斉家論 / 下
克思ひ克敬し、天君泰然にして、百體令に從ふ、不學者は見聞所の欲にひかれ、固有せし仁心を見失ひ、これを求る事をしらず、知らざれば、ことごとく不仁となる、不仁となるものを放心といふ、尤色心は、愛より來るといへども、過れば忽不仁となる、まづ放心の一二を擧ていはゞ、名聞と利欲と色欲なり、衆人はたとひ少々の善事をなせども、己を他より譽られたく思ふ心よりする善事なれば、實の善事にあらず、其外身上の事、氏系圖の事、或は藝能智惠に至るまで、己相應より宜しく思はれたき心有は、皆名聞也、又利欲といふは、道なくして金銀財寶をふやす事を好むより、心が闇く成て、金銀有がうへにも溜たく思ひ、種々の謀をなし、
新字:克思ひ克敬し、天君泰然にして、百体令に従ふ、不学者は見聞所の欲にひかれ、固有せし仁心を見失ひ、これを求る事をしらず、知らざれば、ことごとく不仁となる、不仁となるものを放心といふ、尤色心は、愛より来るといへども、過れば忽不仁となる、まづ放心の一二を挙ていはゞ、名聞と利欲と色欲なり、衆人はたとひ少々の善事をなせども、己を他より誉られたく思ふ心よりする善事なれば、実の善事にあらず、其外身上の事、氏系図の事、或は芸能智恵に至るまで、己相応より宜しく思はれたき心有は、皆名聞也、又利欲といふは、道なくして金銀財宝をふやす事を好むより、心が闇く成て、金銀有がうへにも溜たく思ひ、種々の謀をなし、
書き下し
克く思ひ克く敬し、天君泰然にして、百体令に従ふ。不学者は見聞する所の欲にひかれ、固有せし仁心を見失ひ、これを求むる事をしらず。知らざれば、ことごとく不仁となる。不仁となるものを放心といふ。尤も色心は、愛より来るといへども、過ぐれば忽ち不仁となる。まづ放心の一二を挙げていはゞ、名聞と利欲と色欲なり。衆人はたとひ少々の善事をなせども、己を他より誉められたく思ふ心よりする善事なれば、実の善事にあらず。其の外身上の事、氏系図の事、或は芸能智恵に至るまで、己相応より宜しく思はれたき心有るは、皆名聞なり。又利欲といふは、道なくして金銀財宝をふやす事を好むより、心が闇く成りて、金銀有るがうへにも溜めたく思ひ、種々の謀をなし、
現代語訳
よく考え、よく慎み、心という主君が落ち着いていれば、体のすべてがその命令に従います。学ばない者は見聞きするものへの欲に引かれ、もともと持っている仁の心を見失い、それを取り戻そうとすることを知りません。知らないので、何もかも不仁になります。不仁になった心を放心と言います。もっとも、色を好む心は愛から来るものですが、度を越せばたちまち不仁になります。まず放心の例を一つ二つ挙げれば、名聞と利欲と色欲です。普通の人は、たとえ少しの善いことをしても、他人から褒められたいという心からする善事なので、本当の善事ではありません。そのほか暮らし向きのこと、家柄のこと、あるいは芸事や知恵に至るまで、自分の実際より良く思われたいと思う心があるのは、みな名聞です。また利欲というのは、道によらずに金銀財宝を増やすことを好むあまり、心が暗くなって、金銀があるうえにもさらにため込みたいと思い、さまざまな策略をめぐらし、
解説

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『大和俗訓』巻之四・心術下一心に主なければ、事をつとむる時早過ぎてさわがしく、又おそ過ぎて怠となり、或は事に先だちてあやまち、或は事におくれて間にあはず。主あれば心つねに定りて、遅速なく、よきほどなる故、あやまち少なし。一徐孝節といふ人、幼少より物を殺すことをいましめ、蟻のあつまり居る処をも、ふみころさんことをおそれ、よぎて道をゆけり。其心善なりといふべし。此心をおしひろめて、まづ父母兄弟を愛し人倫に及ぼし、次に万物に及ぼさば、仁愛の道ひろく行はるべし。善心をおしひろむる工夫、常にかくの如くすべし。夫生すことを好み、殺すことをにくむは、天の御心なり。天の物をあはれみ給へる御心をうけて、人の心とする所、即仁なり。不仁の人は、人をめぐみ、物をあはれむに心なくして、殺すことを好む。かくの如く不仁ならば、他の才多しといへども、天道にそむき、人道にかけて、見るに足らず。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二條小程子曰く、学者仁体を識得し、実に諸を己に得れば、只だ義理の栽培を要す。経義を求むるが如きは、皆栽培の意なり、と。又曰く、学者此の心を全体すれば、学未だ尽くさずと雖も、若し事物の来たらば、応ぜざるべからず。但だ分限に随ひて之に応ずれば、中らずと雖も遠からず、と。又曰く、書を以て道を伝ふるは、口と相伝ふると、慾(煞)だ相干せず。相見て言ひ、事に因りて発明すれば、則ち意志を并せて一時に伝へ了る。書は言多しと雖も、其の実は尽くさず、と。又曰く、世に書を読むを以て文と為し芸と為す者有り。文を為すを之を芸と謂ふは猶ほ可なり。書を読むを之を芸と謂へば、則ち諸を書に求むる者浅し、と。此の数語は、自ら程朱を学ぶと謂ひて、諸を書策に求め、吾が心に求めざる者の長鍼なり。
