了凡四訓 / 立命之學・終身の休咎を卜す
孔為余起數:「縣考童生,當十四名;府考,七十一名;提學考,第九名。」明年赴考,三處名數皆合。 復為卜終身休咎,言:「某年考第幾名,某年當補廩,某年當貢。貢後某年,當選四川一大尹,在任三年半,即宜告歸。五十三歲八月十四日丑時,當終於正寢,惜無子。」余備錄而謹記之。
新字:孔為余起数:「県考童生,当十四名;府考,七十一名;提学考,第九名。」明年赴考,三処名数皆合。 復為卜終身休咎,言:「某年考第幾名,某年当補廩,某年当貢。貢後某年,当選四川一大尹,在任三年半,即宜告帰。五十三歳八月十四日丑時,当終於正寝,惜無子。」余備録而謹記之。
書き下し
孔、余が為に數を起こす。「縣考の童生は、當に十四名なるべし。府考は七十一名、提學考は第九名」と。明年考に赴くに、三處の名數皆な合ふ。 復た為に終身の休咎を卜して、言ふ「某年は考へて第幾名、某年は當に廩に補せらるべし、某年は當に貢せらるべし。貢の後某年、當に四川の一大尹に選ばるべし。任に在ること三年半にして、即ち宜しく告歸すべし。五十三歲八月十四日丑の時、當に正寢に終るべし。惜しいかな子無し」と。余、備に錄して謹みて之を記す。
現代語訳
孔先生は私のために占いを立てて言いました。「県の試験では童生(受験生)の中で十四番、府の試験では七十一番、提学(学政長官)の試験では九番になるでしょう」。翌年受験すると、三つの試験の順位がすべて一致しました。孔先生はさらに私の一生の吉凶を占ってこう言いました。「何年の試験では何番、何年には廩生(官費支給の生員)に補せられ、何年には貢生として推挙される。貢生となった後の何年かに四川の県知事に選ばれ、在任三年半で辞職して帰郷するのがよい。五十三歳の八月十四日丑の刻(午前二時ごろ)に自宅で天寿を終える。惜しいことに子はない」。私はそれを詳しく書き留め、大切に記憶しました。
解説
孔先生の占いが、試験の順位から任官、寿命、子の有無にいたるまで、一生の筋書きを細かく言い当てる段です。了凡は三つの試験の順位がすべて一致したと書き、その予言を丁寧に書き留めました。廩生は官費の支給を受ける生員、貢生は地方から都の国子監へ推挙される者で、科挙社会の階段を一段ずつ示しています。ここで大事なのは、了凡が予言を記録したことです。記録された未来は、人の心を縛りもすれば、あとで超えたことを確かめる物差しにもなります。先の見通しを聞いたとき、それを受け身で信じるのか、自分で変える余地を探すのか。この書全体の問いが、ここで静かに置かれています。
この章句が説くこと
立命運命予言宿命科挙
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『了凡四訓』立命之學・實に九十一石五斗なり此れより以後、凡そ考校に遇ふごとに、其の名數の先後、皆な孔公の懸定する所を出でず。獨り余が廩米九十一石五斗を食みて當に出貢すべしと算す。米七十餘石を食むに及びて、屠宗師即ち補貢を批准す。余、竊かに之を疑ふ。 後果して署印の楊公の駁する所と為る。直ちに丁卯の年に至りて、殷秋溟宗師、余が場中の備卷を見て、歎じて曰く「五策は、即ち五篇の奏議なり。豈に博洽淹貫の儒をして、窗下に老いしむべけんや」と。遂に縣の申文に依りて貢を准す。前の食米を連ねて之を計ふるに、實に九十一石五斗なり。
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