驢鞍橋 / 卷上
師亦曰く、其邊にては若き衆、法を聞き伎量過ぐると云ふ沙汰なしや。我少しあぶなく思ふ也。彼人、沙汰無しと云ふ。師亦曰、其地の何某は此前死苦に責られける間、今に賴敷思ふが、彌修行募りて見ゆるや。彼人、今程沙汰もなしと云ふ。師曰、一一死死の來る事有りとも油斷し、娑婆すきに成りたらば、跡もなくなるへし。少々死の來る樣也共、ひしと死機に成る事は、功を積まずんば有るべからす。我も六十余りにして慥に是れを知ると也。
新字:師亦曰く、其辺にては若き衆、法を聞き伎量過ぐると云ふ沙汰なしや。我少しあぶなく思ふ也。彼人、沙汰無しと云ふ。師亦曰、其地の何某は此前死苦に責られける間、今に頼敷思ふが、弥修行募りて見ゆるや。彼人、今程沙汰もなしと云ふ。師曰、一一死死の来る事有りとも油断し、娑婆すきに成りたらば、跡もなくなるへし。少々死の来る様也共、ひしと死機に成る事は、功を積まずんば有るべからす。我も六十余りにして慥に是れを知ると也。
書き下し
師亦曰く、其辺にては若き衆、法を聞き伎量過ぐると云ふ沙汰なしや。我少しあぶなく思ふ也。彼人、沙汰無しと云ふ。師亦曰、其地の何某は此前死苦に責られける間、今に頼敷思ふが、弥修行募りて見ゆるや。彼人、今程沙汰もなしと云ふ。師曰、一一死死の来る事有りとも油断し、娑婆すきに成りたらば、跡もなくなるへし。少々死の来る様也共、ひしと死機に成る事は、功を積まずんば有るべからす。我も六十余りにして慥に是れを知ると也。
現代語訳
師はまた言われた。そちらでは、若い人々が法を聞いて、才気が過ぎているという噂はないか。私は少し危なっかしく思っている。その人は、噂はない、と言った。師はまた言われた。その地の何某は、以前死の苦しみに責められていたので、今でも頼もしく思っているが、いよいよ修行が進んでいるように見えるか。その人は、今のところ噂もない、と言った。師は言われた。たとえ一度や二度、死の思いが来ることがあっても、油断して娑婆好きになってしまえば、跡形もなくなってしまうだろう。少しばかり死の思いが来るようであっても、ひしと死の気迫そのものになることは、功を積まなければありえない。私も六十を過ぎて、確かにこれを知ったのである、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『墨子』公孟二三子、子墨子に復して曰く、「告子は仁を為すに勝えたり」と。子墨子曰く、「未だ必ずしも然らざるなり。告子の仁を為すは、譬うれば猶お跛にして以て長しと為し、隠にして以て廣しと為すがごとし。久しかる可からざるなり」と。
-
尚書・咸有一德七世の廟は、以て徳を観るべし。万夫の長は、以て政を観るべし。
-
論語・公冶長篇子曰く、晏平仲善く人と交わる。久しくして之を敬す。
-
老子・第23章希言は自然なり。故に飄風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。孰か此を為す者ぞ。天地なり。天地すら尚お久しきこと能わず、而るを況んや人に於いてをや。故に道に従事する者は、道者は道に同じく、徳者は徳に同じく、失者は失に同じくす。道に同じくする者は、道も亦た之を得るを楽しみ、徳に同じくする者は、徳も亦た之を得るを楽しみ、失に同じくする者は、失も亦た之を得るを楽しむ。信足らざれば、信ぜられざること有り。
-
論語・雍也篇子曰く、『回や、その心三月仁に違わず。其の余は則ち日月至るのみ。』
-
論語・顔淵篇子張、政を問う。子曰く、「之に居りて倦むこと無く、之を行うに忠を以てす。」