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驢鞍橋 / 卷下

未の秋、江州にて何某殿、予に語て曰く、爰元に御入の時、我等朋輩衆と師の側に臥しけるに、師夜半に不圖起き、左右に向て、我只今頸を取られたるが勝つことは勝つた也。何と乘りめされたるかと有りし也。又次きの夜、師の修行の始末を尋ねけれは、師曰く、渺々たる滄海の一粟、我性の須臾なることを知ると云ふ句の乘りたる抔が始め也。實に淺間しき物を秘藏すること哉と、强く思はれたり。その時分の心相は、盲安杖の位也と。是れを始めとして、次第に修し上せ、心の易る段々を、宵より曉迄語り給ふ。我指を折て數ふるに、慥に六十一段と覺えたり。是れ十年以前のことや。さうこの間又大に替り給はんと也。

新字:未の秋、江州にて何某殿、予に語て曰く、爰元に御入の時、我等朋輩衆と師の側に臥しけるに、師夜半に不図起き、左右に向て、我只今頸を取られたるが勝つことは勝つた也。何と乗りめされたるかと有りし也。又次きの夜、師の修行の始末を尋ねけれは、師曰く、渺々たる滄海の一粟、我性の須臾なることを知ると云ふ句の乗りたる抔が始め也。実に浅間しき物を秘蔵すること哉と、強く思はれたり。その時分の心相は、盲安杖の位也と。是れを始めとして、次第に修し上せ、心の易る段々を、宵より暁迄語り給ふ。我指を折て数ふるに、慥に六十一段と覚えたり。是れ十年以前のことや。さうこの間又大に替り給はんと也。

書き下し

未の秋、江州にて何某殿、予に語て曰く、爰元に御入の時、我等朋輩衆と師の側に臥しけるに、師夜半に不図起き、左右に向て、我只今頸を取られたるが勝つことは勝つた也。何と乗りめされたるかと有りし也。又次きの夜、師の修行の始末を尋ねけれは、師曰く、渺々たる滄海の一粟、我性の須臾なることを知ると云ふ句の乗りたる抔が始め也。実に浅間しき物を秘蔵すること哉と、强く思はれたり。その時分の心相は、盲安杖の位也と。是れを始めとして、次第に修し上せ、心の易る段々を、宵より暁迄語り給ふ。我指を折て数ふるに、慥に六十一段と覚えたり。是れ十年以前のことや。さうこの間又大に替り給はんと也。

現代語訳

未の年の秋、近江で某殿が私に語って言った。こちらにおいでになったとき、我々朋輩衆が師の傍らで寝ていたところ、師は夜半にふと起きて、左右に向かって、私はただ今首を取られたが、勝つことは勝った。どう受け止められたか、とあった。また次の夜、師の修行の始末を尋ねると、師は言われた。渺々たる滄海の一粟、我が生の須臾なることを知る、という句が心に乗ったのなどが始めである。まことに浅ましいものを大切にしていることだな、と強く思われた。そのころの心の有様は、『盲安杖』の位である、と。これを始めとして、次第に修め上げ、心の変わった段階段階を、宵から明け方まで語られた。私が指を折って数えると、確かに六十一段と覚えた。これは十年前のことである。きっとその後、また大いに変わられたことだろう、という。

解説

正三の傍らで寝ていた武士たちに、正三は夜半に起きて、今首を取られたが勝った、と言った。また修行の歩みを尋ねると、蘇東坡の赤壁賦の、広い海の一粒の粟のように人生は短い、という句が心に響いたのが始まりだ、と語り、心の変化の段階を一晩中語り続けた。数えると六十一段あった、と。悟りを一度きりの出来事ではなく、何十もの段階を経て深まるものとして捉えていたことを伝える、貴重な証言である。
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この章句が説くこと

修行の段階六十一段赤壁賦人生の短さ盲安杖証言

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