呂氏春秋 / 察微③
楚之邊邑曰卑梁,其處女與吳之邊邑處女桑於境上,戲而傷卑梁之處女。卑梁人操其傷子以讓吳人,吳人應之不恭,怒殺而去之。吳人往報之,盡屠其家。卑梁公怒,曰:「吳人焉敢攻吾邑?」舉兵反攻之,老弱盡殺之矣。吳王夷昧聞之怒,使人舉兵侵楚之邊邑,克夷而後去之。吳、楚以此大隆。吳公子光又率師與楚人戰於雞父,大敗楚人,獲其帥潘子臣、小惟子、陳夏齧,又反伐郢,得荊平王之夫人以歸,實為雞父之戰。凡持國,太上知始,其次知終,其次知中。三者不能,國必危,身必窮。《孝經》曰:「高而不危,所以長守貴也;滿而不溢,所以長守富也。富貴不離其身,然後能保其社稷,而和其民人。」楚不能之也。
新字:楚之辺邑曰卑梁,其処女与吳之辺邑処女桑於境上,戯而傷卑梁之処女。卑梁人操其傷子以譲吳人,吳人応之不恭,怒殺而去之。吳人往報之,尽屠其家。卑梁公怒,曰:「吳人焉敢攻吾邑?」舉兵反攻之,老弱尽殺之矣。吳王夷昧聞之怒,使人舉兵侵楚之辺邑,克夷而後去之。吳、楚以此大隆。吳公子光又率師与楚人戦於雞父,大敗楚人,獲其帥潘子臣、小惟子、陳夏齧,又反伐郢,得荊平王之夫人以帰,実為雞父之戦。凡持国,太上知始,其次知終,其次知中。三者不能,国必危,身必窮。《孝経》曰:「高而不危,所以長守貴也;満而不溢,所以長守富也。富貴不離其身,然後能保其社稷,而和其民人。」楚不能之也。
書き下し
楚の邊邑を卑梁と曰う、其の處女と吳の邊邑の處女と、境上に桑し、戲れて卑梁の處女を傷つく。卑梁の人、其の傷子を操りて以て吳人を讓む。吳人之に應うること恭ならざれば、怒り殺して之を去る。吳人往きて之に報い、盡く其の家を屠る。卑梁の公怒りて曰く、「吳人焉くんぞ敢て吾が邑を攻むる。」兵を舉げて反って之を攻め、老弱盡く之を殺す。吳王夷昧之を聞きて怒りて、人をして兵を舉げ楚の邊邑を侵さしめ、克夷して後之を去る。吳・楚此を以て大いに隆う。吳の公子光又師を率いて、楚人と雞父に戰い、大いに楚人を敗り、其の帥潘子臣・小惟子・陳夏齧を獲、又反って郢を伐ち、荊の平王の夫人を得て以て歸る。實に雞父の戰い為り。凡そ國を持するや、太上は始めを知り、其の次は終りを知り、其の次は中を知る。三つの者能わざれば、國必ず危うく、身必ず窮す。孝經に曰く、「高にして危うからざるは、長く貴を守る所以なり。滿ちて溢れざるは、長く富を守る所以なり。富貴、其の身を離れず、然る後能く其の社稷を保ちて、其の民人を和す。」楚之を能くせざるなり。
現代語訳
楚の辺境の町を卑梁といい、そこの娘と呉の辺境の娘が国境で桑を摘み、ふざけて卑梁の娘を傷つけた。卑梁の人が傷ついた娘を連れて呉人に抗議すると、呉人の応対が無礼だったので、怒って相手を殺して去った。呉人が仕返しに来て、その一家を皆殺しにした。卑梁の長は怒り『呉人はよくも我が町を攻めたな』と兵を挙げて逆襲し、老人子供まで殺した。呉王夷昧はこれを聞いて怒り、兵を出して楚の辺境を侵し、皆殺しにして去った。呉と楚はこうして大戦争になった。呉の公子光はさらに軍を率いて楚人と雞父で戦い、大いに破って将の潘子臣・小惟子・陳夏齧を捕らえ、返す刀で郢を攻めて楚の平王の夫人を連れ帰った。これがまさに雞父の戦いである。およそ国を保つには、最上は始まりを見抜き、次は結末を、次は途中を見抜くことだ。この三つができなければ国は必ず危うく、身も窮する。孝経に『高位にあって危うくないのは長く貴い地位を守る道、満ちても溢れないのは長く富を守る道。