驢鞍橋 / 卷下
師の故傍輩何某殿語て曰く、正三は、若き時より僧好、寺好にて、如何なる僧にも、僧にてさへあれは近付け給ふ。始め權現樣に仕へ給ふが、少し奉公の暇あることありければ、家を息男に讓り、下津間多寳院、關本最乘寺抔に引込て、僧に交り玉ふ。又南泉寺大愚和尙の渡にも寮舍を搆へて、久しく居り給ふ。其後又再ひ世に出て、台德院樣に仕へ、便ち關が原陣、同大坂兩陣に忠功を作し了て、終に出家し給ふ也。
新字:師の故傍輩何某殿語て曰く、正三は、若き時より僧好、寺好にて、如何なる僧にも、僧にてさへあれは近付け給ふ。始め権現様に仕へ給ふが、少し奉公の暇あることありければ、家を息男に譲り、下津間多宝院、関本最乗寺抔に引込て、僧に交り玉ふ。又南泉寺大愚和尚の渡にも寮舎を搆へて、久しく居り給ふ。其後又再ひ世に出て、台徳院様に仕へ、便ち関が原陣、同大坂両陣に忠功を作し了て、終に出家し給ふ也。
書き下し
師の故傍輩何某殿語て曰く、正三は、若き時より僧好、寺好にて、如何なる僧にも、僧にてさへあれは近付け給ふ。始め権現様に仕へ給ふが、少し奉公の暇あることありければ、家を息男に譲り、下津間多宝院、関本最乗寺抔に引込て、僧に交り玉ふ。又南泉寺大愚和尚の渡にも寮舎を搆へて、久しく居り給ふ。其後又再ひ世に出て、台徳院様に仕へ、便ち関が原陣、同大坂両陣に忠功を作し了て、終に出家し給ふ也。
現代語訳
師のかつての同僚である某殿が語って言った。正三は若いときから僧好き、寺好きで、どのような僧でも、僧でさえあれば近づけられた。始め権現様(家康)に仕えられたが、少し奉公の暇ができたので、家を息子に譲り、下津間の多宝院や関本の最乗寺などに引きこもって、僧と交わられた。また南泉寺の大愚和尚のもとにも寮舎を構えて、長く住まわれた。その後また再び世に出て、台徳院様(秀忠)に仕え、関ヶ原の陣、大坂の両陣で忠功を立て終わって、ついに出家されたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷下我四十余の時、頻りに世間いやになりける間、御穿鑿有らは、無理に世間いやに候間、如是罷成、曲事と思召さば、御成敗あれと罷出て、腹切らんと思定め、不図剃りたり。番頭や御老中に、九太夫こと機違に罷成りたりと御申上頼み奉ると云ひければ、いたはしや、御老中の扨て扨ていなことめされたり、人のことを能くこそ取成物なれ、機の違はぬ人を気違とは取成されてこそと仰せありしが、時を見、御機嫌を窺ひ、夜咄の次に鈴木九太夫不図道心を起し候と申し上けられければ、台徳院様は如何思召されたるか、元より御慈悲にて夫は道心と云ふてば無い、隠居じや迄よと仰せ出されたり。彼の老中悅ひ我を喚ひ何と有らんかと思ひ、加様なる気遣したることなし。然るに如是の忝き御意有らんや。急き継目を申させよと有るに依て、俄に今の九太夫を御礼申させたり。総而切端なくて用に立つへからず、我も初めは如是してすりけるか、今は切行て、修行には結句奉公よしと思ふ也。
-
『驢鞍橋』卷下正三は俗に在りし時の名乗也。出家の後、亦法名とす。本国は紀州熊野、生国は三州姓は穂積、鈴木氏の長子なり。先祖三州に至るに及んて、松平の幕下に属して弓箭の功を致すこと、師に至る迄数代也御大将一天を掌にし給ひて、武官隙あるに及んて遁世す。師述る所の書、万民徳用、麓草分、盲安杖、二人比丘尼、念仏草紙、破きりしたん、因果物語等也。以上の七部は、三宝の光を以て国土を照し、普く群生を度せんと欲す、師大願の至要也。
-
『驢鞍橋』卷上正三老人行脚の後、三州石平山に居して生を利すること年久し。末後に慶安元年戊子の夏、関東江城に到て諸人を接引す。予胡乱に其語を認めて阿爺の下頷と成す者也。
-
『驢鞍橋』卷下同十九日、御幡下衆何某殿子息来り剃髪を乞ふ。師聞て曰く、我元より家職を捨て法を求むると嫌ひ也。殊に侍のおつきる抔は、かじけた心也。修行の為めには奉公に過きたるはなし。出家しては、却て地獄を作らるべし。奉公則ち修行なりと再三示し給ふ。
-
『驢鞍橋』卷下又我後何と為たらは、人に何云はれん抔と思ふことなし。右の如く出家して諸方を行脚し、野山に臥し、衣食を詰め、又一頃は、律僧に成て身を責め、三州千鳥山に在て律を行ひたる時分は、麦粥麦飯にて送りける、如是しける間、風雨に身をさらされ麁食に脾胃痩れて病起り、既に大事に及ふ、様々療治を加ふれとも本復せす、余多の医者尽く放す。我も一定死に究めけり。位詰に成り、何とも活きらるべき様なかりければ、近里の、親類共皆走聚る、我弟大略の医者にて有りけるが、此の由を聞き来りて言ふは、薬も何も入らぬ、只食養生にて能く候はんと云ふ。其故を問へば、肉食のこと也と云ふ。我疾も云はさることよ、養生ならば、死人をも喰ふべしと云つて之を用ゆ。二年程かゝりて、ずきと本復す、病愈て薬も用なければ、又潔斎して今日に及べり。その比人に悪しく云はれたると言ふこと、中々のこと也。もはやその時危く死にけれども、耻知らすの正三なればこそ、生命を養ひ立て、今日に存命して、修行も大略には仕上せたれ。総而切れた心なくしては、物に成せぬと也。その後も再三彼の人出入し、教を聞かれけるが、次第に得心して、終に出家を止り、専ら奉公を修行に用ひられたり。
-
『驢鞍橋』卷下一老兄、予に語て曰く、師この前、三州にて一大事に責められ、黄なるたんを吐き、近処の者驚くほどのといきをつき給ふ。傍よりは直に胸中燃え給ふかと思はれたり。その時分は暁方一睡外眠り給はす、我らに向て、扨ても心安く眠ると哉と、夜毎に仰せ有りしと也。