呂氏春秋 / 察微④
鄭公子歸生率師伐宋。宋華元率師應之大棘,羊斟御。明日將戰,華元殺羊饗士,羊斟不與焉。明日戰,恕謂華元曰:「昨日之事,子為制;今日之事,我為制。」遂驅入於鄭師。宋師敗績,華元虜。夫弩機差以米則不發。戰,大機也。饗士而忘其御也,將以此敗而為虜,豈不宜哉?故凡戰必悉熟偏備,知彼知己,然後可也。
新字:鄭公子帰生率師伐宋。宋華元率師応之大棘,羊斟御。明日将戦,華元殺羊饗士,羊斟不与焉。明日戦,恕謂華元曰:「昨日之事,子為制;今日之事,我為制。」遂駆入於鄭師。宋師敗績,華元虜。夫弩機差以米則不発。戦,大機也。饗士而忘其御也,将以此敗而為虜,豈不宜哉?故凡戦必悉熟偏備,知彼知己,然後可也。
書き下し
鄭の公子歸生、師を率いて宋を伐つ。宋の華元、師を率いて之に大棘に應ず。羊斟御たり。明日將に戰わんとして、華元羊を殺し士に饗す。羊斟、焉に與らず。明日戰う。恕りて華元に謂いて曰く、「昨日の事は、子制を為す。今日の事は、我制を為す。」遂に驅りて鄭の師に入る。宋の師敗績し、華元虜となる。夫れ弩機差うに米を以てすれば則ち發せず。戰いは大機なり。士を饗して其の御を忘れ、將此を以て敗れて虜と為れるは、豈に宜ならずや。故に凡そ戰いは必ず悉く熟し偏く備え、彼を知り己を知り、然る後可なり。
現代語訳
鄭の公子帰生が軍を率いて宋を攻めた。宋の華元が軍を率いて大棘で迎え撃ち、羊斟が華元の車の御者となった。決戦前日、華元は羊を殺して兵をねぎらったが、羊斟にはその肉が回らなかった。翌日の戦いで、羊斟は怒って華元に『昨日の羊の差配はあなたの勝手、今日の車の差配は私の勝手だ』と言い、そのまま車を駆って鄭軍の中へ突入した。宋軍は総崩れとなり、華元は捕虜になった。弩の引き金は、米粒ほどのずれでも発射できない。戦いはその引き金のような大きな要である。兵をねぎらいながら自分の御者を忘れ、それが原因で敗れ捕虜となったのは、当然の報いではないか。だから戦いは必ず万事に習熟して備えを行き渡らせ、敵を知り己を知って、初めてよいのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』宣公二年 羊斟の私憾二年春、鄭の公子歸生命を楚に受け、宋を伐つ。宋の華元・樂呂、之を御(ふせ)ぐ。二月、壬子、大棘に戰ふ。宋師敗績し、華元を囚へ、樂呂を獲、及び甲車四百六十乘、俘二百五十人、馘(かく)百人。狂狡鄭人を輅(むか)ふ。鄭人井に入る。戟を倒(さかしま)にして之を出だす。狂狡を獲らる。君子曰く、「禮を失ひ命に違ふ、宜なり其の禽(とりこ)と為るや。戎は果毅を昭らかにして以って之を聽く、之を禮と謂ふ。敵を殺すを果と為し、果を致すを毅と為す。之を易(か)ふるは戮せらるるなり」と。將に戰はんとするに、華元羊を殺して士に食はしむ。其の御羊斟與(あづか)らず。戰ふに及びて曰く、「疇昔(ちうせき)の羊は、子政を為す。今日の事は、我政を為す」と。與(とも)に鄭師に入る。故に敗る。君子謂ふ、羊斟は人に非ざるなり。其の私憾を以って、國を敗り民を殄(た)つ。是に於いて刑孰れか大ならん。詩に所謂「人の良無き」者は、其れ羊斟の謂か、民を殘ひて以って逞(こころよ)くす、と。宋人兵車百乘、文馬百駟を以って、以って華元を鄭に贖ふ。半ば入りて、華元逃げ歸る。門外に立ち、告げて入る。叔牂を見て曰く、「子の馬然るなり」と。對へて曰く、「馬に非ざるなり、其の人なり」と。既に合(こた)へて來奔す。宋城(きづ)く。華元植(ち)と為り、功を巡る。城く者謳ひて曰く、「其の目を睅(かん)にし、其の腹を皤(は)にし、甲を棄てて復る。于思于思(うしうし)、甲を棄てて復た來る」と。其の驂乘をして之に謂はしめて曰く、「牛には則ち皮有り、犀兕(さいじ)尚ほ多し、甲を棄つるも則ち那(なん)ぞ」と。役人曰く、「從(たと)ひ其れ皮有るも、丹漆を若何せん」と。華元曰く、「之を去れ。夫れ其の口は眾く我は寡し」と。秦師晉を伐つ、以って崇に報ゆるなり。遂に焦を圍む。
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説苑・貴德鄭宋を伐つ、宋人将に与に戦はんとす、華元羊を殺して士に食はしむ、其の御羊斟与らず、戦ふに及び、曰く、「疇昔の羊羹は、子之が政を為す、今日の事は、我之が政を為さん」と。華元と与に馳せて鄭師に入り、宋人敗績す。
