論衡 / 『論衡』明雩篇第四十五・涙と雨は請うて出ない
夫雨水在天地之間也、猶夫涕泣在人形中也。或齎酒食請於惠人之前、(未)〔求〕出其泣、惠人終不為之隕涕。夫泣不可請而出、雨安可求而得?
新字:夫雨水在天地之間也、猶夫涕泣在人形中也。或齎酒食請於恵人之前、(未)〔求〕出其泣、恵人終不為之隕涕。夫泣不可請而出、雨安可求而得?
書き下し
夫れ雨水の天地の間に在るは、猶お夫の涕泣の人形の中に在るがごときなり。或いは酒食を齎して恵人の前に請い、其の泣を出だすことを求むるも、恵人は終に之が為に涕を隕とさず。夫れ泣は請いて出だすべからず、雨は安んぞ求めて得べけんや。
現代語訳
雨水が天地のあいだにあるのは、涙が人のからだの中にあるのと同じようなものです。ある人が酒や食べ物を持って心優しい人の前に行き、涙を流してほしいと頼んだとしても、その人はけっして涙を落としてはくれません。涙は頼んで出させることができないのに、雨だけが求めて得られるはずがあるでしょうか。
解説
王充は、日照りのときに雨乞いの祭りをする儒者の通説に、涙のたとえで反論します。悲しみがなければ涙は出ず、ごちそうを用意して頼んでも出ないように、雨も天地の側の事情で降る、という理屈です。『論衡』は後漢の王充が、俗説や通説を実証と論理で疑った書で、この明雩篇は雨乞いの是非を論じます。ただし王充も、民を思う気持ちから祭りを行うこと自体は否定していません。職場でも、頼めば結果が出ると思い込んで手順や儀式を重ねることがあります。結果が自分の働きかけで動くものかどうかを分けて見る視点をくれます。

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雨乞い涙のたとえ雩祭天地自然請求原因と結果
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