞之,舉兵伐魏,壤地両分,国家大危。梁王身抱質執璧,請為陳侯臣,天下乃釈梁。郢威王聞之,寝不寐,食不飽,帥天下百姓,以与申縛遇於泗水之上,而大敗申縛。趙人聞之至枝桑,燕人聞之至格道。格道不通,平際絶。斉戦敗不勝,謀則不得,使陳毛釈剣掫,委南聴罪,西説趙,北説燕,內喻其百姓,而天下乃斉釈。於是夫積薄而為厚,聚少而為多,以同言郢威王於側紂之間。臣豈以郢威王為政衰謀乱以至於此哉?郢為強,臨天下諸侯,故天下楽伐之也!」

書き下し

或ひと六國の爲に秦王に說きて曰く、「土廣きは以て安しと爲すに足らず、人眾きは以て強しと爲すに足らず。若し土廣き者安く、人眾き者強くば、則ち桀・紂の後將に存すべし。昔者、趙氏も亦た嘗て強かりき。曰く趙の強きこと何若(いかん)。左を舉げて齊を案じ、右を舉げて魏を案じ、萬乘の國を厭案するに、二國は、千乘の宋なり。剛平を築き、衞に東野無く、芻牧薪采敢へて東門を闚ふ莫し。是の時に當り、衞危きこと累卵より甚だし、天下の士相從ひて謀りて曰く、『吾將に其の委質を還して、邯鄲の君に朝せんとす』と。是に於て天下に邯鄲を伐たんと稱する者有れば、朝行せしめざるは莫し。魏邯鄲を伐ち、因りて退きて逢澤の遇を爲し、夏車に乘り、夏王と稱し、朝して天子と爲り、天下皆從へり。齊太公之を聞き、兵を舉げて魏を伐ち、壤地兩分し、國家大いに危し。梁王身に質を抱き璧を執り、陳侯の臣たらんことを請ふ、天下乃ち梁を釋す。郢威王之を聞き、寢ねて寐ねず、食して飽かず、天下の百姓を帥ゐて、以て申縛と泗水の上に遇し、大いに申縛を敗る。趙人之を聞きて枝桑に至り、燕人之を聞きて格道に至る。格道通ぜず、平際絕ゆ。齊戰ひ敗れて勝たず、謀れば則ち得ず、陳毛をして劍掫を釋かしめ、南に委ねて罪を聽き、西のかた趙に說き、北のかた燕に說き、內に其の百姓を喻し、天下乃ち齊を釋す。是に於て夫れ薄きを積みて厚しと爲し、少なきを聚めて多しと爲し、以て同じく郢威王を側紂の間に言ふ。臣豈に郢威王の政衰へ謀亂して以て此に至れりと爲さんや。郢の強きが爲に、天下の諸侯に臨む、故に天下樂しみて之を伐つなり。」

現代語訳

ある人が六国のために秦王に説いて言った。「領土が広いだけでは安泰とするに足りず、人民が多いだけでは強大とするに足りません。もし領土が広ければ安泰で、人民が多ければ強大だというのであれば、桀・紂の子孫はいまだに存続しているはずです。昔、趙もまたかつて強大でした。趙の強さとはどのようなものであったか。左手を挙げれば斉を抑え、右手を挙げれば魏を抑え、万乗の大国を圧倒するほどでしたが、それでも実際に併合できた二国は、しょせん千乗の宋程度のものでした。剛平に城を築くと、衛には東の郊外の地がなくなり、草刈りや薪拾いの者すら東門をうかがうことすらできませんでした。この時、衛の危機は積み重ねた卵よりもさらに危うく、天下の遊説家たちは相談して言いました。『我々はまさに自らの忠誠の証を返上して、邯鄲の君主に朝貢しに行くべきではないか』と。そこで天下で邯鄲を討伐すべきだと唱える者があれば、朝貢に赴かせない者はありませんでした。しかし魏が邯鄲を討伐すると、趙は退いて逢沢での会盟を行い、夏の天子の車に乗り、夏王を自称し、諸侯に朝見させて自ら天子のごとく振る舞うと、天下は皆これに従いました。斉の太公(威王)はこれを聞き、兵を挙げて魏を討伐し、その領土は両断され、国家は大いに危うくなりました。魏の梁王は自ら人質の証を抱き璧を手にして、陳侯の臣下となることを願い出て、天下はようやく梁(魏)を許しました。楚の郢の威王はこれを聞き、寝ても眠れず、食べても満腹にならず、天下の民を率いて、申縛と泗水のほとりで会戦し、申縛を大いに打ち破りました。趙の人々はこれを聞いて枝桑まで攻め込み、燕の人々はこれを聞いて格道まで攻め込みました。格道は通じなくなり、平際への道も絶たれました。斉は戦って敗れ、勝つことができず、策を講じても功を奏さず、陳毛に武器を捨てさせて南方に身を委ねて罪を認めさせ、西では趙に、北では燕に説いてなだめ、内では民を諭して落ち着かせ、天下はようやく斉への攻撃をやめました。こうして、わずかなものを積み重ねて厚くし、少ないものを集めて多くするように楚の勢力は徐々に強大化し、人々は口をそろえて楚の威王を桀・紂と並べて論じるようになりました。しかし私は、楚の威王の政治が衰えて混乱したためにこのような事態に至ったのだ、などとは決して思いません。楚が強大であったがゆえに天下の諸侯に臨んだので、それゆえ天下は喜んでこれを討伐しようとしたのです。」

解説

名もなき遊説家が、秦の強大化を諸国の連合を招く要因になると警告した論説です。かつて趙・魏・楚といった大国もそれぞれ最強と謳われた時期がありましたが、いずれも周辺国から警戒され、連合して攻められる巻き返しに遭ったという史実を次々と挙げ、「領土が広く人口が多いというだけでは安泰は保証されない」という命題を実証しています。特に楚の威王の例では、その強大さゆえに諸国から桀・紂のような暴君と同列に非難され攻められたのであって、政治が乱れていたからではないと弁護しており、強者に対する諸国の反発は善悪の問題ではなく、単に力の不均衡そのものから生まれるという冷静な分析を示しています。圧倒的な優位に立つ者ほど周囲の警戒と反発を招きやすいという法則は、企業間競争や国際関係における「強者の宿命」を考えるうえでも示唆に富む視点です。

この章句が説くこと

六国秦王楚威王合従

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