了凡四訓 / 積善之方・志天下國家に在れば、善少なしと雖も大なり
何謂大小?昔衛仲達為館職,被攝至冥司,主者命吏呈善惡二錄,比至,則惡錄盈庭,其善錄一軸,僅如筯而已。索秤稱之,則盈庭者反輕,而如箸者反重。仲達曰:某年未四十,安得過惡如是多乎?曰:一念不正即是,不待犯也。因問軸中所書何事?曰:朝廷嘗興大工,修三山石橋,君上疏諫之,此疏稿也。仲達曰:某雖言,朝廷不從,於事無補,而能有如是之力。曰:朝廷雖不從,君之一念,已在萬民;向使聽從,善力更大矣。故志在天下國家,則善雖少而大;苟在一身,雖多亦小。
新字:何謂大小?昔衛仲達為館職,被摂至冥司,主者命吏呈善悪二録,比至,則悪録盈庭,其善録一軸,僅如筯而已。索秤称之,則盈庭者反軽,而如箸者反重。仲達曰:某年未四十,安得過悪如是多乎?曰:一念不正即是,不待犯也。因問軸中所書何事?曰:朝廷嘗興大工,修三山石橋,君上疏諫之,此疏稿也。仲達曰:某雖言,朝廷不従,於事無補,而能有如是之力。曰:朝廷雖不従,君之一念,已在万民;向使聴従,善力更大矣。故志在天下国家,則善雖少而大;苟在一身,雖多亦小。
書き下し
何をか大小と謂ふ。昔衛仲達、館職と為り、攝せられて冥司に至る。主者吏に命じて善惡の二錄を呈せしむ。至るに比びて、則ち惡錄は庭に盈ち、其の善錄は一軸、僅かに筯の如きのみ。秤を索めて之を稱るに、則ち庭に盈つる者反つて輕く、箸の如き者反つて重し。仲達曰く、某年未だ四十ならず、安んぞ過惡是くの如く多きを得んや、と。曰く、一念正しからざれば即ち是れなり、犯すを待たざるなり、と。因りて軸中に書する所は何事ぞと問ふ。曰く、朝廷嘗て大工を興し、三山の石橋を修めんとす。君上疏して之を諫む。此れ疏稿なり、と。仲達曰く、某言ふと雖も、朝廷從はず、事に於て補ひ無し。而るに能く是くの如きの力有るか、と。曰く、朝廷從はずと雖も、君の一念、已に萬民に在り。向使し聽從せば、善力更に大ならん、と。故に志天下國家に在れば、則ち善少なしと雖も大なり。苟くも一身に在れば、多しと雖も亦た小なり。
現代語訳
大と小とは何でしょうか。昔、衛仲達が館職(翰林の官)にあったとき、捕らえられて冥府の役所に連れて行かれました。長官が役人に命じて善と悪の二つの記録を出させました。届いてみると、悪の記録は庭いっぱいにあふれ、善の記録は巻物一巻で、箸ほどの太さしかありませんでした。秤を持ってこさせて量ると、庭いっぱいのほうがかえって軽く、箸ほどのほうがかえって重かったのです。仲達が「私はまだ四十にもならないのに、どうしてこれほど過ちや悪が多いのでしょう」と言うと、長官は「一念でも正しくなければそれで悪だ。実際に犯すのを待つまでもない」と答えました。そこで巻物に何が書いてあるのかを尋ねると、「朝廷がかつて大工事を起こし、三山の石橋を築こうとしたとき、あなたは上奏して諫めた。これはその上奏文の下書きだ」と言いました。仲達が「私は申し上げはしましたが、朝廷は聞き入れず、事の役には立ちませんでした。それでもこれほどの力があるのですか」と言うと、長官は「朝廷は聞き入れなかったが、あなたの一念はすでに万民の上にあった。もし聞き入れられていれば、善の力はもっと大きかっただろう」と答えました。だから志が天下国家にあれば、善は少なくても大きく、一身のことにとどまれば、多くても小さいのです。
解説
この章句が説くこと
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