呂氏春秋 / 似順③
田成子之所以得有國至今者,有兄曰完子,仁且有勇。越人興師誅田成子曰:「奚故殺君而取國?」田成子患之。完子請率士大夫以逆越師,請必戰,戰請必敗,敗請必死。田成子曰:「夫必與越戰可也。戰必敗,敗必死,寡人疑焉。」完子曰:「君之有國也,百姓怨上,賢良又有死之,臣蒙恥。以完觀之也,國已懼矣。今越人起師,臣與之戰,戰而敗,賢良盡死,不死者不敢入於國。君與諸孤處於國,以臣觀之,國必安矣。」完子行,田成子泣而遣之。夫死敗,人之所惡也,而反以為安,豈一道哉?故人主之聽者與士之學者,不可不博。
新字:田成子之所以得有国至今者,有兄曰完子,仁且有勇。越人興師誅田成子曰:「奚故殺君而取国?」田成子患之。完子請率士大夫以逆越師,請必戦,戦請必敗,敗請必死。田成子曰:「夫必与越戦可也。戦必敗,敗必死,寡人疑焉。」完子曰:「君之有国也,百姓怨上,賢良又有死之,臣蒙恥。以完観之也,国已懼矣。今越人起師,臣与之戦,戦而敗,賢良尽死,不死者不敢入於国。君与諸孤処於国,以臣観之,国必安矣。」完子行,田成子泣而遣之。夫死敗,人之所悪也,而反以為安,豈一道哉?故人主之聴者与士之学者,不可不博。
書き下し
田成子の國を有ちて今に至るを得る所以の者は、兄有り完子と曰い、仁にして且つ勇有ればなり。越人、師を興し田成子を誅せんとして曰く、「奚の故に君を殺して國を取る。」田成子、之を患う。完子、士大夫を率いて以て越の師を逆えんことを請う。必ず戰わんことを請い、戰えば必ず敗れんことを請い、敗るれば必ず死せんことを請う。田成子曰く、「夫れ必ず越と戰うは可なり。戰えば必ず敗れ、敗るれば必ず死せんとは、寡人疑う。」完子曰く、「君の國を有つや、百姓、上を怨み、賢良にして又死有るの臣恥を蒙る。完を以て之を觀れば、國已に懼れり。今、越人師を起こし、臣之と戰い、戰いて敗るれば、賢良盡く死し、死せざる者も敢て國に入らず。君、諸孤と國に處らば、臣を以て之を觀るに、國必ず安からん。」完子行き、田成子泣きて之を遣る。夫れ死敗は、人の惡む所なり。而るに反って以て安しと為す。豈に一道ならんや。故に人主の聽く者と士の學ぶ者とは、博からざる可からず。
現代語訳
田成子が国を保ち続けられたのは、仁徳があり勇気もある完子という兄がいたからだ。越が軍を興して田成子を「主君を殺し国を奪った」と責めたとき、田成子は憂えた。完子は士大夫を率いて越軍を迎え撃ち、必ず戦い、必ず敗れ、敗れれば必ず死ぬと願い出た。田成子は敗死を疑ったが、完子は「民は上を怨み、賢良の臣も死のうとしており、私は恥を受けています。今戦って敗れ、賢良が皆死ねば、生き残りも国に入る顔がなく、君は遺児たちと国に安んじられます」と説いた。完子は出陣し、田成子は泣いて見送った。敗死は誰もが嫌うものだが、かえって安泰の道となった。道は一つではない。だから君主の聴くところ、士の学ぶところは、広くなければならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
説苑・尊賢田忌斉を去りて楚に奔る。楚王郊に迎えて舎に至り、問いて曰く、「楚は万乗の国なり、斉も亦万乗の国なり、常に相并せんと欲す、之を奈何せん」と。対えて曰く、「知り易きのみ。斉申孺をして将たらしめば、則ち楚五万人を発し、上将軍をして之を将いしめ、禽将軍の首に至りて反るのみ。斉田居をして将たらしめば、則ち楚二十万人を発し、上将軍をして之を将いしめ、分別して相い去るなり。斉眄子をして将たらしめば、楚四封の内を発し、王自ら出でて将たり、忌従い、相国上将軍左右司馬たり。是の如くんば則ち王僅かに存するを得んのみ」と。是に於いて斉申孺をして将たらしめ、楚五万人を発し、上将軍をして至らしめ、擒将軍の首を反す。是に於いて斉王忿然とし、乃ち更めて眄子をして将たらしめ、楚四封の内を悉く発し、王自ら将たり、田忌従い、相国上将軍左右司馬たり、王の車属九乗を益し、僅かに免るるを得たり。舎に至り、王北面して正しく斉袪を領え、問いて曰く、「先生何ぞ之を知るの早きや」と。田忌曰く、「申孺の人と為りや、賢者を侮りて不肖者を軽んず、賢不肖俱に用いられず、是を以て亡ぶるなり。田居の人と為りや、賢者を尊びて不肖者を賤しむ、賢者は任を負い、不肖者は退く、是を以て分別して相い去るなり。眄子の人と為りや、賢者を尊びて不肖者を愛す、賢不肖俱に任を負う、是を以て王僅かに存するを得しのみ」と。
