史記 / 伍子胥列伝
五年而楚平王卒。初、平王所奪太子建秦女生子軫、及平王卒、軫竟立為後、是為昭王。吳王僚因楚喪、使二公子將兵往襲楚。楚發兵絕吳兵之後、不得歸。吳國內空、而公子光乃令專諸襲刺吳王僚而自立、是為吳王闔廬。闔廬既立、得志、乃召伍員以為行人、而與謀國事。
新字:五年而楚平王卒。初、平王所奪太子建秦女生子軫、及平王卒、軫竟立為後、是為昭王。呉王僚因楚喪、使二公子将兵往襲楚。楚発兵絶呉兵之後、不得帰。呉国内空、而公子光乃令専諸襲刺呉王僚而自立、是為呉王闔廬。闔廬既立、得志、乃召伍員以為行人、而与謀国事。
書き下し
五年にして楚の平王卒す。初め、平王が奪ふ所の太子建の秦女、子の軫を生む。平王卒するに及び、軫竟に立ちて後と為る、是を昭王と為す。呉王僚、楚の喪に因りて、二公子をして兵を将ゐて往きて楚を襲はしむ。楚兵を発して呉兵の後を絶ち、帰るを得ず。呉国内空し、而して公子光乃ち専諸をして呉王僚を襲刺せしめて自立す、是を呉王闔廬と為す。闔廬既に立ち、志を得たり。乃ち伍員を召して以て行人と為し、与に国事を謀る。
現代語訳
五年後、楚の平王が死んだ。もともと平王が太子建から奪った秦の女は、軫という子を生んでいた。平王が死ぬと、軫がそのまま跡を継いだ。これが昭王である。呉王僚は楚の喪に乗じて、二人の公子に兵を率いさせ、楚を襲わせた。ところが楚は兵を出して呉軍の退路を断ち、呉軍は帰れなくなった。呉の国内は手薄になった。そこで公子光は専諸に呉王僚を襲わせて刺殺し、自ら位に就いた。これが呉王闔廬である。闔廬は位に就き、かねての望みを遂げた。そこで伍員を召して行人(外交官)とし、ともに国政を謀った。
解説
長い雌伏の後に、仕込んだ布石が一気に開花する転機の一段です。呉王僚が楚の喪に乗じて出兵し、その軍が退路を断たれて国内が手薄になった——この好機に、公子光は伍子胥が引き合わせた刺客・専諸を使って王僚を暗殺し、自ら即位して闔廬となります。そして念願を果たした闔廬は、すぐに伍子胥を側近(行人)として登用し、国政を共に謀る。伍子胥が畑を耕しながら待った歳月が、ここで結実します。教訓は、雌伏の時期に打っておいた布石(キーパーソンとの関係構築、専諸という手駒の準備)が、好機の到来とともに一気に価値を生むということ。チャンスは突然訪れますが、それを掴めるのは、平時から準備し、キーパーソンと関係を築いてきた者だけです。伍子胥は、権力を得た闔廬に真っ先に必要とされる存在になっていた。長期の目的(楚への復讐)に向けて、まず「復讐を実行できる力を持つ人物(闔廬)を、権力の座に就ける」という遠回りの戦略が、着実に前進した瞬間です。
この章句が説くこと
好機布石の結実雌伏の成果キーパーソン準備登用
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