呂氏春秋 / 有度④
孔、墨之弟子徒屬充滿天下,皆以仁義之術教導於天下,然而無所行,教者術猶不能行,又況乎所教?是何也?仁義之術外也。夫以外勝內,匹夫徒步不能行,又況乎人主?唯通乎性命之情,而仁義之術自行矣。
新字:孔、墨之弟子徒属充満天下,皆以仁義之術教導於天下,然而無所行,教者術猶不能行,又況乎所教?是何也?仁義之術外也。夫以外勝内,匹夫徒歩不能行,又況乎人主?唯通乎性命之情,而仁義之術自行矣。
書き下し
孔・墨の弟子徒屬、天下に充滿し、皆仁義の術を以て天下を教導す。然れども行わるる所無し。教うる者、術猶ほ行う能わず。又況んや教うる所をや。是れ何ぞや。仁義の術外なればなり。夫れ外を以て内に勝つ、匹夫徒歩も行う能わず。又況んや人主をや。唯だ性命の情に通ずれば、仁義の術自ら行わる。
現代語訳
孔子・墨子の弟子や門人は天下に満ちあふれ、皆が仁義の術で天下を教え導いた。しかし実際には行われなかった。教える者ですらその術を行えないのに、まして教えられる者はなおさらだ。これはなぜか。仁義の術が外面のものだからである。そもそも外面のもので内面に打ち勝つことは、一介の庶民でもできないのに、まして君主はなおさらだ。ただ生来の自然な心に通じてこそ、仁義の術はおのずと行われる。
解説
この段は、仁義を外から教え込む儒家や墨家の方法の限界を指摘します。弟子が天下に満ちても仁義が実現しないのは、それが「外」すなわち内面に根ざさない借り物の技術だからだ、と説きます。背景には、道理の内在化を重んじる呂氏春秋の立場があります。核心は、外的な規範で内面を制することは庶民にも君主にも難しく、生来の自然な心(性命の情)に通じて初めて仁義が自然に発現するという点です。現代でも、行動規範やコンプライアンスを外から課すだけでは形骸化しやすく、価値観として内面化されて初めて自発的に機能します。ルールの徹底より動機の醸成を重んじる組織論に通じる洞察です。
この章句が説くこと
孔子墨子仁義の術内面化性命の情規範
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