論語 / 子路篇
子曰:「苟有用我者,期月而已可也,三年有成。」
書き下し
子曰く、苟くも我を用うる者有らば、期月にして已に可なり。三年にして成る有らん。
現代語訳
先生がおっしゃった。「もし私を用いてくれる者があれば、一年でひとまず形にはなるだろう。三年あれば成果があがるだろう。」
解説
用いられなかった孔子の、強い自負である。しかも期間を具体的に区切っている。一年で形、三年で完成。曖昧な自信ではなく、工程の見積もりとして語られている。これは重要な違いだ。任せてほしいと言うだけの人と、いつまでに何ができるかを言える人では、任せる側の判断材料がまるで違う。自負を語るときの形として学ぶところがある。できます、という表明には検証がない。一年でここまで、三年でここまでと言えば、任せた側は途中で確認でき、外れれば責任を問える。逆に言えば、期間を切れないなら、その自負は根拠が薄い可能性がある。孔子は用いられなかったが、いつでも受けられる見積もりを持っていた。機会が来たときに動けるのは、そういう人である。
この章句が説くこと
自負見積もり期間登用準備
関連する章句
-
孫子・謀攻篇櫓轒轀を修め、器械を具うるに、三月にして後に成る。距闉するに、又三月にして後に已む。
-
『甲陽軍鑑』品第十四さて此度長篠にて信長の人衆九万二千五百といへ共、堅く七万あまり有るべし、子細は遠き国の衆は役義をへらすをもつて如此、扨みかたは遠州家康と分持ちなれば、此人衆動かず、駿河は信玄公御他界より三年已来、北条氏政表裏の様にて此用心に駿河勢働かず、上野衆も武蔵氏政のもち成る故、跡は人衆を残し置く、三河·美濃·飛弾·越中、勿論境目なれば、加勢をこそ尤なれ共、さなくては此人衆よぶに不及、信州勢は越後の謙信公大强敵の老功にて、殊に此比は加賀·越中かげて六ケ国に及び手に入り給へば、此おさへに壱万三千の人数を置き給ふ事、信玄公の時より備へ定め如此、各甲州勢の多きは越後のおさへいらざる故なり、
-
『甲陽軍鑑』品第十四又みかたの国は信濃·甲州·駿河三ヶ国、扨遠州半·上野半·合て一国、此外三河一郡·美濃二郡·越中二郡·飛弾半国·武蔵の内少々取合すれば中の国一国程也、以上五〃国の人衆は、如右積れば四万なれ共、信玄公御在世の時の被成様にて、信州に人衆多くして少シ余慶あれども、駿州小国にて只五千有故、甲州家の惣着到四万八千なり、小田原北条家の惣着到に二万二千五百すくなし、北条家は七万五百と聞く、信玄公の時、各家老衆大づもり此分なり、我等なき跡にても御心得のために如此に候、長坂長閑老·跡部大炊介殿、
-
『韓非子』南面第十八人臣、事を言うを易くする者は、資を索むること少なくして、事を以て主を誣う。主、誘われて察せず、因りて之を多とすれば、則ち是れ臣反りて事を以て主を制するなり。是くの如き者は之を誘と謂い、事に誘わるる者は患に困しむ。其の進言は少なく、其の退費は多く、功有りと雖も、其の進言信ぜられず。
-
史記 白起王翦列伝王翦は、頻陽の東郷の人なり。少くして兵を好み、秦の始皇に事ふ。始皇の十一年、翦将として趙の閼与を攻め、これを破り、九城を抜く。十八年、翦将として趙を攻む。歳余にして、遂に趙を抜き、趙王降り、尽く趙の地を定めて郡と為す。明年、燕、荊軻をして秦に賊を為さしむ、秦王、王翦をして燕を攻めしむ。燕王喜、遼東に走り、翦遂に燕の薊を定めて還る。秦、翦の子王賁をして荊を撃たしむ、荊の兵敗る。還りて魏を撃ち、魏王降り、遂に魏の地を定む。秦の始皇既に三晋を滅ぼし、燕王を走らせ、而して数々荊の師を破る。秦の将李信なる者は、年少く壮勇、嘗て兵数千を以て燕の太子丹を逐ひて衍水の中に至り、卒に丹を破り得たり。始皇以て賢勇と為す。是に於いて始皇、李信に問ふ、「吾、荊を攻め取らんと欲す、将軍に於いて度るに幾何人を用ひて足らん」と。李信曰く、「二十万人を用ふるに過ぎず」と。始皇、王翦に問ふ、王翦曰く、
-
『甲陽軍鑑』品第十四家康も父子二人合せて五大将が十四ケ国半の勢なり、但三ケ国は各境目のをさへに置べし、是は中国毛利家のをさへ斗り、越前は七年以前永禄十二巳年六月廿八日に信長·家康両人にしまけ候へは、是もつて我身の用心にて信長の国を望にあらず、おさへ四千斗りにて然るべし、伊賀の国其外に一万、中国に一万合て二万四千、但三ケ国の人衆大つもり如此、残りて家康国をそへて十一ケ国半なり、大国中州をゆり合、一国に八千づゝの大づもりにすれば、かたく九万二千五百也、