富貴が身を離れず、そうしてこそ社稷を保ち民を和ませられる』とある。楚はこれができなかったのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 伍子胥列伝之を久しくして、楚の平王、其の辺邑鐘離と呉の辺邑卑梁氏と俱に蠶し、両女子桑を争ひて相ひ攻むるを以て、乃ち大いに怒り、両国兵を挙げて相ひ伐つに至る。呉、公子光をして楚を伐たしめ、其の鐘離・居巣を抜きて帰る。伍子胥、呉王僚に説きて曰く、「楚破る可きなり。願はくは復た公子光を遣せ」と。公子光、呉王に謂ひて曰く、「彼の伍胥の父兄は楚に戮せらる、而して王に楚を伐つを勧むるは、以て自ら其の讎に報いんと欲するのみ。楚を伐つも未だ破る可からざるなり」と。伍胥、公子光に内志有りて、王を殺して自立せんと欲し、未だ外事を以て説く可からざるを知り、乃ち専諸を公子光に進め、退きて太子建の子の勝と野に耕す。
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呂氏春秋・知化②呉王夫差將に齊を伐たんとす。子胥曰く、「不可なり。夫れ齊と呉とは、習俗同じからず、言語通ぜず。我、其の地を得るとも處ること能わず、其の民を得るとも使うことを得ず。夫れ呉と越とは、土を接し境を鄰し、壤交わり通屬なり、習俗同じ、言語通ず。我、其の地を得ば、能く之に處り、其の民を得ば、能く之を使う。越の我に於けるも亦た然り。夫れ呉・越の勢いは兩立せず。越の呉に於けるや、譬えば心腹の疾の若きなり。作ること無しと雖も、其の傷は深くして内に在るなり。夫れ齊の呉に於けるや、疥癬の病なり。苦しまざれば其れ已むなり。且つ其れ傷うこと無きなり。今、越を釋てて齊を伐つは、之を譬うれば猶ほ虎を懼れて猏を刺すがごとし。之に勝つと雖も、其の後患央くること無し。」太宰嚭曰く、「不可なり。君王の令、上國に行われざる所以の者は、齊・晉なり。君王若し齊を伐ちて之に勝ち、其の兵を徙して以て晉に臨まば、晉必ず命を聽かん。是れ君王、一舉して兩國を服すなり。君王の令、必ず上國に行われん。」夫差以て然りと為し、子胥の言を聽かずして、太宰嚭の謀を用う。子胥曰く、「天將に呉を亡ぼさんとせば、則ち君王をして戰いて勝たしめん。天將に呉を亡ぼさざらんとせば、則ち君王をして戰いて勝たざらしめん。」夫差聽かず。子胥、兩袪高蹶して、廷を出でて曰く、「嗟乎、呉の朝必ず荊棘を生ぜん。」夫差、師を興し齊を伐ち、艾陵に戰い、大いに齊の師を敗り、反りて子胥を誅す。子胥將に死せんとして曰く、「與、吾安くにか一目を得て、以て越人の呉に入るを視ん。」乃ち自殺す。夫差乃ち其の身を取りて、之を江に流し、其の目を抉りて、之を東門に著き、曰く、「女胡ぞ越人の我に入るを視ん。」居ること數年、越、呉に報い、其の國を殘い、其の世を絕ち、其の社稷を滅ぼし、其の宗廟を夷げ、夫差は身擒と為る。夫差將に死せんとして曰く、「死者如し知る有らば、吾何の面ありて以て子胥を地下に見ん。」乃ち幎を為りて以て面を冒いて死す。夫れ患い未だ至らざれば、則ち告ぐ可からざるなり。患既に至れば、之を知ると雖も及ぶこと無し。故に夫差の子胥に慚づることを知れるは、知ること勿きに若かず。
