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六祖壇経 / 機縁品第七

「剎那無有生相,剎那無有滅相,更無生滅可滅,是則寂滅現前,當現前時,亦無現前之量,乃謂常樂。此樂無有受者,亦無不受者,豈有一體五用之名?何況更言涅槃禁伏諸法,令永不生,斯乃謗佛毀法。聽吾偈曰:『無上大涅槃,圓明常寂照,凡愚謂之死,外道執為斷。諸求二乘人,目以為無作,盡屬情所計,六十二見本。妄立虛假名,何為真實義?惟有過量人,通達無取捨。以知五藴法,及以藴中我,外現眾色像,一一音聲相。平等如夢幻,不起凡聖見,不作涅槃解,二邊三際斷。常應諸根用,而不起用想,分別一切法,不起分別想。劫火燒海底,風鼓山相擊,真常寂滅樂,涅槃相如是。吾今強言說,令汝捨邪見,汝勿隨言解,許汝知少分。』」志道聞偈大悟,踴躍作禮而退。行思禪師,生吉州安城劉氏,聞曹溪法席盛化,徑來參禮,遂問曰:「當何所務,即不落階級?」師曰:「汝曾作甚麼來?」曰:「聖諦亦不為。」師曰:「落何階級?」曰:「聖諦尚不為,何階級之有?」師深器之,令思首眾。一日,師謂曰:「汝當分化一方,無令斷絕。」思既得法,遂回吉州青原山,弘法紹化。謚弘濟禪師。懷讓禪師,金州杜氏子也。初謁嵩山安國師,安發之曹溪參扣。讓至,禮拜,師曰:「甚處來?」曰:「嵩山。」

新字:「刹那無有生相,刹那無有滅相,更無生滅可滅,是則寂滅現前,当現前時,亦無現前之量,乃謂常楽。此楽無有受者,亦無不受者,豈有一体五用之名?何況更言涅槃禁伏諸法,令永不生,斯乃謗仏毀法。聴吾偈曰:『無上大涅槃,円明常寂照,凡愚謂之死,外道執為断。諸求二乗人,目以為無作,尽属情所計,六十二見本。妄立虚仮名,何為真実義?惟有過量人,通達無取捨。以知五藴法,及以藴中我,外現衆色像,一一音声相。平等如夢幻,不起凡聖見,不作涅槃解,二辺三際断。常応諸根用,而不起用想,分別一切法,不起分別想。劫火焼海底,風鼓山相撃,真常寂滅楽,涅槃相如是。吾今強言説,令汝捨邪見,汝勿随言解,許汝知少分。』」志道聞偈大悟,踴躍作礼而退。行思禅師,生吉州安城劉氏,聞曹渓法席盛化,径来参礼,遂問曰:「当何所務,即不落階級?」師曰:「汝曽作甚麼来?」曰:「聖諦亦不為。」師曰:「落何階級?」曰:「聖諦尚不為,何階級之有?」師深器之,令思首衆。一日,師謂曰:「汝当分化一方,無令断絶。」思既得法,遂回吉州青原山,弘法紹化。謚弘済禅師。懐譲禅師,金州杜氏子也。初謁嵩山安国師,安発之曹渓参扣。譲至,礼拝,師曰:「甚処来?」曰:「嵩山。」

書き下し

刹那に生相有ること無く、刹那に滅相有ること無く、更に生滅の滅すべき無し、是れ則ち寂滅現前す。現前する時に当りて、亦た現前の量無し、乃ち常楽と謂ふ。此の楽は受くる者有ること無く、亦た受けざる者無し、豈に一体五用の名有らんや。何ぞ況んや更に涅槃は諸法を禁伏して、永く生ぜざらしむと言ふをや。斯れ乃ち仏を謗り法を毀るなり。吾が偈を聴け。曰く、『無上の大涅槃は、円明にして常に寂照す。凡愚は之を死と謂ひ、外道は執して断と為す。諸の二乗を求むる人は、目して以て無作と為す。尽く情の計る所に属し、六十二見の本なり。妄りに虚仮の名を立つ、何をか真実の義と為さん。惟だ過量の人のみ有りて、通達して取捨無し。以て五蘊の法、及び蘊中の我、外に衆の色像、一一の音声の相を現ずるを知る。平等にして夢幻の如し、凡聖の見を起さず、涅槃の解を作さず、二辺三際断ず。常に諸根の用に応じて、而も用の想を起さず。一切の法を分別して、分別の想を起さず。劫火海底を焼き、風鼓して山相撃つとも、真常寂滅の楽、涅槃の相是くの如し。吾今強ひて言説す、汝をして邪見を捨てしめん。汝言に随ひて解すること勿れ、汝に少分を知ることを許す』」と。志道偈を聞きて大悟し、踊躍し礼を作して退く。行思禅師は、吉州安城の劉氏に生る。曹溪の法席盛んに化すと聞きて、徑ちに来りて参礼し、遂に問ひて曰く、「当に何の務むる所にか、即ち階級に落ちざらん」と。師曰く、「汝曽て甚麼(なに)をか作し来る」と。曰く、「聖諦も亦た為さず」と。師曰く、「何の階級にか落つる」と。曰く、「聖諦すら尚ほ為さず、何の階級か之れ有らん」と。師深く之を器とし、思をして衆に首たらしむ。一日、師謂ひて曰く、「汝当に一方に分化して、断絶せしむること無かるべし」と。思既に法を得て、遂に吉州青原山に回り、法を弘め化を紹ぐ。弘済禅師と諡す。懐譲禅師は、金州杜氏の子なり。初め嵩山の安国師に謁す。安、之を発して曹溪に参扣せしむ。譲至りて礼拝す。師曰く、「甚れの処よりか来る」と。曰く、「嵩山」と。

