驢鞍橋 / 卷下
又秀和尙曰く、この前、師と同しく大坂三郞九郞殿に至る折節、三郞九郞代官處の中、去る大身の庄屋、無實を以て人を滅さんとを工み、命議に逢ひ、却て我非に落ちたり。その頃、幾內の仕置を小堀遠江守にて、伏見に居り給ふに仍て、彼に言ひ遣はしければ、明日きつと庄屋一門男女共に死罪に行ふべしと云ひ來る。時に師聞て曰く、男子の義は尤也、女人の分は、何とそ助け度者也と有りければ、亭主曰く、公義よりの仰付也。下にては助け難きと也。師曰く、權現樣以來、終に加樣のことに女人迄殺し給ひたることなし。然るに三郞九郞代に殺し始めは、以來迄の例になるへし。是非共道理を申し達すへしと云つて、自ら日本國中の神に誓願を爲し給ふ。扨て又大阪より伏見迄一町一町に人を立て置き、書札を以てその意趣を申し通し、その夜中に五六度問答徃復して、終に多の女人を助け給ふ。總して若き時より、人の爲めに善きことなれば、進んて勢を出し給ひ、殊に人の惡しきを見ては、我を忘れて憐み給ふと也。
新字:又秀和尚曰く、この前、師と同しく大坂三郎九郎殿に至る折節、三郎九郎代官処の中、去る大身の庄屋、無実を以て人を滅さんとを工み、命議に逢ひ、却て我非に落ちたり。その頃、幾内の仕置を小堀遠江守にて、伏見に居り給ふに仍て、彼に言ひ遣はしければ、明日きつと庄屋一門男女共に死罪に行ふべしと云ひ来る。時に師聞て曰く、男子の義は尤也、女人の分は、何とそ助け度者也と有りければ、亭主曰く、公義よりの仰付也。下にては助け難きと也。師曰く、権現様以来、終に加様のことに女人迄殺し給ひたることなし。然るに三郎九郎代に殺し始めは、以来迄の例になるへし。是非共道理を申し達すへしと云つて、自ら日本国中の神に誓願を為し給ふ。扨て又大阪より伏見迄一町一町に人を立て置き、書札を以てその意趣を申し通し、その夜中に五六度問答往復して、終に多の女人を助け給ふ。総して若き時より、人の為めに善きことなれば、進んて勢を出し給ひ、殊に人の悪しきを見ては、我を忘れて憐み給ふと也。
書き下し
又秀和尚曰く、この前、師と同しく大坂三郎九郎殿に至る折節、三郎九郎代官処の中、去る大身の庄屋、無実を以て人を滅さんとを工み、命議に逢ひ、却て我非に落ちたり。その頃、幾内の仕置を小堀遠江守にて、伏見に居り給ふに仍て、彼に言ひ遣はしければ、明日きつと庄屋一門男女共に死罪に行ふべしと云ひ来る。時に師聞て曰く、男子の義は尤也、女人の分は、何とそ助け度者也と有りければ、亭主曰く、公義よりの仰付也。下にては助け難きと也。師曰く、権現様以来、終に加様のことに女人迄殺し給ひたることなし。然るに三郎九郎代に殺し始めは、以来迄の例になるへし。是非共道理を申し達すへしと云つて、自ら日本国中の神に誓願を為し給ふ。扨て又大阪より伏見迄一町一町に人を立て置き、書札を以てその意趣を申し通し、その夜中に五六度問答往復して、終に多の女人を助け給ふ。総して若き時より、人の為めに善きことなれば、進んて勢を出し給ひ、殊に人の悪しきを見ては、我を忘れて憐み給ふと也。
現代語訳
また本秀和尚が言われた。以前、師とともに大坂の三郎九郎殿のところに行った折、三郎九郎の代官所の中で、ある有力な庄屋が、無実の罪で人を滅ぼそうと企み、詮議にかかって、かえって自分が罪に落ちた。そのころ、畿内の仕置を小堀遠江守が承って伏見におられたので、そちらへ言い送ったところ、明日きっと庄屋一門の男女ともに死罪に処せよ、と言ってきた。そのとき師は聞いて言われた。男子のことはもっともだ。女性の分は、何とか助けたいものだ、とあったので、主人(三郎九郎)が言った。公儀からの仰せつけです。下では助けがたいのです。師は言われた。権現様以来、ついにこのようなことで女性まで殺されたことはない。それなのに三郎九郎の代で殺し始めたら、後々までの先例になるだろう。ぜひとも道理を申し達しなさい、と言って、自ら日本国中の神に誓願をされた。さてまた、大坂から伏見まで一町ごとに人を立てておき、書状でその趣旨を申し通し、その夜のうちに五、六度問答を往復して、ついに多くの女性を助けられた。おおよそ若いときから、人のために良いことなら、進んで精を出され、とりわけ人が悪い目に遭うのを見ては、我を忘れて憐れまれた、という。
解説

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