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 先んずれば人の心を奪う冬、十月、華登吳の師を以って華氏を救ふ。齊の烏枝鳴宋を戍る。廚人濮曰く、「軍志に之れ有り、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り、人に後るれば其の衰へを待つ有り』と。盍ぞ其の勞して且つ未だ定まらざるに及びて、諸を伐たざる。若し入りて固くせば、則ち華氏衆からん。悔ゆとも及ぶ無からん」と。之に從ふ。丙寅、齊の師・宋の師、吳の師を鴻口に敗り、其の二帥、公子苦雂・偃州員を獲たり。華登、其の餘を帥ゐて以って宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人なり、死を藉(か)す可くして亡を送る能はず。君請ふ之を待て」と。乃ち徇へて曰く、「徽を楊ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に從ふ。公楊門より之を見、下りて之を巡りて曰く、「國亡び君死するは、二三子の恥なり。豈に專ら孤の罪ならんや」と。齊の烏枝鳴曰く、「少を用ゐるは齊しく死を致すに如くは莫く、齊しく死を致すは備へを去るに如くは莫し。彼は兵多し。
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呂氏春秋・察微③楚の邊邑を卑梁と曰う、其の處女と吳の邊邑の處女と、境上に桑し、戲れて卑梁の處女を傷つく。卑梁の人、其の傷子を操りて以て吳人を讓む。吳人之に應うること恭ならざれば、怒り殺して之を去る。吳人往きて之に報い、盡く其の家を屠る。卑梁の公怒りて曰く、「吳人焉くんぞ敢て吾が邑を攻むる。」兵を舉げて反って之を攻め、老弱盡く之を殺す。吳王夷昧之を聞きて怒りて、人をして兵を舉げ楚の邊邑を侵さしめ、克夷して後之を去る。吳・楚此を以て大いに隆う。吳の公子光又師を率いて、楚人と雞父に戰い、大いに楚人を敗り、其の帥潘子臣・小惟子・陳夏齧を獲、又反って郢を伐ち、荊の平王の夫人を得て以て歸る。實に雞父の戰い為り。凡そ國を持するや、太上は始めを知り、其の次は終りを知り、其の次は中を知る。三つの者能わざれば、國必ず危うく、身必ず窮す。孝經に曰く、「高にして危うからざるは、長く貴を守る所以なり。滿ちて溢れざるは、長く富を守る所以なり。富貴、其の身を離れず、然る後能く其の社稷を保ちて、其の民人を和す。」楚之を能くせざるなり。
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呂氏春秋・先己③夏后伯啓、有扈と甘澤に戰いて勝たず。六卿、之を復びせんことを請う。夏后伯啓曰く、「不可なり。吾が地は淺からず、吾が民は寡からず、戰いて勝たざるは、是れ吾が德の薄くして教の善からざればなり。」是に於いてか、處るに席を重ねず、食らうに味を貳せず、琴瑟張らず、鍾鼓修めず、子女飭らず、親を親しみ長を長び、賢を尊び能を使いしかば、期年にして有扈氏服す。故に人に勝たんと欲する者は、必ず先づ自ら勝ち、人を論ぜんと欲する者は必ず先づ自ら論じ、人を知らんと欲する者は必ず先づ自ら知る。
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史記 宋微子世家宋人共に君御を殺して成公の少子杵臼を立つ。是を昭公と為す。昭公の四年、宋長翟の縁斯を長丘に敗る。七年、楚の荘王即位す。九年、昭公無道にして、国人附かず。昭公の弟鮑革賢にして士に下る。先に、襄公の夫人公子鮑に通ぜんと欲するも、可かず。乃ち之を助けて国に施さしめ、大夫華元に因りて右師と為す。昭公出でて猟す。夫人王姫衛伯をして昭公杵臼を攻め殺さしむ。弟の鮑革立つ。是を文公と為す。文公の元年、晋諸侯を率ゐて宋を伐ち、責むるに君を弑するを以てす。文公の定まりて立つを聞き、乃ち去る。二年、昭公の子文公の母弟須と武・繆・戴・荘・桓の族とに因りて乱を為す。文公尽く之を誅し、武・繆の族を出す。四年春、楚鄭に命じて宋を伐たしむ。宋華元をして将たらしむ。鄭宋を敗り、華元を囚ふ。華元の将に戦はんとするや、羊を殺して以て士に食はしむ。其の御に羊羹及ばず。故に怨み、馳せて鄭の軍に入る。故に宋の師敗れ、華元を囚ふるを得たり。宋兵車百乗・文馬四百匹を以て華元を贖ふ。未だ尽くは入らざるに、華元亡げて宋に帰る。十四年、楚の荘王鄭を囲む。鄭伯楚に降る。楚復た之を釈す。十六年、楚の使ひ宋を過ぐ。宋前の仇有り、楚の使ひを執ふ。九月、楚の荘王宋を囲む。十七年、楚宋を囲むこと五月なるを以て解けず。宋の城中急にして、食無し。華元乃ち夜私かに楚の将子反に見ゆ。子反荘王に告ぐ。王問ふ、「城中何如」と。曰く、「骨を析きて炊ぎ、子を易へて食らふ」と。荘王曰く、「誠なるかな言。我が軍も亦た二日の糧有るのみ」と。信を以ての故に、遂に兵を罷めて去る。二十二年、文公卒し、子の共公瑕立つ。始めて厚葬す。君子華元の臣ならざるを譏る。共公の十年、華元楚の将子重に善く、又晋の将欒書に善く、両つながら晋・楚に盟ふ。十三年、共公卒す。華元右師と為り、魚石左師と為る。

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