孫子 / 謀攻篇
修櫓轒轀,具器械,三月而後成;距闉,又三月而後已。
書き下し
櫓轒轀を修め、器械を具うるに、三月にして後に成る。距闉するに、又三月にして後に已む。
現代語訳
大盾や攻城車を整え、器械を揃えるのに三か月かかる。城壁に取りつく土山を築くのに、さらに三か月かかる。
解説
攻城の準備にかかる時間を、具体的な月数で示している。装備に三か月、土木工事にさらに三か月。合わせて半年、まだ攻撃を始めてもいない。孫子が城攻めを下策とする理由が、この数字に集約されている。感情ではなく工期で語っているのが特徴だ。ここには、選択肢のコストを工程で見積もる姿勢がある。攻城が悪いのではない。半年かかると分かったうえで選ぶなら判断だが、分からずに始めれば消耗する。事業でも、正面から取りに行く戦い方は分かりやすい反面、準備の工期を過小に見積もりがちである。競合と同じ土俵で勝負すると決める前に、そこに至るまでに何か月かかるかを数える。数えてみると、別の道を探す時間のほうが短いことは多い。
この章句が説くこと
攻城攻城戦工期困難見積もり下策
関連する章句
-
論語・子路篇子曰く、苟くも我を用うる者有らば、期月にして已に可なり。三年にして成る有らん。
-
孫子・謀攻篇城を攻むるの法は、已むを得ざる為なり。
-
『呻吟語』内篇・應務・事を料るに疏にして身を謀るに拙なり事を料るに疏にして、身を謀るに拙なるは、明哲なる者の懼るる所なり。
-
『韓非子』南面第十八人臣、事を言うを易くする者は、資を索むること少なくして、事を以て主を誣う。主、誘われて察せず、因りて之を多とすれば、則ち是れ臣反りて事を以て主を制するなり。是くの如き者は之を誘と謂い、事に誘わるる者は患に困しむ。其の進言は少なく、其の退費は多く、功有りと雖も、其の進言信ぜられず。
-
史記 白起王翦列伝王翦は、頻陽の東郷の人なり。少くして兵を好み、秦の始皇に事ふ。始皇の十一年、翦将として趙の閼与を攻め、これを破り、九城を抜く。十八年、翦将として趙を攻む。歳余にして、遂に趙を抜き、趙王降り、尽く趙の地を定めて郡と為す。明年、燕、荊軻をして秦に賊を為さしむ、秦王、王翦をして燕を攻めしむ。燕王喜、遼東に走り、翦遂に燕の薊を定めて還る。秦、翦の子王賁をして荊を撃たしむ、荊の兵敗る。還りて魏を撃ち、魏王降り、遂に魏の地を定む。秦の始皇既に三晋を滅ぼし、燕王を走らせ、而して数々荊の師を破る。秦の将李信なる者は、年少く壮勇、嘗て兵数千を以て燕の太子丹を逐ひて衍水の中に至り、卒に丹を破り得たり。始皇以て賢勇と為す。是に於いて始皇、李信に問ふ、「吾、荊を攻め取らんと欲す、将軍に於いて度るに幾何人を用ひて足らん」と。李信曰く、「二十万人を用ふるに過ぎず」と。始皇、王翦に問ふ、王翦曰く、
-
『甲陽軍鑑』品第十四家康も父子二人合せて五大将が十四ケ国半の勢なり、但三ケ国は各境目のをさへに置べし、是は中国毛利家のをさへ斗り、越前は七年以前永禄十二巳年六月廿八日に信長·家康両人にしまけ候へは、是もつて我身の用心にて信長の国を望にあらず、おさへ四千斗りにて然るべし、伊賀の国其外に一万、中国に一万合て二万四千、但三ケ国の人衆大つもり如此、残りて家康国をそへて十一ケ国半なり、大国中州をゆり合、一国に八千づゝの大づもりにすれば、かたく九万二千五百也、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る