驢鞍橋 / 卷下
一老兄語て曰く、石平山勤行の次第は、早朝、舍利禮を以て同拜に三拜、並に發願文、次に諸諷經有り、其後金剛經二卷、施餓鬼七遍誦して、萬靈に廻向有り、日中初夜ともに如是。但し二時は諸諷經無き也。同しく亡者忌日吊の次第、初夜、七返施餓鬼。茶湯の後、金剛經或は二卷或は三卷。次きに坐禪有り、師自ら警策を打ち給ふ。明朝茶湯の後、金剛經六卷、半齋より日中の間、諸僧と共に施餓鬼、或は七佛の偈を書し、飯上に狹んて、七遍施餓鬼有りて決し給ふ也。日數を重ねて吊ひ給ふも、日日如是と也。師この頃も暇有る每に、施餓鬼七佛の偈を書して萬靈を吊ひ、老病を顧みす、禮拜恭敬して佛事を正しく作し給ふ也。
新字:一老兄語て曰く、石平山勤行の次第は、早朝、舎利礼を以て同拝に三拝、並に発願文、次に諸諷経有り、其後金剛経二巻、施餓鬼七遍誦して、万霊に廻向有り、日中初夜ともに如是。但し二時は諸諷経無き也。同しく亡者忌日吊の次第、初夜、七返施餓鬼。茶湯の後、金剛経或は二巻或は三巻。次きに坐禅有り、師自ら警策を打ち給ふ。明朝茶湯の後、金剛経六巻、半斎より日中の間、諸僧と共に施餓鬼、或は七仏の偈を書し、飯上に狭んて、七遍施餓鬼有りて決し給ふ也。日数を重ねて吊ひ給ふも、日日如是と也。師この頃も暇有る毎に、施餓鬼七仏の偈を書して万霊を吊ひ、老病を顧みす、礼拝恭敬して仏事を正しく作し給ふ也。
書き下し
一老兄語て曰く、石平山勤行の次第は、早朝、舎利礼を以て同拝に三拝、並に発願文、次に諸諷経有り、其後金剛経二巻、施餓鬼七遍誦して、万霊に廻向有り、日中初夜ともに如是。但し二時は諸諷経無き也。同しく亡者忌日吊の次第、初夜、七返施餓鬼。茶湯の後、金剛経或は二巻或は三巻。次きに坐禅有り、師自ら警策を打ち給ふ。明朝茶湯の後、金剛経六巻、半斎より日中の間、諸僧と共に施餓鬼、或は七仏の偈を書し、飯上に狭んて、七遍施餓鬼有りて決し給ふ也。日数を重ねて吊ひ給ふも、日日如是と也。師この頃も暇有る毎に、施餓鬼七仏の偈を書して万霊を吊ひ、老病を顧みす、礼拝恭敬して仏事を正しく作し給ふ也。
現代語訳
ある先輩が語って言った。石平山の勤行の次第は、早朝、舎利礼文で一同礼拝して三拝、あわせて発願文、次に諸諷経があり、その後、金剛経二巻、施餓鬼を七遍読誦して、万霊に回向する。日中と初夜も同様である。ただし二時には諸諷経はない。同じく亡者の忌日の弔いの次第は、初夜に七遍施餓鬼。茶湯の後、金剛経を二巻あるいは三巻。次に坐禅があり、師自ら警策を打たれた。翌朝、茶湯の後、金剛経六巻、半斎から日中の間、諸僧とともに施餓鬼、あるいは七仏の偈を書いて飯の上に挟み、七遍施餓鬼をして終えられた。日数を重ねて弔われるときも、日々このようであった。師はこのごろも、暇があるたびに、施餓鬼や七仏の偈を書いて万霊を弔い、老病を顧みず、礼拝恭敬して仏事を正しくなされたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日石平山に引籠む。僧師を辞す。師示して曰く、先つ道中油断無く心を守り、古塚有らは施餓鬼を誦し弔ふて通るべし、塚に残る亡魂慥に有る物也。疎に思ふべからず。是れ一つ。亦彼処に至りても何の変も有るべからす、替る事あらんと思ふ事莫かれ。誠に何としてもなんの変も無き物也。是れ一つ。亦今時の出家無信心にして小用の後手を洗はず、経巻を取り仏を礼するつれ也。彼処に至りて左様の格をなすべからす。如何にも身心清浄にして礼拝誦経し、仏神三宝に道心を祈り、万霊を弔ひ、自己の功徳を勤むべし。善悪ともに本に酬ふの理を能く知るべし。是れ一つ。
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『驢鞍橋』卷上一日老僧来りて法要を問ふ。師示して曰く、工夫修行成るへからす、只小庵に安居して昼夜経咒を誦し、無縁法界を吊ひ、日用を送らるべし。何と礼拝抔せらるゝや。彼人、中々三拝を仕ると云ふ。師曰、其つれにて何として真実起るべし、責めて五百礼も千礼も為し、身心を責めて業障を尽すへし。亦一生に成仏せんと思ふへからす。曠劫多生を懸けてする事也。何とぞ今度餓鬼畜生を出で責めて人間にならるへしと也。
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『驢鞍橋』卷下去る夜、小用に出て給ふ次で、身を扣て曰く、咳、むさい糞袋哉。大小用の時は、一入髄に徹して不浄の体哉と、いやに思はるゝ也。扨て扨て詮も無き物哉と也。常住坐臥に付て、何の詮もなき物哉詮もなき物哉と也。又時々あゝ大義じやよ大義じやよと大息をつき給ひ、睡眠の中にも吐息有りし也。又僧俗、毎夜床を取廻して坐するに、何として何としてと時々警策有りし也。
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『驢鞍橋』卷下師始め室を閉つといへとも、末後両三日に至て諸人の見舞を致すことを許し給ふ。時に一僧なほなほ法要を示し給へと云ふ。師はつたと睨んて曰く、何と云ふ□、我三十年云ふことをえうけずして、左様のことを云ふか、正三は死ぬと也。その後法要を問ふ者なし。時に明暦元年乙未六月二十五日申の刻、安然として遷化し給ふ也。
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『驢鞍橋』卷下この日晩にいたり、天徳の勝地において、如法に葬す。門人四十四人、夜もすから茶毘の左右を囲繞するに、無香無臭、只白煙を見るのみ。第三日に至て、灰塵を掃ふに、その骨白雪の如し。聚会の男女、分取て供養す。又天徳院、並に所住の三院に納む。冷灰を小壺に貯へ、天徳院の北岳に埋んで無縫塔を立て、石平和尚の四字を書す。師の春秋七十七年、幼年にして生死を疑ひ、四十二にして祝髪、六十余にして得悟す。その行業の始末は前書に詳也。利生三十余年、度人数を知ること無し。
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『驢鞍橋』卷上去る暁衆に語て曰く毎暁時定つて道ならは三町計り行く間程、大事急に起つて中々切也。就中此二三年は、弥憂機にひしと責め詰めらるゝ也。時に一僧云、某の如きは守る処さへ取留めて、一処を守る機なし。師曰、工みて守る間にて知る事に非す、然れとも起る機を持たさる者は、巧みて授くるの外なし。扨亦守る処は念仏を申すも、幻化を観ずるも、無常を観ずるも一つ也。然れとも人人縁有る処有る物なるに仍て、さまざまに説有り、只縁有る処を守るべし。信心强き則んは、何れも替り無し。大略は皆娑婆に心を抜かして沈み居らんと也。