-
史記 田叔列伝後数歳、叔法に坐して官を失ふ。梁孝王人をして故の呉相袁盎を殺さしむ、景帝田叔を召して梁を案ぜしむ、具に其の事を得、還りて報ず。景帝曰く、「梁之れ有るか」と。叔対へて曰く、「死罪、之れ有り」と。上曰く、「其の事安くに在る」と。田叔曰く、「上梁の事を以て為す毋かれ」と。上曰く、「何ぞや」と。曰く、「今梁王誅に伏せずんば、是れ漢法行はれざるなり、如し其れ法に伏せば、而して太后食味を甘しとせず、臥席に安んぜず、此の憂ひ陛下に在り」と。景帝大いに之を賢とし、以て魯相と為す。
-
呂氏春秋・順民⑤齊の莊子、越を攻めんことを請いて、和子に問う。和子曰く、「先君に遺令有り。曰く、『越を攻むる無かれ。越は猛虎なり。』」莊子曰く、「猛虎なりと雖も、今は已に死せり。」和子以て鴞子に告ぐ。鴞子曰く、「已に死して以て生くるが為し。」故に凡そ事を舉ぐるには、必ず先づ民心を審らかにし、然る後舉ぐ可し。
-
史記 仲尼弟子列伝田常、斉に乱を作さんと欲するも、高・国・鮑・晏を憚り、故に其の兵を移して以て魯を伐たんと欲す。孔子之を聞き、門弟子に謂ひて曰く、「夫れ魯は墳墓の処る所、父母の国なり。国危きこと此くの如し、二三子何為れぞ出づる莫き」と。子貢行かんことを請ひ、孔子之を許す。遂に行きて斉に至り、田常に説きて曰く、「君の魯を伐つは過てり。夫れ魯は伐ち難き国なり、其の君は愚にして不仁、大臣は偽りて用無く、士民は甲兵の事を悪む、此れ与に戦ふ可からず。君は呉を伐つに如かず。呉は城高く地広く、甲堅く士選ばれ、此れ伐ち易きなり」と。田常忿然として色を作す。子貢曰く、「憂ひ内に在る者は彊きを攻め、憂ひ外に在る者は弱きを攻む。今君は憂ひ内に在り。魯を破りて以て斉を広め、戦ひ勝ちて以て主を驕らせ、国を破りて以て臣を尊くするも、君の功は与らざれば、則ち交々日に主に疏んぜられん。故に曰く呉を伐つに如かず、と。呉を伐ちて勝たずんば、民人外に死し、大臣内に空しく、孤主にして斉を制する者は唯君のみ」と。田常曰く、「善し。然り而れども吾が兵業已に魯に加はれり、去りて呉に之かば、大臣我を疑はん、奈何」と。子貢曰く、「君兵を按じて伐つ無かれ、臣請ふ往きて呉王に使ひし、之をして魯を救ひて斉を伐たしめ、君因りて兵を以て之を迎へよ」と。田常許す。
-
呂氏春秋・順說③田贊、補衣を衣て荊王に見ゆ。荊王曰く、「先生の衣、何ぞ其れ惡しきや。」田贊對えて曰く、「衣に又此れより惡しき者有るなり。」荊王曰く、「得て聞く可きか。」對えて曰く、「甲は此れより惡し。」王曰く、「何の謂ぞや。」對えて曰く、「冬日は則ち寒く、夏日は則ち暑し。衣は甲より惡しき者無し。贊や貧なり、故に衣惡しきなり。今大王は、萬乘の主なり。富貴敵無し。而るに好みて民に衣するに甲を以てするは、臣得ざるなり。意うに其の義なるが為か。甲の事は、兵の事なり。人の頸を刈り、人の腹を刳き、人の城郭を隳り、人の父子を刑すなり。其の名又甚だ榮ならず。意うに其の實なるが為か。苟しくも人を害せんことを慮れば、人も亦た必ず之を害せんことを慮る。苟しくも人を危うくせんことを慮れば、人も亦た必ず之を危うくせんことを慮る。其れ人に實なれば則ち甚だ安からず。之の二つの者は、臣、大王の為に取る無し。」荊王以て應うる無し。説未だ大いには行われずと雖も、田贊は能く其の方を立てたりと謂う可し。若し夫れ偃息の義は、則ち未だ之れ識らざるなり。
-
史記 孫子呉起列伝呉起、西河の守と為り、甚だ声名有り。魏、相を置き、田文を相とす。呉起悦ばず、田文に謂ひて曰く、「請ふ、子と功を論ぜん、可なるか」と。田文曰く、「可なり」と。起曰く、「三軍を将ゐ、士卒をして死を楽ひ、敵国をして敢て謀らざらしむるは、子、起と孰れぞ」と。文曰く、「子に如かず」と。起曰く、「百官を治め、万民を親しましめ、府庫を実たすは、子、起と孰れぞ」と。文曰く、「子に如かず」と。起曰く、「西河を守りて秦の兵敢て東に郷はず、韓・趙賓従せしむるは、子、起と孰れぞ」と。文曰く、「子に如かず」と。起曰く、「此の三者、子皆吾が下に出づ、而るに位、吾が上に加はるは何ぞや」と。文曰く、「主少くして国疑ひ、大臣未だ附かず、百姓信ぜず。是の時に方りて、之を子に属せんか、之を我に属せんか」と。起、黙然たること良や久しくして曰く、「之を子に属せん」と。文曰く、「此れ乃ち吾が子の上に居る所以なり」と。呉起乃ち自ら田文に如かざるを知る。