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『都鄙問答』卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段うるほすと云ことなり。身をうるほすは、心よりうるほすことを知るべし。孟子の一書も、心上より説来る。心を知る時は、志強義理照して、以て上達すべし。此心を知ずば、昏味とくらく放にして、学問に従と云とも、発明する所あるべからず。医書に、以手足痿痺為不仁。仁者は、天地万物を以て、一体の心となす。己に非と云ことなし。天地万物を己とすれば、至ざる所なし。若心を知らずば、天地と己と別々にして、気已に貫かず、手足の痿痺病人の如し。聖人は、我が心を以て天地万物を貫。凡て師たるもの、この心を知らずば、何を法として教、人の心を正んや。然るを師家に立人、心を知らずと云。夫は汝の在所などにて、書物を能読、文字を知て教れば、
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『弁名』心志意孔子曰く、「仁に依る」と。又た曰く、「其の心三月仁に違はず」と。是れ孔子学者に教へ、其の心をして常に先王安民の徳に依りて、相違はざらしむるなり。又た曰く、「択びて仁に処らずんば、焉んぞ知なるを得ん」と。其の心を仁に居くを言ふなり。其の言殊なりと雖も、其の義実は同じ。蓋し皆古語なり。夫れ仁は先王の礼を制する所以なり。苟も礼を為して礼の制する所以を知らざれば、則ち徳成り難し。然れども三代の隆んなるに当たりては、士学びて成れば、則ち挙げて之を用ふ。一世の人、先王の仁に游泳し、黙して之を識る。豈に依らざる者有らんや。春秋の時に及びて、大夫官を世々にし、賢者用ひられず、先王の仁遠くして見るべからず。則ち士の先王の道を学びて独り其の身を善くする者、比比として皆是れなり。是に於いてか遂に其の仁を忘れて、徒らに以て芸と為す。徳の成り難き所以なり。故に孔子教ふるに仁に依るを以てす。亦た衰世の意なり。豈に礼の外に出でんや。然れども先王の仁見るべからざる者、其の今世に在りては、亦た春秋の時より甚だし。則ち仁礼の二言、永く千万世心を治むるの道為り。学者諸を思へ。
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『弁名』心志意惻隠羞悪辞譲是非の心を四端と為す。端は猶ほ一端と言ふがごときなり。亦た其の微なる者を謂ふのみ。朱子以て端緒と為す。其の意、仁義礼智性に全くして、四者は乃ち其の端緒の外に発見すと謂ふなり。是れ仏書の覆蔵心の説のみ。仁斎先生以て端本と為す。其の意、孟子の拡充の言に拠りて、引きて之を伸ぶるの意有りと謂ふ。豈に然らんや。孟子も亦た曰く、「性を養ふ」と。是れ自ら先王の教法有り、養ひて以て其の徳を成すのみ。其の拡充の言の如きも、亦た「天は昭昭の多きなり」と曰ふが如く、論説の言為るのみ。孟子と雖も、豈に必ずしも四端の心を拡充して以て仁義礼智を成さんことを求めんや。而るを固く其の拡充の言に泥みて、此を以て工夫と為し、遂に端本の説有り。亦た非なり。
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『弁名』仁殊に知らず、仁なる者は徳なり、性に非ざるなり。況んや理をや。仁の以て之を愛するは、特だ其の一端を言ふのみ。安んぞ仁を尽くすを得んや。且つ孔子の所謂人を愛すとは、民の父母と為るを謂ふなり。苟も民を安んずるに非ずんば、烏んぞ以て民の父母と為すに足らんや。宋儒は心を主とす。心を主として愛を語れば、則ち釈迦も亦た仁人のみ。其の安民の徳無ければ、則ち吾が所謂仁に非ざるなり。気質変ずべけんや。人欲尽くすべけんや。何れの徳か心に非ざらん。苟も仁を以て全徳と為さば、豈に所謂衆徳有らんや。専言偏言、豈に妄に非ずや。皆肆に其の理を言ひて未だ夫の道を睹ざるの失なり。