了凡四訓 / 立命之學・禍福は自己より之を求む
師曰:「善心真切,即一行可當萬善,況合縣減糧、萬民受福乎?」吾即捐俸銀,請其就五臺山齋僧一萬而回向之。 孔公算予五十三歲有厄,余未嘗祈壽,是歲竟無恙,今六十九矣。書曰:「天難諶,命靡常。」又云:「惟命不於常。」皆非誑語。吾於是而知,凡稱禍福自己求之者,乃聖賢之言。若謂禍福惟天所命,則世俗之論矣。
新字:師曰:「善心真切,即一行可当万善,況合県減糧、万民受福乎?」吾即捐俸銀,請其就五台山斎僧一万而回向之。 孔公算予五十三歳有厄,余未嘗祈寿,是歳竟無恙,今六十九矣。書曰:「天難諶,命靡常。」又云:「惟命不於常。」皆非誑語。吾於是而知,凡称禍福自己求之者,乃聖賢之言。若謂禍福惟天所命,則世俗之論矣。
書き下し
師曰く「善心真切なれば、即ち一行も萬善に當るべし。況んや合縣の減糧、萬民の福を受くるをや」と。吾、即ち俸銀を捐て、其れに請ひて五臺山に就きて僧一萬を齋して之を回向せしむ。 孔公、予を算して五十三歲に厄有りとす。余、未だ嘗て壽を祈らず。是の歲竟に恙無く、今六十九なり。書に曰く「天は諶とし難く、命は常靡し」と。又た云ふ「惟れ命は常に於いてせず」と。皆な誑語に非ず。吾、是に於いて知る、凡そ禍福は自己より之を求むと稱する者は、乃ち聖賢の言なり。若し禍福は惟だ天の命ずる所と謂はば、則ち世俗の論なり。
現代語訳
禅師は言いました。「善い心が真実で切実であれば、一つの行いでも一万の善に当たりうる。まして県じゅうの年貢を減らし、万民が福を受けたのならなおさらだ」。私はすぐに俸給の銀を寄付し、禅師に頼んで五台山で一万人の僧に食事を供養し、その功徳を回向してもらいました。孔先生は私が五十三歳で災厄に遭うと占っていましたが、私は長寿を祈ったことはありません。ところがその年、結局何事もなく、今は六十九歳になりました。『書経』に「天は頼みにしがたく、天命は常ならず」とあり、また「天命は一定しない」とあります。どれも偽りの言葉ではありません。私はこれによって知りました。およそ禍福は自分で求めるものだと言うのは、聖賢の言葉です。禍福はただ天が命じるものだと言うのは、世俗の議論にすぎません。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『十善法語』巻第十・不邪見戒之上古人モ死生命アリ。富貴天ニ在ト云フ。風ノ吹テ来ル如トハ云ハヌ。伯牛カ手ヲ執テ。斯人ニシテ此病アル。命ナルカナト云。風ニ吹カルル如クトハナイ。此等ヲ以テ看ヨ。人間一生ノ貴賤貧富。患難逸楽。時ノ拍子トバカリハ云ハヌ。命ヲ受ル所有ルヘキシヤ。此者カ又神滅論ト云書ヲ著シテ云。形ハコレ神ノ質。神ト云者ハ形ノ用。利ノ刀ニ在ル如ク。刀没シテ利ノ留ルコト無ニ由テ。形滅シテ神ノ残ル理ナシト。此モ一往ハサモアルベキナレトモ。再三思惟セハ。ソノ大ニ相違セルコトヲ知ルヘシ。
-
『肝要工夫録』・善悪が禍福を呼ぶ人たる者、一寸の善事を行へば、一寸の福を命じ、一寸の惡事を行へば、一寸の禍を命ず。是れ人々の行ふ處に依つて、天より禍福を命じ給ふ筈にて、譬へば童の手習するが如し、能く出來ると惡く出來るとは、習ふ者の出精不精にあることにて、天命は手習師匠の點をかけたり、直したりするが如し。世人富貴を願はざるものはなし。然れども、之を願ふのみにて、人たるの道を行はず、恣にするは、孟子の所謂木によつて魚を求めむことを欲し、又素を喰ふて病を愈さむとするが如し、何ぞ天より是に福を與へむや。こゝを以て、天命を知ること肝要なるべし。
