戦国策 / 三國攻秦入函谷
三國攻秦,入函谷。秦王謂樓緩曰:「三國之兵深矣,寡人欲割河東而講。」對曰:「割河東,大費也;免於國患,大利也。此父兄之任也。王何不召公子池而問焉?」王召公子池而問焉,對曰:「講亦悔,不講亦悔。」王曰:「何也?」對曰:「王割河東而講,三國雖去,王必曰:『惜矣!三國且去,吾特以三城從之。』此講之悔也。王不講,三國入函谷,咸陽必危,王又曰:『惜矣!吾愛三城而不講。』此又不講之悔也。」王曰:「鈞吾悔也,寧亡三城而悔,無危咸陽而悔也。寡人決講矣。」卒使公子池以三城講於三國,之兵乃退。
新字:三国攻秦,入函谷。秦王謂楼緩曰:「三国之兵深矣,寡人欲割河東而講。」対曰:「割河東,大費也;免於国患,大利也。此父兄之任也。王何不召公子池而問焉?」王召公子池而問焉,対曰:「講亦悔,不講亦悔。」王曰:「何也?」対曰:「王割河東而講,三国雖去,王必曰:『惜矣!三国且去,吾特以三城従之。』此講之悔也。王不講,三国入函谷,咸陽必危,王又曰:『惜矣!吾愛三城而不講。』此又不講之悔也。」王曰:「鈞吾悔也,寧亡三城而悔,無危咸陽而悔也。寡人決講矣。」卒使公子池以三城講於三国,之兵乃退。
書き下し
三國秦を攻め、函谷に入る。秦王樓緩に謂ひて曰く、「三國の兵深し、寡人河東を割きて講ぜんと欲す。」對へて曰く、「河東を割くは、大費なり。國患を免るるは、大利なり。此れ父兄の任なり。王何ぞ公子池を召して問はざる。」王公子池を召して問ふ、對へて曰く、「講ずるも亦た悔い、講ぜざるも亦た悔いん。」王曰く、「何ぞや。」對へて曰く、「王河東を割きて講ぜば、三國去ると雖も、王必ず曰はん、『惜しいかな、三國且に去らんとするに、吾特(た)だ三城を以て之に從へり』と。此れ講ずるの悔いなり。王講ぜずんば、三國函谷に入り、咸陽必ず危からん、王又曰はん、『惜しいかな、吾三城を愛みて講ぜず』と。此れ又講ぜざるの悔いなり。」王曰く、「鈞(ひと)しく吾が悔いなり、寧ろ三城を亡ひて悔ゆるも、咸陽を危くして悔ゆる無からん。寡人講を決せり。」卒に公子池をして三城を以て三國に講ぜしめ、之が兵乃ち退く。
現代語訳
三国(斉・韓・魏)が秦を攻め、函谷関に入った。秦王は楼緩に言った。「三国の軍勢は深く攻め込んできた。私は河東の地を割いて講和したいと思う。」楼緩は答えた。「河東を割くのは大きな出費です。しかし国の患いを免れるのは大きな利益です。これは王族の父兄が判断すべき事柄です。王はなぜ公子池をお呼びになってお尋ねにならないのですか。」王は公子池を呼んで尋ねた。公子池は答えた。「講和しても後悔し、講和しなくても後悔するでしょう。」王は「なぜか」と尋ねた。公子池は答えた。「王が河東を割いて講和すれば、三国が撤退したとしても、王は必ずこうおっしゃるでしょう。『惜しいことをした、三国はどうせ撤退しようとしていたのに、私はわざわざ三つの城を割いてまで従ってしまった』と。これが講和したことの後悔です。王が講和しなければ、三国は函谷関を突破し、咸陽が必ず危うくなり、王はまたこうおっしゃるでしょう。『惜しいことをした、私は三つの城を惜しんで講和しなかった』と。これがまた講和しなかったことの後悔です。」王は言った。「同じ後悔をするならば、むしろ三つの城を失って後悔するほうがよく、咸陽を危険にさらして後悔することはあってはならない。私は講和を決断しよう。」ついに公子池に命じて三つの城をもって三国と講和させ、三国の軍はそこで撤退した。
解説

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