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六祖壇経 / 機縁品第七

玄覺方具威儀禮拜。須臾告辭,師曰:「返太速乎?」曰:「本自非動,豈有速耶?」師曰:「誰知非動?」曰:「仁者自生分別。」師曰:「汝甚得無生之意。」曰:「無生豈有意耶?」師曰:「無意誰當分別?」曰:「分別亦非意。」師曰:「善哉!少留一宿。」時謂一宿覺,後著證道歌,盛行於世;謚曰無相大師,時稱為其覺焉。禪者智隍,初參五祖,自謂已得正受,庵居長坐,積二十年。師弟子玄策遊方至河朔,聞隍之名,造庵問云:「汝在此作甚麼?」隍曰:「入定。」策云:「汝云入定,為有心入耶?無心入耶?若無心入者,一切無情草木瓦石,應合得定;若有心入者,一切有情含識之流,亦應得定。」隍曰:「我正入定時,不見有有無之心。」策云:「不見有有無之心,即是常定,何有出入?若有出入,即非大定。」隍無對,良久,問曰:「師嗣誰耶?」策云:「我師曹溪六祖。」隍云:「六祖以何為禪定?」策云:「我師所說,妙湛圓寂,體用如如;五陰本空,六塵非有;不出不入,不定不亂;禪性無住,離住禪寂;禪性無生,離生禪想;心如虛空,亦無虛空之量。」隍聞是說,徑來謁師。師問云:「仁者何來?」隍具述前緣。師云:「誠如所言。」師憫其遠來,遂垂開決。隍於是大悟,二十年所得心都無影響。其夜、河北士庶,聞空中有聲云:「隍禪師今日得道。」

新字:玄覚方具威儀礼拝。須臾告辞,師曰:「返太速乎?」曰:「本自非動,豈有速耶?」師曰:「誰知非動?」曰:「仁者自生分別。」師曰:「汝甚得無生之意。」曰:「無生豈有意耶?」師曰:「無意誰当分別?」曰:「分別亦非意。」師曰:「善哉!少留一宿。」時謂一宿覚,後著証道歌,盛行於世;謚曰無相大師,時称為其覚焉。禅者智隍,初参五祖,自謂已得正受,庵居長坐,積二十年。師弟子玄策遊方至河朔,聞隍之名,造庵問云:「汝在此作甚麼?」隍曰:「入定。」策云:「汝云入定,為有心入耶?無心入耶?若無心入者,一切無情草木瓦石,応合得定;若有心入者,一切有情含識之流,亦応得定。」隍曰:「我正入定時,不見有有無之心。」策云:「不見有有無之心,即是常定,何有出入?若有出入,即非大定。」隍無対,良久,問曰:「師嗣誰耶?」策云:「我師曹渓六祖。」隍云:「六祖以何為禅定?」策云:「我師所説,妙湛円寂,体用如如;五陰本空,六塵非有;不出不入,不定不乱;禅性無住,離住禅寂;禅性無生,離生禅想;心如虚空,亦無虚空之量。」隍聞是説,径来謁師。師問云:「仁者何来?」隍具述前縁。師云:「誠如所言。」師憫其遠来,遂垂開決。隍於是大悟,二十年所得心都無影響。其夜、河北士庶,聞空中有声云:「隍禅師今日得道。」

書き下し

玄覚方に威儀を具へて礼拝す。須臾にして告辞す。師曰く、「返ること太(はなは)だ速かならずや」と。曰く、「本自(もと)動くに非ず、豈に速きこと有らんや」と。師曰く、「誰か動くに非ざることを知る」と。曰く、「仁者自ら分別を生ず」と。師曰く、「汝甚だ無生の意を得たり」と。曰く、「無生に豈に意有らんや」と。師曰く、「意無くんば誰か当に分別すべき」と。曰く、「分別も亦た意に非ず」と。師曰く、「善い哉。少しく留まりて一宿せよ」と。時に一宿覚と謂ふ。後に証道歌を著し、盛んに世に行はる。諡して無相大師と曰ひ、時に称して其の覚と為す。禅者智隍は、初め五祖に参じ、自ら已に正受を得たりと謂ひ、庵に居りて長坐すること、二十年を積む。師の弟子玄策、遊方して河朔に至り、隍の名を聞きて、庵に造(いた)りて問ひて云く、「汝此に在りて甚麼をか作す」と。隍曰く、「入定す」と。策云く、「汝入定すと云ふ、有心にして入るとせんや、無心にして入るとせんや。若し無心にして入らば、一切の無情の草木瓦石も、応に合に定を得べし。若し有心にして入らば、一切の有情含識の流も、亦た応に定を得べし」と。隍曰く、「我正に入定する時、有無の心有ることを見ず」と。策云く、「有無の心有ることを見ずんば、即ち是れ常定なり、何ぞ出入有らん。若し出入有らば、即ち大定に非ず」と。隍対ふること無し。良久しくして、問ひて曰く、「師は誰にか嗣ぐ」と。策云く、「我が師は曹溪の六祖なり」と。隍云く、「六祖は何を以てか禅定と為す」と。策云く、「我が師の説く所は、妙湛円寂にして、体用如如たり。五陰は本空、六塵は有に非ず。出でず入らず、定まらず乱れず。禅性は住無し、住を離れて禅寂す。禅性は生無し、生を離れて禅想す。心は虚空の如くにして、亦た虚空の量無し」と。隍是の説を聞きて、徑ちに来りて師に謁す。師問ひて云く、「仁者何れより来る」と。隍具さに前縁を述ぶ。師云く、「誠に言ふ所の如し」と。師其の遠く来るを憫れみ、遂に開決を垂る。隍是に於て大悟し、二十年の所得の心、都て影響無し。其の夜、河北の士庶、空中に声有りて云ふを聞く、「隍禅師今日道を得たり」と。

