十善法語 / 巻第十・不邪見戒之上
古人モ死生命アリ。富貴天ニ在ト云フ。風ノ吹テ來ル如トハ云ハヌ。伯牛カ手ヲ執テ。斯人ニシテ此病アル。命ナルカナト云。風ニ吹カルル如クトハナイ。此等ヲ以テ看ヨ。人間一生ノ貴賤貧富。患難逸樂。時ノ拍子トバカリハ云ハヌ。命ヲ受ル所有ルヘキシヤ。此者カ又神滅論ト云書ヲ著シテ云。形ハコレ神ノ質。神ト云者ハ形ノ用。利ノ刀ニ在ル如ク。刀沒シテ利ノ留ルコト無ニ由テ。形滅シテ神ノ殘ル理ナシト。此モ一往ハサモアルベキナレトモ。再三思惟セハ。ソノ大ニ相違セルコトヲ知ルヘシ。
新字:古人モ死生命アリ。富貴天ニ在ト云フ。風ノ吹テ来ル如トハ云ハヌ。伯牛カ手ヲ執テ。斯人ニシテ此病アル。命ナルカナト云。風ニ吹カルル如クトハナイ。此等ヲ以テ看ヨ。人間一生ノ貴賤貧富。患難逸楽。時ノ拍子トバカリハ云ハヌ。命ヲ受ル所有ルヘキシヤ。此者カ又神滅論ト云書ヲ著シテ云。形ハコレ神ノ質。神ト云者ハ形ノ用。利ノ刀ニ在ル如ク。刀没シテ利ノ留ルコト無ニ由テ。形滅シテ神ノ残ル理ナシト。此モ一往ハサモアルベキナレトモ。再三思惟セハ。ソノ大ニ相違セルコトヲ知ルヘシ。
書き下し
古人モ死生命アリ。富貴天ニ在ト云フ。風ノ吹テ来ル如トハ云ハヌ。伯牛カ手ヲ執テ。斯人ニシテ此病アル。命ナルカナト云。風ニ吹カルル如クトハナイ。此等ヲ以テ看ヨ。人間一生ノ貴賤貧富。患難逸楽。時ノ拍子トバカリハ云ハヌ。命ヲ受ル所有ルヘキシヤ。此者カ又神滅論ト云書ヲ著シテ云。形ハコレ神ノ質。神ト云者ハ形ノ用。利ノ刀ニ在ル如ク。刀没シテ利ノ留ルコト無ニ由テ。形滅シテ神ノ残ル理ナシト。此モ一往ハサモアルベキナレトモ。再三思惟セハ。ソノ大ニ相違セルコトヲ知ルヘシ。
現代語訳
古人も「死生は命であり、富貴は天にある」と言う。風が吹いて来るようなものだとは言わない。伯牛の手を取って「この人にしてこの病があるとは。天命であるなあ」と言った。風に吹かれるようなものだとは言っていない。これらによって見なさい。人の一生の貴賤・貧富・患難・安楽は、時の拍子だとばかりは言わない。天命を受けるところがあるはずなのである。この者(范縝)はまた神滅論という書を著して言う。「形は神(精神)の質であり、神というものは形の働きである。鋭さが刀にあるようなもので、刀がなくなって鋭さだけが留まることはないのだから、形が滅びて神が残る道理はない」と。これも一応はそうもあろうかと思えるが、再三考えれば、それが大いに間違っていることがわかるはずである。
解説
この章句が説くこと
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