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了凡四訓 / 改過之法・謗毀の來るは皆な磨煉玉成の地なり

又思:「血氣之屬,皆含靈知;既有靈知,皆我一體。縱不能躬修至德,使之尊我、親我,豈可日戕物命,使之仇我、憾我於無窮也?」一思及此,將有對食傷心,不能下咽者矣。 如前日好怒,必思曰:「人有不及,情所宜矜;悖理相干,於我何與?本無可怒者。」 又思:「天下無自是之豪傑,亦無尤人之學問。行有不得,皆己之德未修、感未至也。吾悉以自反,則謗毀之來,皆磨煉玉成之地;我將歡然受賜,何怒之有?」

新字:又思:「血気之属,皆含霊知;既有霊知,皆我一体。縦不能躬修至徳,使之尊我、親我,豈可日戕物命,使之仇我、憾我於無窮也?」一思及此,将有対食傷心,不能下咽者矣。 如前日好怒,必思曰:「人有不及,情所宜矜;悖理相干,於我何与?本無可怒者。」 又思:「天下無自是之豪傑,亦無尤人之学問。行有不得,皆己之徳未修、感未至也。吾悉以自反,則謗毀之来,皆磨煉玉成之地;我将歓然受賜,何怒之有?」

書き下し

又た思ふ「血氣の屬は、皆な靈知を含む。既に靈知有れば、皆な我と一體なり。縱ひ躬ら至德を修めて、之をして我を尊び、我に親しましむる能はずとも、豈に日に物命を戕ひて、之をして我を仇とし、我を憾むこと無窮ならしむべけんや」と。一たび思ひて此に及べば、將に食に對して心を傷ましめ、咽に下す能はざる者有らんとす。 前日怒りを好むが如きは、必ず思ひて曰く「人の及ばざる有るは、情の宜しく矜むべき所なり。理に悖りて相干すも、我に於いて何ぞ與らん。本と怒るべき者無し」と。 又た思ふ「天下に自ら是とするの豪傑無く、亦た人を尤むるの學問無し。行ひて得ざる有るは、皆な己の德の未だ修まらず、感の未だ至らざるなり。吾悉く以て自ら反みれば、則ち謗毀の來るは、皆な磨煉玉成の地なり。我將に歡然として賜を受けんとす。何の怒りか之れ有らん」と。

現代語訳

さらにこう考えます。「血と気をもつ生き物は、みな霊妙な知覚をもっている。知覚をもつ以上、みな私と一体である。たとえ自ら最高の徳を修めて、生き物に私を尊ばせ、私に親しませることはできなくても、どうして日々その命を損なって、限りなく私を仇とし恨ませてよいだろうか」。ひとたびここまで考えが及べば、食べ物を前にして心が痛み、のどを通らなくなるでしょう。以前怒りっぽかったのなら、必ずこう考えます。「人に至らないところがあるのは、本来同情すべきことだ。相手が道理に背いて私に突っかかってきても、それが私にとって何の関わりがあろうか。もともと怒るべきことなどないのだ」。さらにこう考えます。「世の中に自分を正しいとばかり思う豪傑はいないし、人を責めるような学問もない。行ってうまくいかないことがあれば、すべて自分の徳がまだ修まらず、真心がまだ相手に届いていないからだ。私がすべて自分に立ち返って省みるなら、そしりが来るのは、みな自分を磨いて玉に仕上げてくれる場なのだ。私は喜んでその賜りものを受けよう。何を怒ることがあろうか」。

解説

道理によって改める方法を、殺生の続きと怒りについて示す段です。怒りについて了凡は二つの考え方を勧めます。一つは、人に至らないところがあるのは同情すべきことで、道理に外れた相手の振る舞いは本来自分とは関係がない、という見方です。もう一つは、うまくいかないのは自分の徳と真心が足りないからだと省みれば、そしりはすべて自分を磨く砥石になる、という見方です。『孟子』の「行ひて得ざる者有れば、皆な反りて諸を己に求む」と同じ筋の考えです。ただし、理不尽な扱いを黙って受け入れよという意味ではありません。怒りに飲み込まれずに事実を見て、自分の側で改められる点を拾い上げる。その落ち着きが、次の一手を正しくします。

この章句が説くこと

改過怒り自反寛容修養

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