論語 / 憲問篇
子貢方人。子曰:「賜也,賢乎哉?夫我則不暇!」
書き下し
子貢、人を方ぶ。子曰く、「賜や、賢なるかな。夫れ我は則ち暇あらず。」
現代語訳
子貢が人を比べて品定めをしていた。先生がおっしゃった。「賜(子貢)は賢いのだなあ。私にはそんなひまはないよ。」
解説
皮肉である。人を比べて論評する余裕があるとは大したものだ、自分にはその時間はない、と。孔子自身、人物評は数多く残しているから、評価すること自体を禁じたのではない。問題は、それが手すきの遊びになっていることだ。必要があって評価するのと、暇つぶしに序列をつけるのは別である。この区別は組織の中でも重要になる。誰が有能で誰がそうでないかを話題にする時間は、たいてい生産的でない。しかも話している側は、自分がその判定者の位置に立っていると錯覚する。孔子の返しは、その錯覚を突いた。自分にはその暇がない、というのは、やるべきことが目の前にあるという意味である。他人の評定に費やす時間があるなら、自分の課題に使え、という指摘になっている。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
人物評暇皮肉自省子貢
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