斉家論 / 下
答、汝は町家のことは瑣細にて、大道に用られずと云、某思ふは左にあらず、上より下に至り、職分は異なれども、理は一なり、儉約の事を得心し行ふときは、家とゝのひ國治り天下平なり、これ大道にあらずや、儉約をいふは、畢竟身を修め家をとゝのへん爲也、大學に所謂、天子より以て庶人に至るまで、一に是皆身を修るを以て本とすと、身を修るに、何んぞ士農工商のかはりあらん、身を修る主となるは如何、これ心なり、此身の微なるを喩ていはゞ、大倉に稀米一粒あるがごとし、しかれども、天地人の三才となるは、唯心のみ、古今たれか此心なからん、然ども是を知る者まれなり、知といへども、其通を行ふ者甚かたし、惟君子は誠を存し、
新字:答、汝は町家のことは瑣細にて、大道に用られずと云、某思ふは左にあらず、上より下に至り、職分は異なれども、理は一なり、倹約の事を得心し行ふときは、家とゝのひ国治り天下平なり、これ大道にあらずや、倹約をいふは、畢竟身を修め家をとゝのへん為也、大学に所謂、天子より以て庶人に至るまで、一に是皆身を修るを以て本とすと、身を修るに、何んぞ士農工商のかはりあらん、身を修る主となるは如何、これ心なり、此身の微なるを喩ていはゞ、大倉に稀米一粒あるがごとし、しかれども、天地人の三才となるは、唯心のみ、古今たれか此心なからん、然ども是を知る者まれなり、知といへども、其通を行ふ者甚かたし、惟君子は誠を存し、
書き下し
答ふ、汝は町家のことは瑣細にて、大道に用ゐられずと云ふ。某思ふは左にあらず。上より下に至り、職分は異なれども、理は一なり。倹約の事を得心し行ふときは、家とゝのひ国治まり天下平らかなり。これ大道にあらずや。倹約をいふは、畢竟身を修め家をとゝのへん為なり。大学に所謂、天子より以て庶人に至るまで、一に是れ皆身を修むるを以て本とすと。身を修むるに、何んぞ士農工商のかはりあらん。身を修むる主となるは如何。これ心なり。此の身の微なるを喩へていはゞ、大倉に稀米一粒あるがごとし。しかれども、天地人の三才となるは、唯心のみ。古今たれか此の心なからん。然れども是を知る者まれなり。知るといへども、其の通りを行ふ者甚だかたし。惟君子は誠を存し、
現代語訳
梅岩は答えました。「あなたは町家のことは細かすぎて大道には用いられないと言います。私の考えはそうではありません。上から下まで職分は違っても、理は一つです。倹約のことを納得して行えば、家は整い、国は治まり、天下は平らかになります。これが大道でなくて何でしょう。倹約を言うのは、つまるところ身を修め家を整えるためです。『大学』に、天子から庶民に至るまで、みな一様に身を修めることを本とする、とあります。身を修めるのに、どうして士農工商の違いがあるでしょう。身を修める主となるのは何か。それは心です。この身の小ささをたとえれば、大きな倉に米粒が一つあるようなものです。けれども天・地・人の三才に並ぶのは、ただ心によってです。昔も今も、誰にこの心がないでしょう。けれどもこれを知る者はまれで、知っていてもそのとおりに行う者はたいへん少ない。ただ君子は誠を保ち、
解説

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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
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言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
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言志四録・言志録 第九十七条 心の来処は太虚目を挙ぐれば百物、皆来処有り。軀殻の父母より出づるも、亦来処なり。心に至りては則ち来処何くに在る。余曰く、軀殻は是れ地気の精英、父母に由りて之を聚む。心は則ち天なり。軀殻成りて天寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚泯ぶ。心の来処は、乃ち太虚是れのみ。
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『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。