呂氏春秋 / 首時②
伍子胥欲見吳王而不得。客有言之於王子光者,見之而惡其貌,不聽其說而辭之。客請之王子光,王子光曰:“其貌適吾所甚惡也。”客以聞伍子胥,伍子胥曰:“此易故也。願令王子居於堂上,重帷而見其衣若手,請因說之。”王子許。伍子胥說之半,王子光舉帷,搏其手而與之坐。說畢,王子光大說。伍子胥以為有吳國者必王子光也,退而耕於野七年。王子光代吳王僚為王,任子胥。子胥乃修法制,下賢良,選練士,習戰鬥;六年,然後大勝楚於柏舉,九戰九勝,追北千里,昭王出奔隨,遂有郢,親射王宮,鞭荊平之墳三百。鄉之耕,非忘其父之讎也,待時也。
新字:伍子胥欲見吳王而不得。客有言之於王子光者,見之而悪其貌,不聴其説而辞之。客請之王子光,王子光曰:“其貌適吾所甚悪也。”客以聞伍子胥,伍子胥曰:“此易故也。願令王子居於堂上,重帷而見其衣若手,請因説之。”王子許。伍子胥説之半,王子光舉帷,搏其手而与之坐。説畢,王子光大説。伍子胥以為有吳国者必王子光也,退而耕於野七年。王子光代吳王僚為王,任子胥。子胥乃修法制,下賢良,選練士,習戦鬥;六年,然後大勝楚於柏舉,九戦九勝,追北千里,昭王出奔随,遂有郢,親射王宮,鞭荊平之墳三百。鄉之耕,非忘其父之讎也,待時也。
書き下し
伍子胥、吳王に見えんと欲すれども得ず。客に之を王子光に言う者有り。之を見て、其の貌を惡み、其の説を聽かずして之を辭す。客之を王子光に請う。王子光曰く、「其の貌適々吾の甚だしく惡む所なり。」客以て伍子胥に聞す。伍子胥曰く、「此れ易き故なり。願わくは王子をして堂上に居らしめ、重帷よりして其の衣若しくは手を見て、因りて之に説かんことを請う。」王子許す。伍子胥之を説くこと半、王子光帷を舉げて、其の手を搏りて之と坐す。説き畢りて、王子光大いに説ぶ。伍子胥以為らく、呉國を有つ者は必ず王子光ならんと。退きて野に耕すこと七年。王子光、呉王僚に代わりて王と為るや、子胥に任ず。子胥乃ち法制を修め、賢良に下り、練士を選び、戰鬭を習わしむること六年。然る後大いに楚に柏舉に勝ち、九たび戰いて九たび勝ち、北ぐるを追うこと千里、昭王出でて隨に奔る。遂に郢を有ち、親ら王宮を射、荊の平の墳を鞭うつこと三百。嚮の耕せるは、其の父の讎を忘るるに非ざるなり。時を待てるなり。
現代語訳
伍子胥は呉王に会おうとしたが叶わなかった。ある食客が王子光に取り次いだが、王子光は伍子胥の容貌を嫌い、その説も聞かずに退けた。食客が重ねて頼むと、王子光は「その容貌こそ私がひどく嫌うものだ」と言った。食客がこれを伍子胥に伝えると、伍子胥は「それは簡単なことだ。王子には堂上にいてもらい、幾重もの帳越しに私の衣か手だけを見ながら説を聞いてほしい」と頼んだ。王子光が許すと、伍子胥が説き半ばで、王子光は帳を上げてその手を取り並んで座った。説き終えると王子光は大いに喜んだ。伍子胥は、呉国を保つのは必ず王子光だと考え、退いて七年間野に耕した。王子光が呉王僚に代わって王となると子胥を用いた。子胥は法制を整え、賢良を招き、精兵を選び、戦を六年鍛えた。その後、楚に柏挙で大勝し、九戦九勝、敗走を千里追い、昭王は随へ逃れた。ついに郢を占領し、自ら王宮を射て、楚の平王の墓を三百回鞭打った。かつて耕していたのは父の仇を忘れたのではなく、時を待っていたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 伍子胥列伝之を久しくして、楚の平王、其の辺邑鐘離と呉の辺邑卑梁氏と俱に蠶し、両女子桑を争ひて相ひ攻むるを以て、乃ち大いに怒り、両国兵を挙げて相ひ伐つに至る。呉、公子光をして楚を伐たしめ、其の鐘離・居巣を抜きて帰る。伍子胥、呉王僚に説きて曰く、「楚破る可きなり。願はくは復た公子光を遣せ」と。公子光、呉王に謂ひて曰く、「彼の伍胥の父兄は楚に戮せらる、而して王に楚を伐つを勧むるは、以て自ら其の讎に報いんと欲するのみ。楚を伐つも未だ破る可からざるなり」と。伍胥、公子光に内志有りて、王を殺して自立せんと欲し、未だ外事を以て説く可からざるを知り、乃ち専諸を公子光に進め、退きて太子建の子の勝と野に耕す。
