了凡四訓 / 積善之方・人に益有るは善、己に益有るは惡
因請問。中峰告之曰:有益於人,是善;有益於己,是惡。有益於人,則毆人,詈人皆善也;有益於己,則敬人、禮人皆惡也。是故人之行善,利人者公,公則為真;利己者私,私則為假。又根心者真,襲跡者假;又無為而為者真,有為而為者假;皆當自考。 何謂端曲?今人見謹愿之士,類稱為善而取之;聖人則寧取狂狷。至於謹愿之士,雖一鄉皆好,而必以為德之賊;是世人之善惡,分明與聖人相反。推此一端,種種取舍,無有不謬;天地鬼神之福善禍淫,皆與聖人同是非,而不與世俗同取舍。凡欲積善,決不可徇耳目,惟從心源隱微處,默默洗滌,純是濟世之心,則為端;苟有一毫媚世之心,即為曲;純是愛人之心,則為端;有一毫憤世之心,即為曲;純是敬人之心,則為端;有一毫玩世之心,即為曲;皆當細辨。
新字:因請問。中峰告之曰:有益於人,是善;有益於己,是悪。有益於人,則殴人,詈人皆善也;有益於己,則敬人、礼人皆悪也。是故人之行善,利人者公,公則為真;利己者私,私則為仮。又根心者真,襲跡者仮;又無為而為者真,有為而為者仮;皆当自考。 何謂端曲?今人見謹愿之士,類称為善而取之;聖人則寧取狂狷。至於謹愿之士,雖一郷皆好,而必以為徳之賊;是世人之善悪,分明与聖人相反。推此一端,種種取舎,無有不謬;天地鬼神之福善禍淫,皆与聖人同是非,而不与世俗同取舎。凡欲積善,決不可徇耳目,惟従心源隠微処,黙黙洗滌,純是済世之心,則為端;苟有一毫媚世之心,即為曲;純是愛人之心,則為端;有一毫憤世之心,即為曲;純是敬人之心,則為端;有一毫玩世之心,即為曲;皆当細弁。
書き下し
因りて請ひ問ふ。中峰之に告げて曰く、人に益有るは、是れ善なり。己に益有るは、是れ惡なり。人に益有らば、則ち人を毆ち、人を詈るも皆な善なり。己に益有らば、則ち人を敬ひ、人を禮するも皆な惡なり。是の故に人の善を行ふや、人を利する者は公なり、公なれば則ち真と為す。己を利する者は私なり、私なれば則ち假と為す。又た心に根ざす者は真、跡を襲ふ者は假なり。又た為す無くして為す者は真、為す有りて為す者は假なり。皆な當に自ら考ふべし。 何をか端曲と謂ふ。今人謹愿の士を見れば、類ね稱して善と為して之を取る。聖人は則ち寧ろ狂狷を取る。謹愿の士に至りては、一鄉皆な好むと雖も、必ず以て德の賊と為す。是れ世人の善惡、分明に聖人と相反す。此の一端を推せば、種種の取舍、謬らざる有る無し。天地鬼神の善に福し淫に禍するは、皆な聖人と是非を同じうして、世俗と取舍を同じうせず。凡そ善を積まんと欲せば、決して耳目に徇ふべからず。惟だ心源の隱微なる處より、默默として洗滌し、純ら是れ世を濟ふの心なれば、則ち端と為す。苟くも一毫も世に媚ぶるの心有らば、即ち曲と為す。純ら是れ人を愛するの心なれば、則ち端と為す。一毫も世を憤るの心有らば、即ち曲と為す。純ら是れ人を敬ふの心なれば、則ち端と為す。一毫も世を玩ぶの心有らば、即ち曲と為す。皆な當に細かに辨ずべし。
現代語訳
そこで人々が教えを請うと、中峰は告げました。「人のためになるのが善、自分のためになるのが悪である。人のためになるのなら、人を殴ることも、人をののしることも、みな善である。自分のためになるのなら、人を敬うことも、人に礼を尽くすことも、みな悪である。だから人が善を行うとき、人を利するのは公であり、公であれば真である。自分を利するのは私であり、私であれば偽である。また、心に根ざしたものは真であり、形だけなぞったものは偽である。さらに、求めるところなく行うのは真であり、求めるところがあって行うのは偽である。どれも自分で点検しなければならない」。 まっすぐ(端)と曲がり(曲)とは何でしょうか。今の人は、慎み深くまじめな人を見ると、たいてい善人と称して評価します。しかし聖人(孔子)は、むしろ志が大きすぎる狂者や、節を曲げない狷者を取りました。慎み深くまじめなだけの人については、村じゅうが好いていても、必ず「徳の賊」だとしました。これは世の人の善悪が、聖人とはっきり逆であるということです。この一点から推していけば、さまざまな取捨選択で、誤っていないものはありません。天地の鬼神が善に福を与え、悪に禍を下すのは、みな聖人と是非を同じくし、世俗と取捨を同じくしません。およそ善を積もうとするなら、決して耳目に従ってはなりません。ただ心の奥深くかすかな所から、黙々と洗い清め、ひたすら世を救う心であれば、それが端です。わずかでも世に媚びる心があれば、それは曲です。ひたすら人を愛する心であれば端です。わずかでも世を憤る心があれば曲です。ひたすら人を敬う心であれば端です。わずかでも世を軽んじてもてあそぶ心があれば曲です。どれも細かく見分けなければなりません。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』非命下是の故に子墨子曰く、今、天下の君子の文章を為り言談を出だすは、将に其の頰舌を勤勞し、其の唇呡を利せんとするに非ざるなり。中に實に将に其の國家邑里萬民の刑政を為さんと欲する者なり。今や王公大人の早く朝し晏く退き、獄を聴き政を治め、終朝、均しく分かちて敢えて怠倦せざる所以の者は、何ぞや。曰く、彼れ以為えらく强ければ必ず治まり、强からざれば必ず亂れ、强ければ必ず寕く、强からざれば必ず危うしと。故に敢えて怠倦せず。
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司馬法・嚴位凡そ人は、愛に死し、怒りに死し、威に死し、義に死し、利に死す。
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