呻吟語 / 内篇・存心・是れ人室の禍と為る、室の能く人を禍するに非ず
京師僦宅,多擇吉數。有喪者,人多棄之曰:「能禍人。」予曰:「是人為室禍,非室能禍人也。人之死生,受於有生之初,豈室所能移?室不幸而遭當死之人,遂為人所棄耳。惟君子能自信而付死生於天則,不為往事所感矣。」
新字:京師僦宅,多択吉数。有喪者,人多棄之曰:「能禍人。」予曰:「是人為室禍,非室能禍人也。人之死生,受於有生之初,豈室所能移?室不幸而遭当死之人,遂為人所棄耳。惟君子能自信而付死生於天則,不為往事所感矣。」
書き下し
京師に宅を僦るに、多く吉數を擇ぶ。喪有る者は、人多く之を棄てて曰く、「能く人を禍す」と。予曰く、「是れ人室の禍と為るなり、室の能く人を禍するに非ざるなり。人の死生は、有生の初めに受く、豈に室の能く移す所ならんや。室不幸にして當に死すべき人に遭ひ、遂に人の棄つる所と為るのみ。惟だ君子のみ能く自ら信じて死生を天に付すれば、則ち往事の感ずる所と為らず」と。
現代語訳
都で家を借りるとき、多くは縁起の良し悪しを選びます。死人が出た家は、人が多くこれを捨てて、人に災いをもたらす、と言います。私は言いました。それは人がその家にとって災いになったのであって、家が人に災いをもたらしたのではありません。人の生死は生まれる初めに受けたもので、どうして家が変えられるでしょうか。家が不運にも死ぬべき人に出会い、そのために人から捨てられただけです。ただ君子だけが自らを信じて生死を天に任せるので、過ぎた出来事に心を動かされません。
解説
事故物件を避ける習慣が、正面から検討されます。呂坤の答えは因果の向きの転倒です。家が人に災いしたのではなく、人が家に災いしたのだ、と。家の側から見れば不運な出会いにすぎない、と言い換えることで、迷信の根が外れます。四百年前の都でも同じことが起きていたと分かるのも興味深く、結論は生死を天に任せる者は動じない、です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
迷信因果転倒住居天命
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