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史記 伍子胥列伝五年にして楚の平王卒す。初め、平王が奪ふ所の太子建の秦女、子の軫を生む。平王卒するに及び、軫竟に立ちて後と為る、是を昭王と為す。呉王僚、楚の喪に因りて、二公子をして兵を将ゐて往きて楚を襲はしむ。楚兵を発して呉兵の後を絶ち、帰るを得ず。呉国内空し、而して公子光乃ち専諸をして呉王僚を襲刺せしめて自立す、是を呉王闔廬と為す。闔廬既に立ち、志を得たり。乃ち伍員を召して以て行人と為し、与に国事を謀る。
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史記 伍子胥列伝九年、呉王闔廬、子胥・孫武に謂ひて曰く、「始め子、郢は未だ入る可からずと言へり、今果たして何如」と。二子対へて曰く、「楚の将嚢瓦は貪にして、唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに之を伐たんと欲せば、必ず先づ唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之を聴き、悉く師を興し唐・蔡と楚を伐ち、楚と漢水を夾みて陳す。呉王の弟夫概、兵を将ゐて従はんことを請ふも、王聴かず、遂に其の属五千人を以て楚の将子常を撃つ。己卯、楚の昭王出奔す。庚辰、呉王郢に入る。子常敗走し、鄭に奔る。是に於いて呉、勝ちに乗じて前み、五戦して遂に郢に至る。
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史記 伍子胥列伝始め伍員、申包胥と交はりを為す。員の亡ぐるや、包胥に謂ひて曰く、「我必ず楚を覆さん」と。包胥曰く、「我必ず之を存せん」と。呉兵郢に入るに及び、伍子胥昭王を求む。既に得ず、乃ち楚の平王の墓を掘き、其の尸を出だし、之を鞭つこと三百、然る後已む。申包胥山中に亡げ、人をして子胥に謂はしめて曰く、「子の讎を報ずる、其れ以て甚だしきかな。吾之を聞く、人衆き者は天に勝つも、天定まりて亦た能く人を破る、と。今子は故と平王の臣なり、親しく北面して之に事ふるに、今死人を僇するに至る。此れ豈に其れ天道無きの極みか」と。伍子胥曰く、「我が為に申包胥に謝して曰へ、吾日莫れて途遠し、吾故に倒行して之を逆施せり、と」。是に於いて申包胥秦に走りて急を告げ、救ひを秦に求む。秦許さず。包胥秦の廷に立ちて、昼夜哭し、七日七夜其の声を絶たず。秦の哀公之を憐みて曰く、「楚無道なりと雖も、臣の是の若き有り、存する無かる可けんや」と。乃ち車五百乗を遣して楚を救ひ呉を撃たしむ。六月、呉兵を稷に敗る。会々呉王久しく楚に留まりて昭王を求め、而して闔廬の弟夫概乃ち亡げ帰り、自立して王と為る。闔廬之を聞き、乃ち楚を釈てて帰り、其の弟夫概を撃つ。夫概敗走し、遂に楚に奔る。楚の昭王呉に内乱有るを見、乃ち復た郢に入る。夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。楚復た呉と戦ひ、呉を敗り、呉王乃ち帰る。
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史記 伍子胥列伝伍子胥初め与に倶に亡げし所の故の楚の太子建の子の勝は、呉に在り。呉王夫差の時、楚の恵王勝を召して楚に帰さんと欲す。葉公諫めて曰く、「勝は勇を好みて陰かに死士を求む、殆ど私有らんか」と。恵王聴かず。遂に勝を召し、楚の辺邑鄢に居らしめ、号して白公と為す。白公楚に帰りて三年にして呉子胥を誅す。白公勝既に楚に帰り、鄭の其の父を殺せしを怨み、乃ち陰かに死士を養ひて鄭に報いんことを求む。楚に帰りて五年、鄭を伐たんことを請ふ。楚の令尹子西之を許す。兵未だ発せざるに晋鄭を伐ち、鄭救ひを楚に請ふ。楚子西をして往きて救はしめ、盟を与へて還る。白公勝怒りて曰く、「鄭の仇に非ず、乃ち子西なり」と。勝自ら剣を礪ぐ。人問ひて曰く、「何を以て為す」と。勝曰く、「以て子西を殺さんと欲す」と。子西之を聞き、笑ひて曰く、「勝は卵のごときのみ、何ぞ能く為さん」と。
