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驢鞍橋 / 卷下

本秀和尙の云はく、師は近代の佛法の中興也。其先き終に誰ても修行と云ふ沙汰したる人無し。この前、宇津宮物外和尙の所にて、明關、大愚、愚堂三人、講釋を聞き居給ふに、師俗の時至り、この三人の衆に向て、錄を見るに、どの錄にも大悟々道省悟修行抔を云ふこと有り、是は各の樣に講釋を聞き覺え、又人に講釋して聞かせた迄にて埒明くことなりや。古人達も左樣にめされたりやと、節々尋ね給ふ。爰に於て、何れも行き當り、心付て坐禪を專とし、修行の沙汰をし出されたり。

新字:本秀和尚の云はく、師は近代の仏法の中興也。其先き終に誰ても修行と云ふ沙汰したる人無し。この前、宇津宮物外和尚の所にて、明関、大愚、愚堂三人、講釈を聞き居給ふに、師俗の時至り、この三人の衆に向て、録を見るに、どの録にも大悟々道省悟修行抔を云ふこと有り、是は各の様に講釈を聞き覚え、又人に講釈して聞かせた迄にて埒明くことなりや。古人達も左様にめされたりやと、節々尋ね給ふ。爰に於て、何れも行き当り、心付て坐禅を専とし、修行の沙汰をし出されたり。

書き下し

本秀和尚の云はく、師は近代の仏法の中興也。其先き終に誰ても修行と云ふ沙汰したる人無し。この前、宇津宮物外和尚の所にて、明関、大愚、愚堂三人、講釈を聞き居給ふに、師俗の時至り、この三人の衆に向て、録を見るに、どの録にも大悟々道省悟修行抔を云ふこと有り、是は各の様に講釈を聞き覚え、又人に講釈して聞かせた迄にて埒明くことなりや。古人達も左様にめされたりやと、節々尋ね給ふ。爰に於て、何れも行き当り、心付て坐禅を専とし、修行の沙汰をし出されたり。

現代語訳

本秀和尚が言われた。師は近代の仏法の中興である。それ以前には、ついに誰も修行ということを取り沙汰した人はいなかった。以前、宇都宮の物外和尚のところで、明関、大愚、愚堂の三人が講釈を聞いておられたとき、師が俗人のころにやって来て、この三人に向かって、語録を見ると、どの語録にも大悟、悟道、省悟、修行などということがある。これは、あなた方のように講釈を聞き覚え、また人に講釈して聞かせるまでで決着のつくことなのか。古人たちもそのようにされたのか、と、折々に尋ねられた。ここにおいて、誰もが行き当たり、気がついて坐禅をもっぱらとし、修行ということを取り沙汰し出されたのである。

解説

本秀和尚は、正三こそ近代の仏法を再興した人だ、と言う。俗人だった正三が、講義を聞いていた大愚、愚堂ら後の名僧たちに、語録にある悟りや修行は、講義を聞き覚えて人に講義するだけで済むことなのか、昔の人もそうしたのか、と問い続けた。それで彼らは行き詰まり、坐禅と修行に本気で取り組むようになった、と。知識の伝達に終始していた当時の仏教界に、一人の俗人の素朴な問いが実践の火をつけた、という証言である。

この章句が説くこと

中興大愚愚堂素朴な問い実践講釈

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