論語 / 述而篇
子曰:「聖人,吾不得而見之矣!得見君子者,斯可矣。」子曰:「善人,吾不得而見之矣!得見有恆者,斯可矣。亡而爲有,虛而爲盈,約而爲泰,難乎有恆矣!」
新字:子曰:「聖人,吾不得而見之矣!得見君子者,斯可矣。」子曰:「善人,吾不得而見之矣!得見有恒者,斯可矣。亡而為有,虚而為盈,約而為泰,難乎有恒矣!」
書き下し
子曰く、「聖人は、吾得て之を見ず。君子者を見るを得ば、斯れ可なり。」子曰く、「善人は、吾得て之を見ず。恒有る者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚しくして盈てりと為し、約にして泰かなりと為す。難いかな恒有ること。」
現代語訳
先生がおっしゃった。「聖人には、私は会うことができない。君子と呼べる人に会えれば、それでよしとしよう。」またおっしゃった。「善人には、私は会うことができない。恒常心のある人に会えれば、それでよしとしよう。無いのに有るように見せ、空っぽなのに満ちているように見せ、乏しいのに豊かなように見せる。そういう世では、恒常心を持つことは難しい。」
解説
孔子は理想の水準を下げている。聖人が無理なら君子、善人が無理なら恒のある人でよい、と。妥協に見えるが、これは現実的な目標設定である。最上位だけを掲げると、誰も到達できないので基準そのものが機能しなくなる。届く高さに置き換えて初めて、探すことも育てることもできる。後半の三つの対句が鋭い。無いのに有るふり、空なのに満ちたふり、乏しいのに豊かなふり。見栄を張る三つの型を並べたうえで、こういう空気の中では恒常心が保てないと結論づけた。恒とは、変わらず同じ水準を保つことである。周囲が実態以上に見せ合う場所では、自分だけ実態のままでいるのが難しくなる。基準を下げてでも探すべきは、この恒を持った人である。
この章句が説くこと
恒理想と現実見栄基準人材
関連する章句
-
『論語と算盤』常識と習慣・偉き人と完き人偉き人と完き人とは大いに違う。偉い人は人間の具有すべき一切の性格にたとい欠陥があるとしても、その欠陥を補って余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、言わば変態である。それに反して完き人は、智情意の三者が円満に具足した者、すなわち常識の人である。余はもちろん偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、むしろ完き人の世に隈なく満たんことを欲する。つまり常識の人の多からんことを要望する次第である。偉い人の用途は無限とは言えぬが、完き人ならいくらでも必要な世の中である。
-
『墨子』尚賢上是の故に古者、聖王の政を為すや言いて曰く、「義ならざれば富まさず、義ならざれば貴くせず、義ならざれば親しまず、義ならざれば近づけず」と。是を以て國の富貴の人、之を聞きて、皆な退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は富貴なり。今、上、義を舉ぐるに貧賤を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。親しき者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は親なり。今、上、義を舉ぐるに親疎を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。近き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は近なり。今、上、義を舉ぐるに近を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我れ逺きを以て恃む無しと為す。今、上、義を舉ぐるに逺きを辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺鄙郊外の臣、門庭の庶子、國中の衆、四鄙の氓人に逮び至るまで、之を聞きて皆な競いて義を為す。
-
『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。當に皆な其の父母に法らば奚若ん。天下の父母為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の父母に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の學に法らば奚若ん。天下の學を為す者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の學に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の君に法らば奚若ん。天下の君為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の君に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。故に父母・學・君の三者は、以て治法と為す可き莫し。
-
『墨子』法儀子墨子曰く、天下の事を從むる者は、以て法儀無かる可からず。法儀無くして其の事能く成る者は、有ること無し。士の將相為る者に至ると雖も皆な法有り、百工の事を從むる者に至ると雖も亦た皆な法有り。百工は方を為すに矩を以てし、圜を為すに規を以てし、直きは繩を以てし、正しきは懸を以てす。巧工も不巧工も無く、皆な此の四者を以て法と為す。巧なる者は能く之に中り、不巧なる者は中つる能わずと雖も、放依して以て事を從めば、猶お已に逾えたり。故に百工の事を從むるや、皆な法度有り。今、大なる者は天下を治め、其の次は大國を治むるに、而も法度無し。此れ百工の辯なるに若かざるなり。
-
『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。故に曰く、天に法るに若くは莫し、と。天の行いは廣くして私無く、其の施しは厚くして徳とせず、其の明るきは久しくして衰えず。故に聖王は之に法る。既に天を以て法と為さば、動作有為には、必ず天に度り、天の欲する所は則ち之を為し、天の欲せざる所は則ち止む。
-
『墨子』尚賢下子墨子言いて曰く、「天下の王公大人は皆な其の國家の富み、人民の衆く、刑法の治まるを欲す。然れども尚賢を以て政を為して其の國家百姓を治むるを識らず。王公大人、本より尚賢の政を為すの本を失えるなり。若し茍くも王公大人、本より尚賢の政を為すの本を失わば、則ち物を舉げて之に示す毋くんばある能わざらんや。今、若し一諸侯、此に有りて、國家に政を為すや、曰く、『凡そ我が國の能く射御する士は、我れ將に之を賞し貴くせんとす。射御する能わざる士は、我れ將に之を罪し賤しくせんとす』と。若の國の士に問う、孰か喜び孰か懼れんと。我れ以て必ず能く射御する士は喜び、射御する能わざる士は懼れんと為す。我れ賞して因りて之を誘わん、曰く、『凡そ我が國の忠信の士は、我れ將に之を賞し貴くせんとす。忠信ならざる士は、我れ將に之を罪し賤しくせんとす』と。」