了凡四訓 / 立命之學・身を修めて以て之を俟つ
「至修身以俟之,乃積德祈天之事。曰『修』,則身有過惡,皆當治而去之;曰『俟』,則一毫覬覦,一毫將迎,皆當斬絕之矣。到此地位,直造先天之境,即此便是實學。 「汝未能無心,但能持準提咒,無記無數,不令間斷。持得純熟,於持中不持,於不持中持。到得念頭不動,則靈驗矣。」
新字:「至修身以俟之,乃積徳祈天之事。曰『修』,則身有過悪,皆当治而去之;曰『俟』,則一毫覬覦,一毫将迎,皆当斬絶之矣。到此地位,直造先天之境,即此便是実学。 「汝未能無心,但能持準提咒,無記無数,不令間断。持得純熟,於持中不持,於不持中持。到得念頭不動,則霊験矣。」
書き下し
「身を修めて以て之を俟つに至りては、乃ち德を積みて天に祈るの事なり。『修』と曰へば、則ち身に過惡有れば、皆な當に治めて之を去るべし。『俟』と曰へば、則ち一毫の覬覦、一毫の將迎も、皆な當に之を斬絕すべし。此の地位に到れば、直ちに先天の境に造る。即ち此れ便ち是れ實學なり。 「汝未だ無心なる能はずんば、但だ能く準提咒を持し、記する無く數ふる無く、間斷せしめざれ。持して純熟を得れば、持する中に於いて持せず、持せざる中に於いて持す。念頭動かざるに到り得れば、則ち靈驗あらん」と。
現代語訳
「『身を修めて天命を待つ』とは、徳を積んで天に祈ることだ。『修める』と言うからには、身に過ちや悪があれば、すべて正して取り除かなければならない。『待つ』と言うからには、わずかな高望みも、わずかな期待や取り越し苦労も、すべて断ち切らなければならない。この境地に達すれば、そのまま天地が生まれる前の根源の境に至る。これこそが本物の学問である。あなたがまだ無心になれないなら、ただ準提咒を唱え続けなさい。回数を記さず、数えもせず、途切れさせないように。唱えることに熟達すれば、唱えている中に唱えていない境地があり、唱えていない中に唱えている境地がある。念が動かなくなるところまで至れば、霊験があるだろう」。
解説
前の段に続き、『孟子』の「身を修めて以て之を俟つ」を雲谷禅師が読み解く段です。「修」は自分の過ちを正して取り除くこと、「俟」はわずかな高望みや先回りの期待まで断ち切ることだと説きます。天命を待つとは、ただ座して待つことではなく、なすべきことを尽くしたうえで、見返りへの思いを手放すことなのです。そのうえで禅師は、まだ無心になれない了凡に、準提咒を数えずに唱え続けよと勧めます。回数を気にせず続けるうちに、唱えることが自然になるというのです。成果の数字を気にしすぎると、行いそのものが乱れます。数えずに続けることで身につく習慣がある、という指摘は今日にも通じます。
この章句が説くこと
修身立命無心陰徳習慣
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