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斉家論 / 上

皇太神宮もうけさせ玉ふ所なりと、竹わるやうにいはれければ、文盲至極の手代なれど、御師の辭に恥入て、ほこる勢ひ失はてゝ、これぞ實に寶敕ならんと、感心せりと聞をけり、其手代忽に善に化せられ、愚は變じて智にかへり、奢りは變じて儉と成、有がたき御師の德ならずや、身は正直の神明に捧げ、旦那には心を盡す所より、露塵も諂ひ曲る欲心なく、離切たる警は、大丈夫とも云つべし、惣て物に相應あり、長刀をふらせ、黑緣の乘物にて、內玄關より出入ある歷々ならば、御新造の奧のともいふべし、夫より以下には似合ぬことなり、況下賤の者に於てをや、古へも名の奢りにて、聖人に罪を受し者あり、楚國の子西これなり、

新字:皇太神宮もうけさせ玉ふ所なりと、竹わるやうにいはれければ、文盲至極の手代なれど、御師の辞に恥入て、ほこる勢ひ失はてゝ、これぞ実に宝勅ならんと、感心せりと聞をけり、其手代忽に善に化せられ、愚は変じて智にかへり、奢りは変じて倹と成、有がたき御師の徳ならずや、身は正直の神明に捧げ、旦那には心を尽す所より、露塵も諂ひ曲る欲心なく、離切たる警は、大丈夫とも云つべし、惣て物に相応あり、長刀をふらせ、黒縁の乗物にて、内玄関より出入ある歴々ならば、御新造の奥のともいふべし、夫より以下には似合ぬことなり、況下賤の者に於てをや、古へも名の奢りにて、聖人に罪を受し者あり、楚国の子西これなり、

書き下し

皇太神宮もうけさせ玉ふ所なりと、竹わるやうにいはれければ、文盲至極の手代なれど、御師の辞に恥ぢ入りて、ほこる勢ひ失せはてて、これぞ実に宝勅ならんと、感心せりと聞きをけり。其の手代忽ちに善に化せられ、愚は変じて智にかへり、奢りは変じて倹と成る。有りがたき御師の徳ならずや。身は正直の神明に捧げ、旦那には心を尽くす所より、露塵も諂ひ曲がる欲心なく、離れ切つたる警めは、大丈夫とも云ひつべし。惣て物に相応あり。長刀をふらせ、黒縁の乗物にて、内玄関より出入りある歴々ならば、御新造の奥のともいふべし。夫より以下には似合はぬことなり。況んや下賤の者に於てをや。古へも名の奢りにて、聖人に罪を受けし者あり。楚国の子西これなり。

現代語訳

皇大神宮もお受けになるのです」と、竹を割ったようにきっぱり言われたので、まったく無学な手代でしたが、御師の言葉に恥じ入り、誇っていた勢いもすっかり失せて、「これこそまことに宝のようなお言葉だ」と感心したと聞いています。その手代はたちまち善に化せられ、愚は変じて知に帰り、奢りは変じて倹約となりました。ありがたい御師の徳ではありませんか。身は正直の神に捧げ、旦那には心を尽くすところから、少しもへつらい曲がった欲心がなく、きっぱりと離れ切った戒めは、立派な男とも言うべきです。およそ物には相応があります。長刀を持たせ、黒縁の駕籠に乗って内玄関から出入りするような歴々の家なら、御新造とも奥方とも言うべきですが、それより下には似合わないことです。まして下賤の者はなおさらです。昔も名の奢りで聖人にとがめを受けた者がいます。楚の子西がそれです。

解説

御師の一言で手代は恥じ入り、愚から智へ、奢りから倹へと変わりました。梅岩はこれを御師の徳とし、正直の神に仕え、旦那に心を尽くすから、へつらいの欲心がないのだと評します。得意先に嫌われる危険を冒して正しいことを言えるのは、自分の利から離れているからだ、という見立てです。愚痴と奢りは分けがたいと述べた梅岩の論が、ここで裏返しの形で確かめられます。愚が智に変われば奢りも倹に変わる。倹約を説くことは、けちを勧めることではなく、物事の道理を見えるようにすることだとわかります。

この章句が説くこと

正直御師愚痴倹約へつらい変化

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