驢鞍橋 / 卷下
或人語て云はく、師予にしめして曰く、必すばか者を利根者にめさるゝなと云ふ。ばか者あり、長刀を指しはたらかして、道を一はいに成て來る者あり、然れば人得てさはりたがる者也、さはるに仍て、必ずかれ機を以て、はや利根になる也。只ばか者をばかまはぬがよき也。惣して十に八九は、堪忍してつまりたる時、つゝきれたるかよき也
新字:或人語て云はく、師予にしめして曰く、必すばか者を利根者にめさるゝなと云ふ。ばか者あり、長刀を指しはたらかして、道を一はいに成て来る者あり、然れば人得てさはりたがる者也、さはるに仍て、必ずかれ機を以て、はや利根になる也。只ばか者をばかまはぬがよき也。惣して十に八九は、堪忍してつまりたる時、つゝきれたるかよき也
書き下し
或人語て云はく、師予にしめして曰く、必すばか者を利根者にめさるゝなと云ふ。ばか者あり、長刀を指しはたらかして、道を一はいに成て来る者あり、然れば人得てさはりたがる者也、さはるに仍て、必ずかれ機を以て、はや利根になる也。只ばか者をばかまはぬがよき也。惣して十に八九は、堪忍してつまりたる時、つゝきれたるかよき也
現代語訳
ある人が語って言った。師が私に示して言われた。決して、ばか者を利口者にしなさるな、と言う。ばか者がいて、長刀を差して振り回し、道いっぱいになって来る者がいる。そうすると、人はとかく触りたがるものである。触るので、必ずその者は気迫を得て、もう利口になる。ただばか者は構わないのがよい。おおよそ十に八、九は、堪忍して、行き詰まったときに、ぷっつりと切れるのがよい。
解説
愚か者を利口者にしてしまうな、と正三は言う。長い刀を振り回して道いっぱいに歩くような無法者に、人はつい突っかかる。すると相手は、相手にされたことで勢いづき、ますます知恵をつける。愚か者は相手にしないのが一番で、たいていのことは我慢し、どうしても行き詰まったときにだけきっぱり断ち切ればよい、と。挑発的な人やネット上の荒らしへの対処としても、そのまま通じる知恵である。
この章句が説くこと
相手にしない挑発堪忍無法者対処断ち切る
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷下一日、去る人来り、我利根を以て諸人に知られ、大名衆にも目懸けらるゝと、さまざま自讃す。師聞て曰く、利根たては、ばかゝする也。人に知られたがる者は、何某か何某かと言を懸られて、誰れにも彼れにもがゞむ也。持たさる主にかゝみ通しにして自慢する者也。人の脇より笑ふ処を知らず。我九太夫と云ひし時、人に知らるゝことをみめにせさる間、御番処にても、大名小名にかゞまず、只御番計をきつと勤めて、平生隙にて居たると也。
-
『驢鞍橋』卷上一日去る僧云ふ、何某殿は殊の外利根人也。志も少し有り、教化有るべし。師曰く、あれほど利根にては仏法に入られてこそ。亦僧曰、誠に利根に碍られて聞き得べからす。師曰、其儀にあらず、夫れは随分聞くべし。然れども何と聞きてもあの利根すたるべからす、聞くほと利根增して、利根仏法に成つて果すべし。扨仏法と云ふは鈍をも利根をも打捨つる事也。
-
『驢鞍橋』卷下或人の云ふ、師俗の時、近付に辻切を作す者有り。去る時師彼に向て云ふ、其方は辻切を作すと云ふか、定めて虚なるべし。辻切は作し得べからずと有りければ、彼の人云ふ、如何にも切る也。師いや辻切ではおじやるまい、辻切は成るまじと云ひ給へば、彼の人出て、さらは切て見せ申さんと云つて、同道にて行き、人離れなる所に影取て居られたり。時に町人二人通る也。彼の人出て切らんと云ふ、師云く、是れは無用なり。我指図する者を切らるべしと留め給ふ。其後又千石計取る風情の人通る時に、師いさあれ切れと云つて、既に出てんとし給ふ。彼の人驚き、扨て扨てそこつなる人哉と云つて、取留めて出てず。師云く、扨て扨てでかい腰抜哉。我は切らんと云ふ、其方腰を抜かして切得ず、腰が抜けては辻切は成らぬ物也と申したるは是れ也。如是の人を切得ずんば、向後辻切無益也。先の様なる者を切るは、比丘尼法師切りたる同前也。侍たる者か、加様の者切るものかと耻かしめ給へば、彼の人大に非を知り、一腰を抜き、かねうつてふつつと辻切をやめられたること有りと也。
-
『驢鞍橋』卷下夜話に日く、人皆人を育ることを知らず、喩へば人有り、我化者幽霊をも何とも思はぬと云はば、あはれ出して見せたい迄、跡も見ずに逃けんずかと云て、はや人を推崩す也。是れ悪きこと也。若し左様の者有らは、扨ても好き機質哉。夫夫なるほど强く用ひたるか好きそと機を付て育つへき也。是れ万事に亘ること也。又曰く、愚なること世に多し、人皆子を能く育つることを知らず、まだ匍廻る頃より匍てこい、之れくれん、あれくれんと云て、只もの欲を授くる也。
-
『驢鞍橋』卷上一日源長老曰く、何某は師の意を得たりと存す、弥方便有るへし。師曰く、よう心得めされよ、あれはくつとぽつ籠んで置く計り也。能き処は我と持て居る也。始終召しあげぬ一つ也。長老は人を損ひめされんず人哉と也。
-
『驢鞍橋』卷上師亦曰、其方の性はあぶない性也。人に褒られて頓て鼻を長くし、角をはやしてかけ廻はる性なり。でも其方を褒めぬ人有るへからず。我様にぼつ下して、悪く云ふ者有るへからず。我に逢ひめされたる功徳には、搆へて人に損はれめさるゝなと、是れを授け申すぞと也。晩に至て衆に語て曰、昼の者は理過ぎたる者に非すや、あのやうな格は仏法に入り難し。云へば云ふ程理が長ずる也。あれは棒でなけれは成らぬなり。云ふ程の事を扣き詰め扣き詰めせば、少しは好く成るべし。我師家を立つるならば、接し様もあれどもと也。時に一僧曰、某甲抔はあのやうな病の多き者には出合ふ事もいや也。師聞て曰、我は成程六け敷者が能き也。正三を詰める程の人に逢ひたけれども、無仕合にて今迄合はぬ也。あはれ我をせりつむる人ほしゝと也。