斉家論 / 下
孟子ものたまふ所也、聖賢の說たまふ惻隱の情は、直に眞心なり、思ふて得にあらず、勉て中にあらず、天理の自然なり、程子の所謂、聖人の心は明鏡止水のごとく、四方八方を照し給ふ、又神道にて八咫鏡と申奉るは、直に天照太神宮の御心にて、天が下あらんかぎりを、照させたまふ神聖の御心如斯、一塵もとゞめぬ御心にて、乾坤を貫きたまふ、これ明なりといはんや、直なりといはんや、又正きといはんや、年月を重ね、默して識べき所也、予云、儉約は只衣服財器の事のみにあらず、惣て私曲なく、心を正するやうに敎たき志なり、退て工夫有べし、尤言所は質朴にして野鄙ならん、しかれども、文質相かぬることは、大賢以上のことにて、天に階て昇るがごとし、いふも中々愚なり、
新字:孟子ものたまふ所也、聖賢の説たまふ惻隠の情は、直に真心なり、思ふて得にあらず、勉て中にあらず、天理の自然なり、程子の所謂、聖人の心は明鏡止水のごとく、四方八方を照し給ふ、又神道にて八咫鏡と申奉るは、直に天照太神宮の御心にて、天が下あらんかぎりを、照させたまふ神聖の御心如斯、一塵もとゞめぬ御心にて、乾坤を貫きたまふ、これ明なりといはんや、直なりといはんや、又正きといはんや、年月を重ね、黙して識べき所也、予云、倹約は只衣服財器の事のみにあらず、惣て私曲なく、心を正するやうに教たき志なり、退て工夫有べし、尤言所は質朴にして野鄙ならん、しかれども、文質相かぬることは、大賢以上のことにて、天に階て昇るがごとし、いふも中々愚なり、
書き下し
孟子ものたまふ所なり。聖賢の説きたまふ惻隠の情は、直に真心なり。思うて得るにあらず、勉めて中るにあらず、天理の自然なり。程子の所謂、聖人の心は明鏡止水のごとく、四方八方を照らし給ふ。又神道にて八咫鏡と申し奉るは、直に天照太神宮の御心にて、天が下あらんかぎりを、照らさせたまふ神聖の御心斯くの如し。一塵もとゞめぬ御心にて、乾坤を貫きたまふ。これ明なりといはんや、直なりといはんや、又正しきといはんや。年月を重ね、黙して識るべき所なり。予云ふ、倹約は只衣服財器の事のみにあらず、惣じて私曲なく、心を正するやうに教へたき志なり。退いて工夫有るべし。尤も言ふ所は質朴にして野鄙ならん。しかれども、文質相かぬることは、大賢以上のことにて、天に階して昇るがごとし。いふも中々愚かなり。
現代語訳
孟子も言っておられるところです。聖人・賢人の説かれる惻隠の情は、そのまま真心です。考えて得るものでも、努めて当たるものでもなく、天理の自然です。程子の言うように、聖人の心は曇りのない鏡や静かな水のように、四方八方を照らされます。また神道で八咫鏡と申し上げるのは、そのまま天照大神の御心で、天下のあらゆる所を照らされる神聖な御心はこのようなものです。塵一つとどめない御心で、天地を貫いておられます。これを明と言いましょうか、直と言いましょうか、正と言いましょうか。年月を重ねて、黙って心で知るべきところです。私は言いました。倹約とは、ただ衣服や財産・道具のことだけではありません。すべて私心や曲がったところをなくし、心を正すように教えたいという志なのです。帰ってよく工夫してください。もっとも私の言うことは質朴で、田舎びているでしょう。けれども文と質を兼ね備えることは大賢以上のことで、はしごで天に昇るようなものです。言うのもまったく愚かなことです。
解説

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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。