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説苑・正諫呉、伍子胥・孫武の謀を以て、西のかた強楚を破り、北のかた斉晋を威し、南のかた越を伐つ。越王句践之を迎え撃ち、呉を姑蘇に敗り、闔廬の指を傷つく。軍卻き、闔廬太子夫差に謂いて曰わく、「爾句践の而の父を殺せしを忘れたるか」と。夫差対えて曰わく、「敢えて忘れじ」と。是の夕闔廬死す。夫差既に立ちて王と為り、伯嚭を以て太宰と為し、戦射を習い、三年にして越を伐ち、夫湫に敗る。越王句践乃ち兵五千人を以て会稽山上に棲み、大夫種をして厚幣もて呉の太宰嚭に遣わして以て和を請わしめ、国を委ねて臣妾と為さんとす。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰わく、「越王人と為り能く辛苦す。今王滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭の計を用いて越と平らぐ。其の後五年、呉王斉の景公死し、大臣寵を争うと聞き、新君弱しとして、乃ち師を興して北のかた斉を伐たんとす。子胥諫めて曰わく、「不可なり。句践食に味を重ねず、死を弔い疾を問い、且つ能く人を用う。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾なり、斉は猶お疥癬のみ。而るに王越を先にせずして、乃ち務めて斉を伐つは、亦た謬らずや」と。呉王聴かず、斉を伐ち、大いに斉師を艾陵に敗り、遂に鄒魯の君と会して以て帰り、益々子胥の言を疏んず。其の後四年、呉将に復た北のかた斉を伐たんとす。越王句践子胥の謀を用い、乃ち其の衆を率いて以て呉を助け、重宝を以て太宰嚭に献遺す。太宰嚭既に数々越の賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚だし。日夜呉王の為に言を為す。王嚭の計を信用す。伍子胥諫めて曰わく、「夫れ越は、腹心の疾なり。今其の游辞偽詐を信じて斉を貪る、譬えば猶お石田のごとし、用うる所無し。盤庚に曰わく、『古人に顛越して恭ならざる有り』と。是れ商の興る所以なり。願わくは王斉を釈てて越を先にせよ。然らずんば、将に之を悔ゆるも及ぶ無からん」と。呉王聴かず、子胥をして斉に使いせしむ。子胥其の子に謂いて曰わく、「吾王を諫むるも、王吾を用いず、吾今呉の滅ぶるを見んとす。女呉と俱に亡ぶるは為す無きなり」と。乃ち其の子を斉の鮑氏に属して帰りて呉王に報ず。太宰嚭既に子胥と隙有り、因りて讒して曰わく、「子胥の人と為り、剛暴少恩、其の怨望猜賊にして禍を為すなり。深く前日王斉を伐たんと欲するに、子胥以て不可と為すも、王卒に之を伐ちて大功有り、子胥計謀用いられずして、乃ち反りて怨望す。今王又復た斉を伐たんとするに、子胥専愎強諫し、用事を沮毀す。呉の敗るるを徼幸し、以て自ら其の計謀に勝たんとするのみ。今王自ら行き、国中の武力を悉くして以て斉を伐つに、子胥諫めて用いられず、因りて輟して佯病して行かず。王備えざるべからず。此れ禍を起こすこと難からず。且つ臣人をして微かに之を伺わしむるに、其の斉に使いするや、乃ち其の子を鮑氏に属せり。夫れ人臣内に意を得ずして、外諸侯に交わるは、自ら先王の謀臣を以て、今用いられずして、常に怏怏たり。願わくは王早く之を図れ」と。呉王曰わく、「子の言無くんば、吾も亦た之を疑わん」と。乃ち使いをして子胥に属鏤の剣を賜わしめて曰わく、「子此を以て死せよ」と。子胥曰わく、「嗟乎、讒臣宰嚭乱を為す、王顧りて反りて我を誅す。我若の父をして覇たらしめ、又若を立つるに時なり。諸子弟立を争いしとき、我死を以て先王に争い、幾ど立つを得ざりき。若既に立つに及び、呉国を分かちて我に与えんと欲せしも、我顧りて敢えて当らず。然るに若、何ぞ讒臣の長者を殺すを聴くに之けるや」と。乃ち舎人に告げて曰わく、「必ず吾が墓上に樹うるに梓を以てし、器と為すべからしめ、而して吾が眼を抉りて之を呉の東門に著け、以て越寇の呉を滅ぼすを観ん」と。乃ち自ら刺し殺す。呉王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の屍を取り、鴟夷革を以て盛り、之を江中に浮かぶ。呉人之を憐れみ、乃ち祠を江上に立て、因りて名づけて胥山と曰う。後十余年、越呉を襲い、呉王還りて与に戦うも勝たず、大夫をして越に行成せしむるも許されず。呉王将に死せんとして曰わく、「吾子胥の言を用いざるを以て此に至れり。死者知る無くんば則ち已みなん。死者知る有らば、吾何の面目を以て子胥に見えんや」と。遂に絮を蒙りて面を覆いて自ら刎ず。