論語 / 顔淵篇
子曰:「博學以文,約之以禮;亦可以弗畔矣夫!」
新字:子曰:「博学以文,約之以礼;亦可以弗畔矣夫!」
書き下し
子曰く、博く学ぶに文を以てし、之を約するに礼を以てせば、亦た以て畔かざる可きかな。
現代語訳
先生がおっしゃった。「広く文献によって学び、それを礼によって引き締める。そうすれば、道から外れずに済むだろう。」
解説
雍也篇にも同じ趣旨の言葉があり、繰り返し説かれた原則だったことが分かる。広げる作業と締める作業を交互に行う、という学びの設計である。ここで締める役目を負うのが礼、つまり実際の振る舞いの型であることが要点になる。知識を知識のまま整理するのではなく、行動の形式に落とすことで締める。読んだものが振る舞いに変わって初めて、学んだと言える。同じ内容が二度置かれているということは、弟子たちが実際にこれを守れなかったということでもあるだろう。広げるのは楽しく、締めるのは面倒である。情報を集める作業には終わりが無く、集めているあいだは前進している感覚が得られる。締める作業は捨てることを伴うので、痛みがある。だから省かれる。
この章句が説くこと
博文約礼学び実践型整理
関連する章句
-
伝習録・教約毎日の工夫は、先ず徳を考え、次に書を背し書を誦し、次に礼を習い或いは課仿を作し、次に復た書を誦し書を講じ、次に詩を歌う。凡そ習礼・歌詩の類は、皆な常に童子の心を存し、其れをして習うを楽しみて倦まず、而して邪僻に及ぶの瑕無からしむる所以なり。教うる者、此くの如くんば、則ち施す所を知らん。然りと雖も、此れ其の大略なり。神にして之を明らかにするは、則ち其の人に存す。
-
伝習録・教約凡そ書を授くるは徒らに多きに在らず。但だ精熟を貴ぶ。其の資稟を量り、二百字を能くする者は止だ以て一百字を授くべし。常に精神力量をして余り有らしむれば、則ち厭苦の患い無くして、自得の美有り。諷誦の際は、務めて専心一志、口に誦し心に惟い、字字句句、紬繹反覆し、其の音節を抑揚し、其の心意を寛虚にせしめよ。久しければ則ち義理は浹洽し、聡明は日に開かん。
-
『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦趙君錫、召を被り公に別る。教えを請う。公曰く、平日の學は正に今日の爲なり。若し錯らずんば、餘は錯らじと。
-
『正法眼蔵随聞記』巻六一日示して云く、古人の云く、聞くべし、見るべし、得るべし、亦云く、得ずんば見るべし、見ずんば聞くべしと、云ふ心は、聞んよりは見るべし、見んよりは得るべし、未だ得ずんば見るべし、未だ見ずんば聞くべしとなり、
-
老子・第20章学を絶てば憂い無し。唯と阿と、相去ること幾何ぞ。善と悪と、相去ること若何。人の畏るる所は、畏れざるべからず。荒としてそれ未だ央きざるかな。衆人は熙熙として、太牢を享くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊としてそれ未だ兆さず、嬰児の未だ孩わざるが如し。儽儽として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るに、我れ独り遺れたるが若し。我れは愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるに、我れ独り昏昏たり。俗人は察察たるに、我れ独り悶悶たり。澹としてそれ海の若く、飂として止まる所無きが若し。衆人は皆な以うる有るに、我れ独り頑にして鄙に似たり。我れ独り人に異なりて、母に食わるるを貴ぶ。
-
『墨子』魯問魯の南鄙の人に吳慮なる者有り。冬は陶し夏は耕して、自ら舜に比す。子墨子、聞きて之に見ゆ。吳慮、子墨子に謂う、「義のみ、義のみ。焉んぞ之を言うを用いんや」と。子墨子曰く、「子の所謂る義なる者は、亦た力有りて以て人を勞し、財有りて以て人に分かつか」と。吳慮曰く、「有り」と。子墨子曰く、「翟、嘗て之を計れり。翟、耕して天下の人に食わしめんことを慮る。盛んにして、然る後に一農の耕に當たる。諸を天下に分かたば、人ごとに一升の粟をも得る能わず。藉りて以て一升の粟を得と為すも、其の天下の饑を飽かしむる能わざるは、既に睹る可し。