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呂氏春秋・髙義④荊人、吳人と將に戰わんとす。荊の師寡く、吳の師衆し。荊の將軍子囊曰く、「我、吳人と戰わば、必ず敗れん。王の師を敗り、王の名を辱しめ、壤土を虧くは、忠臣、為すに忍びざるなり。」王に復さずして遁れ、郊に至り、人をして王に復さしめて曰く、「臣請う死せん。」王曰く、「將軍の遁れたるは、其の利為るを以てなり。今誠に利ならば、將軍何ぞ死せん。」子囊曰く、「遁るる者罪無くんば、則ち後世の王の臣為る者、皆不利の名に依りて、臣の遁れたるに效わんとす。是きの若くなれば則ち荊國終に天下に撓められん。」遂に劍に伏して死す。王曰く、「請う將軍の義を成さん。」乃ち之に桐棺三寸を為り、斧鑕を其の上に加う。人主の患は存すれども、存する所以を知らず、亡ぶれども亡ぶる所以を知らず。此れ存亡の數々至る所以なり。郼・岐の廣さにして、萬國の順いしは、此れ從り生ず。荊の國を為すこと四十二世、嘗て乾谿・白公の亂有り、嘗て鄭襄・州侯の避有り、而も今も猶ほ萬乘の大國為るは、其の時臣に子囊の如きもの有ればなりしか。子囊の節は、獨り一世の人臣を厲ますのみに非ざるなり。
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呂氏春秋・察微④鄭の公子歸生、師を率いて宋を伐つ。宋の華元、師を率いて之に大棘に應ず。羊斟御たり。明日將に戰わんとして、華元羊を殺し士に饗す。羊斟、焉に與らず。明日戰う。恕りて華元に謂いて曰く、「昨日の事は、子制を為す。今日の事は、我制を為す。」遂に驅りて鄭の師に入る。宋の師敗績し、華元虜となる。夫れ弩機差うに米を以てすれば則ち發せず。戰いは大機なり。士を饗して其の御を忘れ、將此を以て敗れて虜と為れるは、豈に宜ならずや。故に凡そ戰いは必ず悉く熟し偏く備え、彼を知り己を知り、然る後可なり。
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説苑・權謀晉人已に智氏に勝ち、歸りて甲を繕ひ兵を砥ぐ。楚王恐れ、梁公弘を召して曰く、「晉人已に智氏に勝てり。歸りて甲兵を繕ふ。其れ我を以て事と爲さんか」と。梁公曰く、「患へず。害は其れ吳に在らんか。夫れ吳君は民を恤み其の勞を同じくし、其の民をして上の令を重んぜしめ、人其の死を輕んじて以て上に從はしむ。虜の戰ふが如くならしめば、臣山に登りて以て之を望むに、其の百姓の信を用ふるを見る。必ずや已むこと勿からんか。其れ之に備ふること若何」と。聽かず。明年、闔廬郢を襲ふ。
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史記 伍子胥列伝楚、其の大臣郤宛・伯州犁を誅す。伯州犁の孫伯嚭、亡げて呉に奔る。呉も亦た嚭を以て大夫と為す。前に王僚が遣す所の二公子・兵を将ゐて楚を伐ちし者、道絶えて帰るを得ず。後に闔廬の王僚を弑して自立せりと聞き、遂に其の兵を以て楚に降る。楚、之を舒に封ず。闔廬立ちて三年、乃ち師を興し、伍胥・伯嚭と楚を伐ち、舒を抜き、遂に故の呉の反せる二将軍を禽にす。因りて郢に至らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、且く之を待て」と。乃ち帰る。四年、呉、楚を伐ち、六と灊を取る。五年、越を伐ち、之を敗る。六年、楚の昭王、公子嚢瓦をして兵を将ゐて呉を伐たしむ。呉、伍員をして迎へ撃たしめ、大いに楚の軍を豫章に破り、楚の居巣を取る。