驢鞍橋 / 卷下
一日、去る人來り、我利根を以て諸人に知られ、大名衆にも目懸けらるゝと、さまざま自讃す。師聞て曰く、利根たては、ばかゝする也。人に知られたがる者は、何某か何某かと言を懸られて、誰れにも彼れにもがゞむ也。持たさる主にかゝみ通しにして自慢する者也。人の脇より笑ふ處を知らず。我九太夫と云ひし時、人に知らるゝことをみめにせさる間、御番處にても、大名小名にかゞまず、只御番計をきつと勤めて、平生隙にて居たると也。
新字:一日、去る人来り、我利根を以て諸人に知られ、大名衆にも目懸けらるゝと、さまざま自讃す。師聞て曰く、利根たては、ばかゝする也。人に知られたがる者は、何某か何某かと言を懸られて、誰れにも彼れにもがゞむ也。持たさる主にかゝみ通しにして自慢する者也。人の脇より笑ふ処を知らず。我九太夫と云ひし時、人に知らるゝことをみめにせさる間、御番処にても、大名小名にかゞまず、只御番計をきつと勤めて、平生隙にて居たると也。
書き下し
一日、去る人来り、我利根を以て諸人に知られ、大名衆にも目懸けらるゝと、さまざま自讃す。師聞て曰く、利根たては、ばかゝする也。人に知られたがる者は、何某か何某かと言を懸られて、誰れにも彼れにもがゞむ也。持たさる主にかゝみ通しにして自慢する者也。人の脇より笑ふ処を知らず。我九太夫と云ひし時、人に知らるゝことをみめにせさる間、御番処にても、大名小名にかゞまず、只御番計をきつと勤めて、平生隙にて居たると也。
現代語訳
ある日、ある人が来て、自分の利口さで諸人に知られ、大名衆にも目をかけられている、とさまざまに自慢した。師は聞いて言われた。利口ぶるのは、ばかにされることである。人に知られたがる者は、某殿、某殿と声をかけられて、誰にも彼にもかがむのである。召し抱えてもくれない主人にかがみ通しで、それを自慢する者である。人が脇から笑っているところを知らない。私が九太夫と言っていたころは、人に知られることを誉れとしなかったので、御番所でも大名小名にかがまず、ただ御番ばかりをきちんと勤めて、平生は暇でいたのである、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上夜話の次で、去る者或は行脚し或は山居す抔と、様々我行を自讃す。師呵して曰く、其方左様にして何事を仕出したぞ、むだ辛労して詮無き事を耻ぢず、手柄の様に云ふ。人か大略にも思ふかと思つて云ふと見えたり。汝か事を入札にさせば、一人でも能く入るゝものあるべからす、我を知らぬ者哉。因に向衆曰く、総して若き衆もよう心得めされよ、人は能く思はぬに自ら慢して、人もよう思ふと思つてたわけを尽す者也。自分を顧みて余所の笑ひを知るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上夜話の次で去る者、何某殿は大名に似合はぬ欲深き人なりと云ふ。師聞て曰く、其方は我耻を云ひありく人哉。人を欲深い抔と云ふは、必ず人に用有る者の云ふ事也。我は終に今迄人を欲深しと思ひたる事なし。只世の中には我独り欲深き者と思ふ也。又彼者何某は大国の執権に似合はぬ無さばきなる人なりと云ふ。師曰、扨も非を知らぬ人哉。其方に大国をさばかせたらば、あの百分が一も成るべからす。我々の百石二百石の中さへ道らしくさばき得ぬ人々か、他の上計りを云はるゝは疎なる事也。只我を知らぬ物也。我は毎物扨ても成るまい事哉と思はるゝ也。然る間終に人を悪いと思ひたる事なし。只世の中には我独り悪き者と計り思はるゝ也。
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『驢鞍橋』卷上亦良有て曰く、此分に於ては正三は心安し、人に尊ばるゝと云ふ事髄に透つていや也。天然と人に負くる性にて、何たる賤しき者よりも下に成りて居る位有り、少しも能く成りたると思はず、つんど本の九太にて居る也。考へて見れば人に增したる事もあり、語抔の僉議に臨んでは誰が云ふを聞てももどかはしゝ、古人の言句さへさして有難くも思はぬ事多し。然れども平生唯おそい物に成つて居る也。是程不思議なる事なし、よう尋ぬれば是れも此糞袋がわるうて居ると、亦何とも成らぬとが本に成つた也。時に人問、古人の語にも錯り有りや。師曰く、祖師と云ふても仏にてはなし、錯りなくては。其は流石御仏也、何と聞いても仏語には、いなと思はるゝ事一言でもなしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る者来て曰く、何某和尚は、道者と云はれ給ふか、又此頃は悪名世間に語り伝ふと云ふ。師聞て曰く、左も無くして、人に道者と貴はれたる咎遁れ難かるへし。天道是れを許さんや。夫れほど又世間に耻を曝らして、その報ひを返さで叶はす。或は機違ひ、或は死苦病苦强かるへし。総じて徳無くして人に貴はるゝ程の咎なし。又曰く、天然と通力抔有り、奇特の業を作す性は、悪の性、化物性也。たとひ通有りとも、一悪をも断替かする為めにも成るへからす、心は人に易らすして人に貴はるゝこと、大なる咎也。
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『驢鞍橋』卷上時に或人云、此比去る処に遁世者有り、誠に彼等も異風に見えたり、乍去理を説く事明なり。師聞て曰、云ひ習へば如何程の事も云ふ物也。今時の仏法者理窟に落ちて、是と思ふ諸人も、是れを貴き事に思つて、此人を貴ぶ也。誠に理窟程用に立たぬ物なし、却て大なる怨と成る物也。我も若き時此に錯りたる事有り、必ず理窟に落ちめさるゝなと也。
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『驢鞍橋』卷上一日或る俗来て曰く、承り及ふ故に是れ迄伺候仕る、一句示し給へ。師曰く、一人虚を伝ふれば、万人実と伝ふとて何者かおどけ者有りて、正三こそ名誉者なれ抔といへば、末々に聞き伝へ、扨は空をも翅り、光をも放つか抔と思ひ、正三見物に来り、変も無き老人なるを見て、皆興を醒さるゝ也。誠に我何の変もなき土禅門也。只死度くも無き間、何とぞして殺さるゝ事有りとも、何とも思はす、頸を指出して自由に死ぬ程に成りたさに修する也。されとも死は置いて餓鬼畜生を出でぬ也。是れを出度く思ふ心は、何とも思はず居る者には增さるへき歟。別に人に增りたる事無し。其方も聞かんと思はゝ一向のしろうとに成りめさるへし。彼者、秘し給ふと思ひ弥示し給へと云ふ。師曰く、我仏法の能き事を知らず、只我悪敷事を能く知りたる也。我友に成り、出入めされば、何時も我処に有る餓鬼畜生を懺悔して聞かせ申すべし。実に是の外によき事を知らず、ひげして云ふかと思ひめされんずな。無間に沈むほうぞ知らぬ也。