現代語訳

一瞬一瞬に生じる相は無く、一瞬一瞬に滅する相も無く、そのうえ滅すべき生滅も無い。これがすなわち寂滅が目の前に現れるということだ。現れているそのときにも、現れているという量りすら無い。これを常楽というのである。この楽には受ける者も無く、また受けない者も無い。どうして一つの本体に五つの働きなどという名があろうか。まして涅槃が諸法を禁じ抑えて永久に生じさせないなどと言うのは論外である。それは仏を謗り法を毀るものだ。わたしの偈を聞け。『無上の大涅槃は、完全に明らかで常に静かに照らしている。凡夫や愚かな者はこれを死と言い、外道はこれに執着して断滅とする。二乗(声聞・縁覚)の悟りを求める人々は、これを何もしない境地と見なす。これらはすべて情の推し量りに属し、六十二の誤った見解の根本である。みだりに虚仮の名を立てて、何を真実の意味とするのか。ただ量りを超えた人だけが、通達して取ることも捨てることも無い。その人は、五蘊の法と、五蘊の中の我と、外に現れる多くの色や形、一つ一つの音声の姿を知っている。それらは平等で夢幻のようであり、凡夫と聖者という見方を起こさず、涅槃という理解もなさず、二つの極端も過去・現在・未来の三際も断たれている。常に諸々の感覚器官の働きに応じながら、働いているという思いを起こさない。一切の法を分別しながら、分別しているという思いを起こさない。劫の終わりの火が海の底を焼き、風が吹き荒れて山と山がぶつかり合っても、真の常住である寂滅の楽しみ、涅槃の姿とはこのようなものである。わたしはいま強いて言葉で説き、おまえに邪な見方を捨てさせようとしている。おまえは言葉のままに理解してはならない。そうすれば、おまえが少しばかりを知ることを認めよう。』」志道は偈を聞いて大いに悟り、躍り上がって礼拝して退いた。行思禅師は吉州安城の劉氏の生まれである。曹溪での説法の座が盛んに人々を教化していると聞いて、まっすぐにやって来て参じて礼拝し、そして問うた。「何に務めれば、段階(修行の位)に落ちないでいられるか。」師は言った。「おまえはこれまで何をしてきたのか。」答えた。「聖諦(聖なる真理)でさえもしてこなかった。」師は言った。「それならどんな段階に落ちるというのか。」答えた。「聖諦ですらしないのに、どんな段階があろうか。」師は深く彼を器量ある者と認め、行思を大衆の首座とした。ある日、師は言った。「おまえは一方に赴いて教えを分かち広め、途絶えさせてはならない。」行思は法を得ると、吉州の青原山に帰り、法を広めて教化を継いだ。弘済禅師と諡された。懐譲禅師は金州の杜氏の子である。初め嵩山の安国師(慧安)に謁見した。慧安は彼を送り出して曹溪へ参じて教えを請わせた。懐譲が着いて礼拝すると、師は言った。「どこから来たのか。」答えた。「嵩山から。」

解説

志道への答えの結びと、慧能の二大弟子である青原行思・南岳懐譲の登場が並ぶ一段である。慧能は、生滅の相そのものが無いところに寂滅が現れ、しかも現れたという量りすら無いと説く。楽を受ける者も受けない者も無い、というのは、主体と対象を分ける思考の外に涅槃を置く言葉である。偈は最後に「言に随ひて解すること勿れ」と、自分の説明にすら寄りかかるなと戒める。続く行思は「聖諦も亦た為さず」と答え、修行の階段を上る発想そのものを離れていた。後の曹洞宗などはこの青原の系統から出る。段階や資格を一つずつ積み上げる評価の仕組みに慣れた私たちに、段階を問う前提そのものを揺さぶる問答である。

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