-
尚書・大禹謨告ぐる無きを虐げず、困窮を廃せざるは、惟れ帝のみ時(これ)克(よ)くす」と。益曰く、「都(ああ)、帝の徳は広く運(めぐ)り、乃ち聖に乃ち神に、乃ち武に乃ち文なり。皇天眷命(けんめい)し、奄(あまね)く四海を有(たも)ちて天下の君と為る」と。禹曰く、「迪(みち)に恵(したが)へば吉、逆に従へば凶、惟れ影響のごとし」と。益曰く、「吁(ああ)、戒めんかな。
-
『十善法語』巻第五・不綺語戒此財利ト云モノハ。天命ノアル処。宝蔵神ノ守護スル処。妄リニ得ベカラスジヤ。本ヲ推シテ云ハハ。法性等流。十善ノ余慶シヤ。土地ノ利ヲ度ルニ。地ノ理ニ順セハ其利堅固ナルベシ。天ノ時ヲ量ルハ。天命ニ順セハ其利広大ナルヘシ。天ニ違ヒ理ニ違ヒ。他ヲ損シテ己ヲ利スルハ。実ニ灾害ノ伏スル処シヤ。例ヲ挙テ言ハハ。卓王孫カ居ヲ臨印ニ定ル。呂不韋カ秦公子子楚ヲ見テ奇貨オクヘシト云。此二途鑑ムヘキシヤ。
-
『呻吟語』内篇・存心・是れ人室の禍と為る、室の能く人を禍するに非ず京師に宅を僦るに、多く吉數を擇ぶ。喪有る者は、人多く之を棄てて曰く、「能く人を禍す」と。予曰く、「是れ人室の禍と為るなり、室の能く人を禍するに非ざるなり。人の死生は、有生の初めに受く、豈に室の能く移す所ならんや。室不幸にして當に死すべき人に遭ひ、遂に人の棄つる所と為るのみ。惟だ君子のみ能く自ら信じて死生を天に付すれば、則ち往事の感ずる所と為らず」と。
-
二宮翁夜話・巻之五或(あるひと)問ひて曰(いわ)く、因果(いんが)と天命との差別如何(いかん)、翁(おきな)曰く、因果の道理の尤(もっと)も見易(みやす)きは、蒔種(まくたね)の生(お)ふるなり、故に予(よ)人に諭(さと)すに「米蒔けば米の草はへ米の花咲つゝ米の実(み)のる世の中」の歌を以てす、仏は、種に因(よ)りて生ずる方より見て、因果と云へり、然(しか)りといへども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔くといへども、天気を受けざれば育せず、されば種ありといへ共(ども)、天地の令命(れいめい)に依らざれば生育せず、花咲き実のらざる也、儒(じゅ)は、此方(このほう)より見て天命と云へるなり、夫(それ)天命とは、天の下知(げち)と云ふが如し、悪人の刑を免(まぬか)れたるを見て、仏は因縁未(いま)だ熟せずと云ひ、儒は天命未だ降(くだ)らずと云ふ、皆米を蒔きて未だ実らざるを云ふなり、此悪人捕縛(ほばく)に就(つ)くを見て、仏は因縁熟せりと云ひ、儒は天命到れりと云ふ、而(しか)して之を捕縛する者は上意(じょうい)と云へり、此上意則(すなわ)ち天命と云ふに同じ、夫借りたる物を約定(やくじょう)の通り返すは、世上の通則なり、されば規則の通りふむべきは定理なるを、履(ふ)まざる時は、貸方(かしかた)之を請求して、上命を以て此規則を履ましむ、爰(ここ)に至りて身代限(しんだいかぎ)りとなる、仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云ひ、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云ふなり、共に言語上に聊(いささ)かの違ひあるのみ、其理に於ては違ひなし、又問ふ、因縁とは如何、翁曰く、因は譬(たと)へば蒔きたる種也、之を耕耘培養(こううんばいよう)するは縁なり、種を蒔きたる因と、培養したる縁とに依りて、秋の実のりを得る、之を果と云ふなり。