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二宮翁夜話 / 巻之五

或問曰、因果と天命との差別如何、翁曰、因果の道理の尤見易きは、蒔種の生ふるなり、故に予人に諭すに「米蒔けば米の草はへ米の花咲つゝ米の実のる世の中」の歌を以てす、仏は、種に因て生ずる方より見て、因果と云り、然りといへども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔といへども、天気を受ざれば育せず、されば種ありといへ共、天地の令命に依らざれば生育せず、花咲き実のらざる也、儒は、此方より見て天命と云るなり、夫天命とは、天の下知と云が如し、悪人の刑を免れたるを見て、仏は因縁未熟せずと云ひ、儒は天命未降らずと云、皆米を蒔て未実らざるを云なり、此悪人捕縛に就くを見て、仏は因縁熟せりと云ひ、儒は天命到れりと云、而して之を捕縛する者は上意と云り、此上意則天命と云に同じ、夫借りたる物を約定の通り返すは、世上の通則なり、されば規則の通りふむべきは定理なるを、履まざる時は、貸方之を請求して、上命を以て此規則を履ましむ、爰に至て身代限りとなる、仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云ひ、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云なり、共に言語上に聊の違ひあるのみ、其理に於ては違ひなし、又問、因縁とは如何、翁曰、因は譬ば蒔たる種也、之を耕耘培養するは縁なり、種を蒔たる因と、培養したる縁とに依て、秋の実のりを得る、之を果と云なり。

書き下し

或(あるひと)問ひて曰(いわ)く、因果(いんが)と天命との差別如何(いかん)、翁(おきな)曰く、因果の道理の尤(もっと)も見易(みやす)きは、蒔種(まくたね)の生(お)ふるなり、故に予(よ)人に諭(さと)すに「米蒔けば米の草はへ米の花咲つゝ米の実(み)のる世の中」の歌を以てす、仏は、種に因(よ)りて生ずる方より見て、因果と云へり、然(しか)りといへども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔くといへども、天気を受けざれば育せず、されば種ありといへ共(ども)、天地の令命(れいめい)に依らざれば生育せず、花咲き実のらざる也、儒(じゅ)は、此方(このほう)より見て天命と云へるなり、夫(それ)天命とは、天の下知(げち)と云ふが如し、悪人の刑を免(まぬか)れたるを見て、仏は因縁未(いま)だ熟せずと云ひ、儒は天命未だ降(くだ)らずと云ふ、皆米を蒔きて未だ実らざるを云ふなり、此悪人捕縛(ほばく)に就(つ)くを見て、仏は因縁熟せりと云ひ、儒は天命到れりと云ふ、而(しか)して之を捕縛する者は上意(じょうい)と云へり、此上意則(すなわ)ち天命と云ふに同じ、夫借りたる物を約定(やくじょう)の通り返すは、世上の通則なり、されば規則の通りふむべきは定理なるを、履(ふ)まざる時は、貸方(かしかた)之を請求して、上命を以て此規則を履ましむ、爰(ここ)に至りて身代限(しんだいかぎ)りとなる、仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云ひ、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云ふなり、共に言語上に聊(いささ)かの違ひあるのみ、其理に於ては違ひなし、又問ふ、因縁とは如何、翁曰く、因は譬(たと)へば蒔きたる種也、之を耕耘培養(こううんばいよう)するは縁なり、種を蒔きたる因と、培養したる縁とに依りて、秋の実のりを得る、之を果と云ふなり。

現代語訳

ある人が尋ねた。因果と天命の違いはどうなのか。翁が言われた。因果の道理で最も分かりやすいのは、蒔いた種が生えることだ。だから私は人を諭すのに「米を蒔けば米の草が生え、米の花が咲いて米の実がなるのがこの世の中だ」という歌を使う。仏教は、種によって生じる側から見て因果と言う。しかし、これを地に蒔かなければ生えず、蒔いても天候を受けなければ育たない。だから種があっても、天地の命令によらなければ生育せず、花も咲かず実もならない。儒教はこちらの側から見て天命と言う。そもそも天命とは天のお下知のようなものだ。悪人が刑を免れているのを見て、仏教は「因縁がまだ熟していない」と言い、儒教は「天命がまだ下っていない」と言う。どちらも米を蒔いてまだ実らないことを言うのだ。この悪人が捕縛されるのを見て、仏教は「因縁が熟した」と言い、儒教は「天命が到った」と言う。そしてこれを捕縛する者は上のご命令によると言う。この上意はつまり天命と言うのと同じだ。そもそも借りた物を約束どおり返すのは世間の通則である。だから規則どおり従うべきなのに、従わないときは貸主がこれを請求し、上の命令でこの規則を守らせる。ここに至って破産となる。仏教はこれを見て、借りた因によって破産となるのは果だと言い、儒教は借りて返さないから破産の上命が下ったと言う。どちらも言葉の上でわずかな違いがあるだけで、その道理においては違いがない。また尋ねた。因縁とは何か。翁が言われた。因はたとえば蒔いた種である。これを耕し培い養うのが縁だ。種を蒔いた因と、培い養った縁とによって秋の実りを得る。これを果と言うのだ。

解説

仏教の「因果」と儒教の「天命」という一見異なる概念を、尊徳が農作業のたとえで一つに結びつける一条です。種を蒔く(因)だけでは実らず、天地の恵み(縁)を受けてはじめて実る(果)――「米蒔けば米の草はへ」の歌のように、報徳思想は自然の摂理そのものを教科書とします。悪人が罰せられるのを仏は「因縁熟せり」、儒は「天命到れり」と言うが、道理は一つだと説き、言葉の違いにとらわれない姿勢を示します。借りたものは返すという当たり前の規則を守らなければ破産に至るという例えは、勤労と誠実さの大切さを説く実学の面目躍如です。現代でも、結果には必ず原因と積み重ねがあると教えてくれます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳因果天命因縁種と実り

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