現代語訳

玄覚はそこでようやく威儀を整えて礼拝した。しばらくして暇乞いをした。師は言った。「帰るのがあまりに速すぎはしないか。」玄覚は言った。「もともと動いてなどいない。どうして速いことがあろうか。」師は言った。「誰が、動いていないと知るのか。」玄覚は言った。「あなたが自分で分別を起こしているのだ。」師は言った。「おまえはよく無生(生じることの無い真理)の意を得ている。」玄覚は言った。「無生に、どうして意などあろうか。」師は言った。「意が無いなら、誰が分別するのか。」玄覚は言った。「分別もまた意ではない。」師は言った。「よろしい。少し留まって一晩泊まっていけ。」当時の人はこれを一宿覚と呼んだ。のちに『証道歌』を著し、世に広く行われた。無相大師と諡され、当時の人々はその覚りをそう称えた。禅者の智隍は、初め五祖(弘忍)に参じ、自分ではすでに正しい禅定を得たと思い込み、庵に住んで長く坐り続けること二十年に及んだ。師の弟子の玄策が諸方を行脚して河朔(黄河の北)に至り、智隍の名を聞いて、その庵を訪ねて問うた。「あなたはここで何をしているのか。」智隍は言った。「禅定に入っている。」玄策は言った。「あなたは禅定に入ると言うが、心があって入るのか、心が無くて入るのか。もし心が無くて入るのなら、一切の心なき草木や瓦や石も、みな禅定を得ているはずだ。もし心があって入るのなら、一切の心ある生きものの類も、また禅定を得ているはずだ。」智隍は言った。「わたしがまさに禅定に入っているときは、有るとか無いとかいう心があるのを見ない。」玄策は言った。「有るとか無いとかいう心があるのを見ないなら、それは常の禅定であって、どうして出たり入ったりがあろうか。もし出たり入ったりがあるなら、それは大いなる禅定ではない。」智隍は答えられなかった。しばらくして問うた。「あなたの師は誰の法を嗣いでいるのか。」玄策は言った。「わたしの師は曹溪の六祖である。」智隍は言った。「六祖は何を禅定としているのか。」玄策は言った。「わたしの師の説くところは、霊妙に澄みわたって完全に静まり、本体と働きがそのままである。五陰(五蘊)はもともと空であり、六塵(六つの感覚の対象)は有るものではない。出ることも入ることもなく、定まることも乱れることもない。禅の本性はとどまることが無く、とどまることを離れて禅の静けさがある。禅の本性は生じることが無く、生じることを離れて禅の想いがある。心は虚空のようであり、しかも虚空という量りすら無い。」智隍はこの説を聞くと、まっすぐにやって来て師に謁見した。師は問うた。「あなたはどこから来たのか。」智隍はこれまでのいきさつを詳しく述べた。師は言った。「まことに、言われたとおりだ。」師は彼が遠くから来たのを憐れみ、そこで教えを開き示した。智隍はそこで大いに悟り、二十年かけて得たと思っていた心は、跡形も残らなかった。その夜、河北の士人や庶民は、空中から「智隍禅師が今日、道を得た」という声がするのを聞いた。

解説

永嘉玄覚と慧能の問答は、短い言葉の応酬の中に無生の理が凝縮されている。「本自動くに非ず」と答えた玄覚に、慧能は「誰か動くに非ざることを知る」と迫る。知る者を立てれば分別が生じるからだ。玄覚は一歩も引かず、分別もまた意ではないと返し、慧能は一晩の滞在を許した。これが一宿覚の由来で、玄覚の『証道歌』は後世の禅門で広く愛誦された。後半の智隍は、二十年庵で坐り続けて定を得たと思い込んでいたが、玄策に出入りのある定は大定ではないと突かれて言葉を失う。長年の蓄積が一夜で影も形もなくなる話は、経験年数そのものが力だと思い込む危うさを鋭く照らしている。

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