驢鞍橋 / 卷上
正三老人行脚の後、三州石平山に居して生を利すること年久し。末後に慶安元年戊子の夏、關東江城に到て諸人を接引す。予胡亂に其語を認めて阿爺の下頷と成す者也。
新字:正三老人行脚の後、三州石平山に居して生を利すること年久し。末後に慶安元年戊子の夏、関東江城に到て諸人を接引す。予胡乱に其語を認めて阿爺の下頷と成す者也。
書き下し
正三老人行脚の後、三州石平山に居して生を利すること年久し。末後に慶安元年戊子の夏、関東江城に到て諸人を接引す。予胡乱に其語を認めて阿爺の下頷と成す者也。
現代語訳
正三老人は行脚を終えたのち、三河の石平山に住んで、長年人々を導いてこられた。晩年の慶安元年(一六四八)の夏、関東の江戸に出て、多くの人を導かれた。私はいい加減にその言葉を書き留めて、驢馬の鞍を父親の顎の骨と取り違えるような愚かなことをしている者である。
解説
『驢鞍橋』は、鈴木正三(一五七九〜一六五五)が晩年に江戸で語った言葉を、弟子の恵中が書き留めた語録である。正三は三河の武士で、関ヶ原や大坂の陣に出陣したのち、四十二歳で出家した。書名は、驢馬の鞍の前輪(鞍橋)を父親の顎の骨と見間違えるという禅語から取られ、師の真意を取り違えて書き留めているかもしれない、という編者の謙遜である。記録する者の自戒から始まる語録という点に、この書の誠実さがある。
この章句が説くこと
鈴木正三恵中聞き書き謙遜序驢鞍橋
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・修身・損ずるは甚の體ぞ今人苦だ謙るを肯んぜず。只だ架子を拿へ得て定まり、以て體を存すと為す。夫子子張に政に從ふを告ぐるに、小大と無く眾寡と無く敢へて慢る無きを以て驕らずと為す。而して周公相と為りて、吐握して白屋に下ること甚だし。父師有道の君、知らず甚の體をか損ぜしや。若し名分の在る所ならば、自ら是れ貶損し得ず。
-
『夜船閑話』本文少焉、幽眼を開いて熟々視て、徐々として告げて曰く、我は是山中半死の陳人、櫨栗を拾ひ食ひ、麋鹿に伴つて睡る。此外更に何をか知らんや。自ら愧づ、遠く上人の来望を労することを、予即ち転々咨叩して休まず。
-
『呻吟語』内篇・修身・謙も禮に中らざれば損する所亦た多し或るひと問ふ、「傲は凶德と為らば、則ち謙は吉德なるか」と。曰く、「謙は真に是れ吉なり。然れども謙も禮に中らざれば、損する所亦た多し」と。上に在る者非禮の謙を為さば、則ち名份を亂し紀網を紊し、久しければ法令行はれず。下に在る者非禮の謙を為さば、則ち賤辱を取り氣節を喪ひ、久しければ廉恥地を掃ふ。君子の人に接するは未だ嘗て謹飭ならずんばあらず、身を持するは未だ嘗て正大ならずんばあらず。孔子曰く、「恭にして禮無ければ則ち勞す」と。又た曰く、「巧言令色足恭は、某も亦た之を恥づ」と。
-
『呻吟語』内篇・存心・自家の好き處は幾分を掩藏す自家の好き處は幾分を掩藏す、這れ是れ涵蓄して以て深きを養ふなり。別人の好からざる處は幾分を掩藏せんことを要す、這れ是れ渾厚にして以て大なるを養ふなり。
-
説苑・辨物斉の桓公北のかた孤竹を征す。未だ卑耳谿中に至らざること十里、闟然(こうぜん)として止まり、瞠然(どうぜん)として視ること頃(しばら)く有り、矢を奉じて未だ敢えて発せず。喟然として歎じて曰わく、「事其れ済(な)らざるか。人の長さ尺なる有り、冠冕大人の物具わる。左袪(きょ)して衣し馬前を走る者あり。」管仲曰わく、「事必ず済らん。此の人は道を知るの神なり。馬前を走る者は導くなり。左に衣を袪する者は、前に水有るなり。」左方より渡り、行くこと十里にして果たして水有り、遼水と曰う。之を表し、左方より渡れば踝(くるぶし)に至り、右方より渡れば膝に至る。已に渡りて、事果たして済る。桓公馬前に管仲を拝して曰わく、「仲父の聖此くの如きに至る、寡人罪を得ること久し。」管仲曰わく、「夷吾之を聞く、聖人は先に無形を知る、今已に形有りて乃ち之を知る、是れ夷吾教えを承くるに善きなり、聖に非ざるなり。」
-
老子 第9章持ちて之を盈たすは、其の已るに如かず。揣(き)りてその鋭を為すは、長く保つ可からず。金玉満堂、之を能く守る者莫し。富貴して驕れば、自ら其の咎を遺す。功を成して身を退く、天の道なり。