驢鞍橋 / 卷下
夜話の次で、一貫此頃、修行少しだるみたると云ふ。師云く、夫れは我知らぬこと也。我はじりじりとたゞ物次第强に强まり、終に六十餘にして、莫妄想の意不圖と乘りたり。只其時は、莫妄想莫妄想と躍つて有り度心にて有り、實に頸を切らるゝとも、に成て居さうに有りし也。然れとも打捨て、自己に取て還し、樣々こね來れども、今に糞袋の秘藏の念は休ます。扨ても實と云ふ物は深き物哉と也。
新字:夜話の次で、一貫此頃、修行少しだるみたると云ふ。師云く、夫れは我知らぬこと也。我はじりじりとたゞ物次第强に强まり、終に六十余にして、莫妄想の意不図と乗りたり。只其時は、莫妄想莫妄想と躍つて有り度心にて有り、実に頸を切らるゝとも、に成て居さうに有りし也。然れとも打捨て、自己に取て還し、様々こね来れども、今に糞袋の秘蔵の念は休ます。扨ても実と云ふ物は深き物哉と也。
書き下し
夜話の次で、一貫此頃、修行少しだるみたると云ふ。師云く、夫れは我知らぬこと也。我はじりじりとたゞ物次第强に强まり、終に六十余にして、莫妄想の意不図と乗りたり。只其時は、莫妄想莫妄想と躍つて有り度心にて有り、実に頸を切らるゝとも、に成て居さうに有りし也。然れとも打捨て、自己に取て還し、様々こね来れども、今に糞袋の秘蔵の念は休ます。扨ても実と云ふ物は深き物哉と也。
現代語訳
夜話のついでに、一貫が、近ごろ修行が少したるみました、と言う。師は言われた。それは私の知らないことだ。私はじりじりと、ただ物事次第に強まりに強まり、ついに六十余りで、莫妄想の意がふと乗った。ただそのときは、莫妄想、莫妄想と躍っていたい心で、本当に首を切られても、そのままでいられそうであった。けれども打ち捨てて、自己に取って返し、さまざまに練ってきたが、今もこの糞袋を大切にする念は休まない。さても、実有の念というものは深いものだな、と。
解説
修行が少したるんだ、と言う弟子に、正三は、自分はたるんだことはない、じりじりと強まり続けて、六十を過ぎて妄想するなという教えがふと身に乗った、と語る。首を切られても平気なほどの境地だったが、それも捨てて修行を続けた。それでも今なお、この身体を大切にする思いは消えない、執着というものは深い、と。たるみを嘆く弟子に、自分の長い道のりと、なお残る執着の深さを率直に示している。
この章句が説くこと
たるみ継続莫妄想執着の深さ晩年率直
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、実有と云ふ事離れがたき物也。我も人も家屋金銀万事目の前にきらりつと有る事なれば、如何にしても無しとは思はれぬ也。兎角本性を見ずんば、実有は醒むへからす。我も此時節には逢ひたれとも、自由に使ふ事はならす。平生此糞袋に眼を着けて、行住坐臥大小便裏、少しも指置かす、□すだわ事の苦体め哉と、急度睨付けて居る機强く備つて居る也。然れどもまだはらりつと隙は明かぬ也。乍去我見解も少しなれとも、是程にても亦使はるる事有りと也。
-
『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行と云ふ物、中中上り難き物也。我今十二時中坐禅ならさる事なし。喩へは大勢に交り、上下へかえし、相撲を取り、躍をゝとり、何程はね狂ひたりとも、坐禅の機少しもたじろくへからす。また好く若き時より心つきて自己を守りしが、其時分よりはや念には勝つてばかされざる也。夫れより次第よく修しつめ何たる事にもたじろかぬほどに仕付けたれども、まだ夫れでも生死の為めには不成、中々大儀な物也。
-
『驢鞍橋』卷下巳の七月十日暁云はく、仏像程に仕付て叶はす、我此の前は、强弓を引張つた如く有りけるか、今は左様になし。然れともたるむ筈なし。少し熟したるかとも思ふ也。又曰く、夢中ともいきをつくほどに大事に成り居れとも、まだあまのじやくか出る也。されどももはやことはせず、夫れは随分仕付て、面上はさせん也。强く守ていやな物哉いやな物哉もきつと睨付て居れども、何として此の体たが我物に成て、隙明かす、是れも普化の境界が乗りたて、修行やうたらぬと云ふことを知りたると也。
-
『驢鞍橋』卷上師亦曰く、其辺にては若き衆、法を聞き伎量過ぐると云ふ沙汰なしや。我少しあぶなく思ふ也。彼人、沙汰無しと云ふ。師亦曰、其地の何某は此前死苦に責られける間、今に頼敷思ふが、弥修行募りて見ゆるや。彼人、今程沙汰もなしと云ふ。師曰、一一死死の来る事有りとも油断し、娑婆すきに成りたらば、跡もなくなるへし。少々死の来る様也共、ひしと死機に成る事は、功を積まずんば有るべからす。我も六十余りにして慥に是れを知ると也。
-
『驢鞍橋』卷上夜話の次て、去る者我元より死をなにとも思はぬと云ふ。師聞て曰く、其はよき事にこそあらんずが、修行は上がるべからす。我は死ぬかいやなに因つて、生き通しにして死なぬ身と成りたさに修行はする也。死なぬ身とならぬ中は、世々生々をかけて修せんと思ふ機慥に持つ也。亦其方死をなにとも思はぬと云ふても、道人には非す、さありとも自己の主人六根自由する物を知るへからすと也。
-
『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行上らさる物也。四十年以前、我相州関本最乗寺に在りし時、小田原の沖に大蛇出づと云ふ沙汰有り、我聞きて小舟に乗り行いて、造作無く角をひんもがんずと思ひし也。亦富士の人穴抔も、手もなく通らんずと思ひたる也。若き時より如是强く用ゐ来れども、何の用にも不立、今思ふに皆是れ実を以てなす処也。今はいや也。只憂ふて大事也。又曰く、よう若い時から化者幽霊抔は物にはせなんだと也。